アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図3

第4次中東戦争 1973年 ラマダン戦争10月戦争

1973年10月、エジプト・シリア両軍がイスラエルを奇襲した。
エジプト軍がシナイ半島の、シリア軍がゴラン高原のイスラエル軍に一斉に砲爆撃をあびせた。
イスラエルは、誇りである戦車部隊を繰り出して反撃に出たが、エジプト軍歩兵の操作するソ連製の
対戦車ミサイルの前に48時間で550両の損害を出して敗退
した。前回の戦争で主役を果たした空軍も、
エジプトが森のように密集させて配備したソ連製の地対空ミサイルの餌食となり、開戦初日だけで50機も失った

イスラエル国防軍の歴史における初めての敗北。そして、ナチスがポーランド侵攻において機甲師団
を使用して以来、初めて戦車部隊が歩兵に破れた戦闘
であった。

この事実は中東地域を越えた重要性をもっている。国際政治の観点から、兵員数と戦車の数で推測する
軍事バランスに疑問符が付いた
からである。

石油危機

これまで3回の戦争後の調停に興味を示さなかったアメリカが、この戦争後、中東和平に大きな勢力を傾けた。
その理由は、戦争の途中で、アメリカのイスラエルに対する緊急援助への対抗措置としてとられた
アラブ産油国の、アメリカ・非友好国(日本含む)への輸出禁止である。

ユダヤ人国務長官 キッシンジャー
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うーん、頭良さそうな感じだが、顔が「私タダモノじゃありません」って言ってるな。

第4次中東戦争において、イスラエルが再度勝利を収めてしまえば、アラブ側はかたくなな態度を取って、
和平を拒否するだろうと考え、イスラエルの圧勝を避けるべく画策した。一方、エジプトのサダトもシナイ半島
を一部奪回し、それをテコに、イスラエルとの和平を始めようとする「戦争による平和の遂行」であり、
キッシンジャーの狙いと一致していた。

当時、ニクソンがウォーターゲート事件により、没落寸前であり外交余力が無く、大統領のコントロールを受ける
ことがなかった。また国務省と対立することの多い、国家安全保障委員会も自分自身で兼任していたため、
反対の声を上げることがなかった。キッシンジャーは史上最も独立性を発揮した国務長官であった。

キッシンジャーは、最初から最終的な合意をアラブ諸国とイスラエルの間に成立させる意思は無かった。
あくまでエジプトとイスラエルの単独和平で、アラブ最大国家エジプトを他のアラブ諸国から切り離すことで、
イスラエルの軍事的優位を固め、シナイ半島を除くイスラエルの占領地の維持を可能にすること
であった。

レバノン戦争

レバノンは、宗教的にキリスト教とイスラム教のさまざまな宗派が入り乱れており、人口の9割を占める
イスラム教徒は、旧態依然の権力の分割、つまりキリスト教優位のシステムに不満を持っていた。
そこにヨルダン内戦で敗れたPLOが乗り込んできた。PLOはベイルートに本拠を置き、レバノンの中の
独立国家のように振舞った。
PLOの存在は宗派間バランスをいっそう危うくし、イスラム教徒とパレスチナ人 対 キリスト教徒
の内戦に突入し、前者が後者を圧倒し、レバノンに親パレスチナ人政権の誕生が目前に迫っていた。
ところがシリア軍が、キリスト教徒側にたって参戦し、PLOとイスラム教徒軍の野心を砕いた。
シリアのアサドは、自らの影響力が全く及ばない政権がレバノンに誕生することを嫌っていた。
レバノンがPLO国家になればイスラエルとの戦争は必死であり、シリアがそれに巻き込まれることも不可避となる。
シリアは、適当なところで攻撃をやめた。双方の力が均衡しているのが、シリアの影響力の維持のためには
最善であったからである。

PLOはレバノン全土制圧の夢は破れたものの、シリア勢力圏を脅かさない範囲で、イスラエルへのゲリラ出撃を開始した。
シーア派にとって、パレスチナ人は招かれざる客であり、もう一人の招かれざる客イスラエル軍をつれてくる迷惑な存在であった。
このPLOの攻撃により、イスラエル軍はレバノン国境を越えて北上、PLOゲリラを一蹴し、アラブ側は
パレスチナ・ゲリラを一掃したことをかえって歓迎し、唯一立ち向かったのはシリア軍であった。

イスラエルは無人飛行機をおとりとして飛ばし、地対空ミサイルの周波数を探知することで、イスラエル空軍が
正確にシリアの基地を爆撃した。対空ミサイル問題が解決し、イスラエル空軍には一機の損失も無かった。
シリアが使用していたソ連製兵器に対し、イスラエルはアメリカ製の主要航空機F15を使い、前回のソ連製
ミサイルの餌食になったF4との違いはコンピューターの小型化というソ連が完全に後れを取った部門であった。
このソ連の軍事技術に対する信頼感の崩壊が、ソ連指導者層をしてぺロストロイカに踏み切らせた一つの要因
ではないかと推測している。

イスラエルが軍事的に動きやすかった理由としてイラン・イラク戦争があげられる。
1979年のイラン革命はイスラエルにとって大きな打撃で、シャー時代のイランは、イスラエルと密接な関係を有する
実質上の同盟国であったからだ。ところがこの革命政府の誕生により、アラブ 対 イスラエルとイラン
から、アラブとイラン 対 イスラエルという構図に変わった。
ところが1980年イラクがイランを攻撃し、イスラエルはイラクの軍事力がシリアの支援に向かうのを心配することなく
レバノンへ侵攻できた。イランとの戦争を始めたサッダーム・フセインはイスラエルのベギンの実質上最大
の同盟者であった。

大変興味深い人物、キッシンジャーですが、もっと細かく書いている方もいらっしゃいました。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/107686887.html#trackback

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