ダイヤモンドの話3/5 ~怪しい商取引慣習

1725年にブラジルにおいてダイヤモンド鉱床が発見されるまで、2300~2400年ぐらいもの長い間にわたって、インドが唯一のダイヤモンド産出国であり、ヨーロッパの輸出国でもあった。1630年から1668年の間、数度にわたってインドを訪問したフランスの宝石蒐集家ダベルニエの記録を見ると、どの産地も漂砂鉱床であったようである。漂砂鉱床とはダイヤモンドの原石が風化浸蝕され川の流れによって運搬される途中で、川岸に堆積してできた鉱床である。彼の訪れた4地区のうちのひとつ、ゴルコンダの町の東、コウロウの鉱山には当時6万人の老若男女が立ち働いていたということである。ダイヤモンドの売買価格の2%が税金として王族に納められていたという。政府は一定の区域の採掘権を商人に与える。商人は労働者を雇い、その地域内で働かせる。鉱夫頭がその日に集めたダイヤモンドを取りまとめて鉱区の主であるところへ持参する。そこでその日の取り高に応じて、金や食料品などの手当が支払われる。あるいは商人の子供たちが、採掘所の周りを歩いて買い入れを行い、夕方、その日の仲買をして集めたダイヤモンドを商人のところに運んで分け前を得る方法もあったことを書き記している。このように集積されたダイヤモンドが市場に出されてどのように売買されるか、その模様をふたたびダルベニエの記録から引用してみよう。
「ダイヤモンドの売買は完全な沈黙のうちに行われる。売り手と買い手が市場の中で向かい合って座り、売り手が自分の帯を開け買い手の右手を取って自分の帯でその手を隠す。この帯の中で両方の手をさぐりあうだけで売買が行われる。周りに何人いてもいくらで売買されているか絶対にわからない。この帯の下で、売り手が買い手の腕全部を一回握ると1000ルピー。二回握ると2000ルピー。5本の指を握れば500ルピー、1本の指では100ルピーというわけである。中指の真ん中の間接まで握れば50ルピー、第一関節まででは10ルピーというふうにきめられている。」
まるで関西で今でも行われている牛の売買の模様そのままである。なおダイヤモンドのカラット数は政府の官吏が測っていたようで、ダイヤモンドの価格も同質のダイヤモンドの場合、カラット数の二乗をかけた値で取引されていたという。この評価基準は現在でもほぼ通用する基準である。

南ア連邦でダイヤモンドの大鉱床が発見される以前は世界のダイヤモンド鉱床は全て漂砂鉱床であり、したがって採掘方法も原始的、個人企業的だった。ダイヤモンドの母石が発見され、企業が大規模になるにしたがって事態は急速に変わっていたのである。穴が深いものなっていくにつれて、鉱区境界の道路が崩落したり、地下水の湧出や天水のため、作業はますます困難になっていった。あちこちにたくさんの穴が掘られ、穴の底から鉱石を地表に運ぶための滑車やケーブルの線が乱雑に入り乱れていて、全く無統一な状態であった。個人での操業が困難になるに従い何人かの鉱区所有者が共同して操業するようになる。しかしそれでも操業は困難になっていくばかりであった。そうした情勢に応じて、一人最高10鉱区までしかもてないという法律が廃止され、それにともなって個人での鉱区所有は消失し、十分な資本を有する会社がダイヤモンド鉱業を行うように変わってきたのは、当然な時の流れといえよう。

この集中化、大企業化への過程で二人の優れた人物が現れた。一方は、青色の岩石まで掘り下げて、そこにダイヤモンドが含まれていることを見つけ出したバーネー・バルナト、他方は有名なセシル・ローズである。セシルローズは17歳で南アフリカに渡り、ナタールで綿の栽培をしていた兄を手伝っていたが、1871年に3つのダイヤモンド鉱区を購入した。途中オックスフォードへ勉学に帰ったりしたが、1880年には、デ・ビアス鉱山会社を設立し、また代議士にでたりしていた。彼は一種の理想家肌であり、南ア連邦のダイヤモンド資源を南ア連邦の発展に、いいかえれば大英帝国に発展に使うべきであるという信念を抱いていた。やがて年月が経つにつれ、諸所の小鉱区はこの2つの会社に併合されていき、二大会社の激しい争いになっていく。セシル・ローズは銀行家ロスチャイルドなどの資金面で後援を受けて、ついにバルナトの会社を併合して、デ・ビアス・コンソリデーテッド鉱山会社をつくり、大半のダイヤモンド鉱山をその傘下におさめるにいたった。ローズはその後、この会社の利益をアフリカの発展(植民地的な)に注ぎ込んでゆく。ローデシアの金鉱床の開発、植民地化のためにいいかえれば大英帝国主義の前進のために注ぎ込んでいく。こうしてダイヤモンド鉱業は個人経営から会社組織へ、さらに独占的な企業から帝国主義的な色彩を帯びる組織にまで変革していったのである。

ダイヤモンドの販売機構

近代的な方法で回収されたダイヤモンドも選別の段階になると、完全に前近代的となり、機械をほとんど使わず、たよりにするのはエクスパートの目と手だけとなる。第一段階は、宝石用と工業用とをわけることである。この間にははっきりとした区別があるわけではない。ただ、色や品質が悪く研磨しても宝石用として使えないものを工業用にまわすだけである。量的に見ると工業用が8割、宝石用が2割。ただし価格の面では宝石用が7割、工業用が3割と比率が逆転してくる。選別された宝石用原石は、目方をはかり、各種の級別のものをまとめてロンドンに送られる。

南ア連邦においてダイヤモンドが発見されてから2,30年の間、ダイヤモンドの販売は自由競争による価格で行われていた。しかし1892年の恐慌の際、ダイヤモンドの値下がりは激しく、大量のストックをかかえたダイヤモンド商人たちは苦境に陥ってしまった。その打開のため、一定価格で販売する共同販売購入機構を1893年に設立した。しかし全てのダイヤモンド鉱山がこの機構に最初から加入していたわけではなかった。たとえば当時のプレミア鉱山では独自のルートを通して販売しており、これが当然共同販売購入機構に脅威を与えていたわけで、特に1907年の不況の際には、ダイヤモンド価格の暴落をきたす原因になった。しかし、やがて協定が成立し、プレミア鉱山産のダイヤモンドもすべてこの機構を通して販売されるようになる。同様の経過が南アフリカ各地で起こった。しかしこの機構も1929年の大恐慌により、独占的なダイヤモンド購入資金を調達できなくなり破綻をきたした。このとき、セシルローズの事業を引き継いでいたデ・ビアスのオッペンハイマーは、危殆に瀕したダイヤモンド販売機構を手中に収め、ダイヤモンド・コーポレーションを設立した。この機構はデ・ビアス社を中心とするこれに加盟した鉱山会社の出資によって運営されており、約200億円の留保金を持っている。そのため生産者はつねに生産制限することなく生産でき、生産過剰の場合にはこのコーポレーションでプールされ、需要が増大するとプールから放出される。こうして価格は安定し、鉱業業者の事業も安定化する方式が取られている。現在ではソ連圏も含めて全世界の95%のダイヤモンドの産額が、このダイヤモンド・シンジケートの手中に収められている。ダイヤモンドの販売はこのように独占的な機構で行われているので、こういう独占機構をもっていない銅鉱業の場合の価格の激しい浮動と較べてみると、ダイヤモンドの価格がいかに安定しているかがよくわかる。

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