プーチンのロシア

ドキュメント・プーチンのロシア NHKスペシャルセクション (NHKスペシャルセレクション)
ドキュメント・プーチンのロシア NHKスペシャルセクション (NHKスペシャルセレクション)山内 聡彦

NHK出版 2003-08-29
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裕福ではありませんでしたが、自分を不幸だと感じたことはありませんでした。私の少年時代は、ソ連時代や今のロシア
市民と基本的に同じか少し良かったと思います。重要なのは私が暮らした物質的な条件ではなく、精神的なことでした。
両親は私を非常に愛してくれました。それをいつも感じていました。両親にとても感謝しています。この愛情が私の性格を
形成した基本的なものだった
と思います。


この本は極めてプーチンに好意的に書かれています。しかし日本人にどう思われているかはっきり言わせてもらいます
と、世界の○クザの頂点に君臨する男。
この愛情が私の性格を形成した?? あんたなんか勘違いしてない?? 世界を代表する危険人物という認識ですよ!
プーチン首相、ペン放り出して財閥社長を震え上がらせる



プーチン武勇伝

1985年プーチンは東ドイツのドレスデンに赴任した。東ドイツの秘密警察シュタージと緊密に連絡を取りながらNATO諸国
の政治団体あ政党、指導者などに関する情報を入手し、評価・分析する任務に従事した。

このドレスデンでプーチンは大きな時代の荒波にさらされることになる。1989年11月9日、東西冷戦の象徴だったベルリン
の壁が崩壊。その26日後の12月5日、大勢の市民は、彼らを長年抑圧してきたシュタージのドレスデン支部に押しかけ、
事務所を占拠した。目的はシュタージが長年にわたって盗聴した個人記録を取り戻すことだった。シュタージを占拠した
群衆およそ1000人の怒りはそのままそこから100メートル離れたKGBドレスデン支部に向けられKGB支部も取り囲まれた。
当時この出来事を目撃していた近くに住むジークフリート・ダナト・グラプスさんは当時の様子を次のように証言した。

「襲撃が始まった時、警備員はあわてて建物に駆け込みました。その後すぐにプーチンが階段を下りてきて群集に向かっ
てこう言いました。『われわれは武装している。不法侵入すれば発砲する』。この言葉を聞いた市民たちは皆、縮み上がっ
て退散しました

実際、状況はかなり緊迫していたようだ。自伝によると、プーチンはこの時、群集がKGB支部に乱入することを恐れ、連絡
相手のリストや諜報員のネットワークなど書類をすべて焼却し、高い価値のあるものをモスクワに運んだ。「群集は攻撃的
な雰囲気に満ちていた。私は駐留ソ連軍に出動を要請した。しかし、彼らはこういった『われわれはモスクワの命令が無い
限り何もできない。モスクワは何も言ってこない。』彼らがようやくやってきたのは数時間後だった。
しかし、モスクワが何もいってこないという返事で、私はソ連は長くないと感じた。消滅しつつあると。ソ連邦が苦しんでいる
のは明白だった。それは権力の麻痺という治癒する見込みのない末期の病気だった。



エリツィン政権を大きく揺さぶったチェチェン問題

チェチェンはロシア南部のコーカサス地方にあるイスラム系の住民が多く住む人口およそ100万人の共和国である。
第二次大戦末期にドイツに加担したとして、スターリンによって、民族ごと中央アジアに強制移住させられ、大勢の犠牲者
を出した過酷な歴史がある。1991年ドゥダーエフ大統領の下、民族自立を掲げ、独立を宣言したが、石油パイプラインが
通る重要な戦略拠点
であることもあってロシアは独立に強く反対した。チェチェン内部での反ドゥダーエフ勢力による政権
奪取が失敗に終わった直後の1994年12月にエリツィンはチェチェンにロシア軍を侵攻させた。第一次チェチェン戦争であ
る。1996年に停戦の合意をしたものの犠牲者はロシア側・チェチェン側合わせて8-10万人にのぼり、ロシアの世論はチェ
チェン側に大きな同情を示し、チェチェン戦争の敗北と急激な市場経済化による政治経済の混乱でエリツィンの人気は一
気に落ち込んだ。

1999年、エリツィンの後継者探しに政治的な動きが再び活発になる中、チェチェン共和国では不穏な動きが高まっていた。
このチェチェンでの動きが、ロシアの政治状況やプーチンを取り巻く状況を一変させることになるのである。ロシアからの
分離独立を目指すチェチェン共和国にはアフガニスタンやアフリカ、アラビア半島などからイスラム武装勢力が次々と終結
していた。チェチェンの武装勢力やアラブ傭兵部隊を率いる有力な野戦司令官がハッターブだった。ヨルダン出身のハッタ
ーブは、アルカイダやオサマ・ビンラディンと密接なつながりがある国際テロリストで、アフガニスタンからチェチェンに送り
込まれてきたといわれている。チェチェンに集結した武装勢力は、チェチェンを拠点に北コーカサス一体にイスラム国家を
樹立しようとしていた。その一環として、1999年8月7日、武装勢力およそ1000人が、隣のダゲスタン共和国に突然侵攻し
イスラム国家の樹立を宣言した。

ダゲスタン侵攻から2日後に、ステパーシン首相は解任され、後任の首相を指名されたプーチンはチェチェン問題の解決に
強い姿勢でのぞむ方針を示した。この時、プーチンはエリツィンから後継者指名を受けているが、無名のプーチンを支持す
る声は少なかった。8月13日、プーチンはダゲスタン共和国に侵入した武装勢力を掃討するため、ロシア軍に大規模な攻撃
開始を命じた。5年前にもロシア軍がチェチェンに侵攻し、大勢の犠牲者を出して敗北した苦い経験があり、長い間チェチェ
ンは事実上、連邦政府の権力が及ばない地域となっていた。こうした中、無差別爆弾テロで多くの人が犠牲になった。
8月31日、クレムリン地下街、9月4日、ダゲスタン共和国のブイナクスクのロシア軍兵舎、9月9日モスクワ市内9階建てアパ
ート、9月13日、モスクワ 8階建てアパート、9月16日、ロストフ州ボルゴドンスク。



プーチン出世街道へのきっかけ、第2次チェチェン戦争

プーチンの戦略は用意周到で第一次チェチェン戦争とは多くの点で異なっていた。
軍事面で、いきなり地上戦に出るのではなく、チェチェン共和国とのすべての境界を包囲し、武装勢力を封じ込める作戦を取
った。そして、ヘリコプターなどで空から攻撃を加え、軍事基地や爆薬庫、空港、石油施設など重要拠点を徹底的に破壊した。
9月30日、ロシア軍はチェチェン北部から地上戦を開始。5日でテレク川以北のチェチェンの三分の一を制圧した。
戦場取材をするメディアも厳しい統制下におかれた。チェチェン分離独立運動に同情した世論も、今回は無差別爆弾テロの
恐怖にさらされただけにロシア軍の攻撃を強く支持
した。この結果、メディアは連日、ロシア軍の圧倒的な勝利を伝え、
第一次チェチェン戦争の敗北でメンツを失ったロシア軍は社会における権威を取り戻す形となった。

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