インドネシア 多民族国家という宿命 2/3~紛争の火種

紛争地アチェ

04年12月26日にスマトラ島沖で地震が発生した。スマトラ島沖地震・津波の最大の被災地に世界中が同情を寄せたが、この地域で約30年にわたってインドネシアからの独立紛争が続いていたことには、あまり関心が払われてこなかった。インドネシア政府がアチェの抵抗の歴史を「内政問題」として封じ込め、外界に触れないようにしてきたためだ。政府は震災発生当初、アチェ州で独立派ゲリラ掃討の軍事作戦が展開されていることを理由にメディアの被災地入りを許可しなかった。規制はなし崩しになっていったが、各国が緊急救援活動のために派遣した部隊の受け入れも躊躇している。政府がこの時最も懸念したのはアチェの独立紛争が国際問題化され、過去に行われてきた人権侵害の責任も問われることであり、十数万人に上った被災者のことではなかった。

多民族国家の苦悩

東西約5100km、南北約1900kmという空間を占めるインドネシアには最大民族ジャワ人(人口の約45%)をはじめとして、大なり小なりの民族集団が約300あり、「インドネシア語」という国語以外に母語として身につけている民族言語は200から400も存在する。多くの日本人観光客が訪れるバリ島は、バリ人(250万人)の暮らしの場であり、バリ語とヒンドゥー教の文化圏で、ジャワ島のイスラム社会とはまったく違う生活空間なのである。また、宗教で分類するとイスラム教(87%)、キリスト教(10%)、ヒンドゥー教(2%)、仏教(0.3%)などに分かれるが、これまで見てきたように同じイスラム教徒でも政治的には民族主義とイスラム主義に分かれている。スマトラ島北端のアチェ州のイスラム教徒は厳格だが、ミナンカバウ族は母系制を維持し、ジャワのイスラム教徒は古来の土着信仰を融合した独特の宗教観を持っている。メガワティ政権時代に燃料補助金が削減され。ガソリンの値段とともに運賃が跳ね上がった・一番苦しいのはタクシーで、ある時、運転手から「我々が悪いわけではないよ。すべてジャワ人のやったことだ」と愚痴をこぼされたことがある。そういうあなたはどこの出身なのかと尋ねてみると、「オラン、アチェ(アチェ人)だ」というう答えが返ってきた。それぞれの民族と社会集団は中央との距離や歴史的背景、文化、取り巻く政治社会環境によって全く異なった存在となっている。しかしそれでもインドネシアに暮らす人はみな等しく「インドネシア人」でなければならない。これこそが、「多様性の中の統一」を実現するインドネシア共和国の為政者の存在原則と苦悩だった。1998年5月のスハルト政権崩壊で、もっとも深刻な危機として指摘されたのは、地方の分離独立運動の高まりと、民族や宗教の色彩を帯びた抗争の発展によってインドネシアが解体される可能性だった。翌99年に東ティモールが事実上独立し、マルク州では宗教抗争が激化、アチェ州やイリアンジャヤ州(現パプア、西イリアンジャヤ両州)でも独立要求が強まった。民主化による地方分権の推進と治安維持システムの弱体化が統合を脅かしている一因とされているが、多様な民族と社会集団がひとつの理想の下に結束して誕生したインドネシア共和国は最初からさまざまな問題と矛盾を抱えていた。しかもそれらは、国づくりの過程で克服されるどころか、スハルト時代の抑圧と弾圧が憎悪の病根となって国家を蝕んでいった。

「インド群島」の過去と現在

インドネシアという名前はもともとギリシャ語のindo(インド)とnesos(群島)に由来した学術用語だった。ただ、「インド群島」は東南アジアからポリネシアにかけてのオーストロネシア語族の言語を話す人々が住む地域を指したもので、現在のインドネシアの領域はオランダが植民地支配をしていた「オランダ領東インド」という政治単位をほぼ継承したものだ。やがて植民地支配に対する抵抗運動のなかから、独立指導者たちは植民地領域を指す新しい概念として「インドネシア」という言葉を用いるようになった。この領域には2006年現在、17000以上の島が散在しており、このうち人が定住する島は6000。主要五島は西からスマトラ、ジャワ、カリマンタン、スラウェシ、パプアの順となる。インドネシア最古のイスラム王国とみられているのは、13世紀末にスマトラ島北部(現在のアチェ州)にあったサムドゥラ・パサイ王国とされる。イスラム化の波はマラッカ王国を経由してジャワ島にも伝播し、15世紀後半ごろにジャワで最初のイスラム王国デマック王国が誕生した。定説によればデマック王国はマジャパヒト王国を滅ぼし、16-18世紀のマタラム・イスラム王国に引き継がれる。マジャパヒト王国の王族と貴族はバリ島に逃れ、パリの王国と融合してパリ・ヒンドゥー文化を形成していった。一方、インドや中国の大文明を独自の文化と融合させて受け入れてきたジャワ人はイスラム化に際してもシンクレディズム(諸教混淆)を発揮し、イスラム以前の宗教行事や慣習を存続させて汎神論的な世界観を確立している。オランダ艦隊がジャワ島に姿を現すのは1596年である。スペイン、ポルトガル、英国との覇権争いで勝利を収めたオランダは、1602年にアジア貿易を独占する特許会社「オランダ東インド会社」を設立し、1619年、ジャワ島のバタビア(現在のジャカルタ)に拠点を置いた。オランダはその後マルク諸島などで香辛料貿易を独占し、マラッカ王国も支配する。オランダの領土的な植民地支配が本格化するのは、1799年に東インド会社が経営破綻してオランダ政府が直接統治に乗り出してからだ。オランダは1824年に英国とロンドン条約を締結して勢力圏を確定し、マレー半島のマラッカを英国に割譲する代わりにスマトラ島の全権益を独占。

【戦争・内戦・紛争】
2011.08.22: 実録アヘン戦争 4/4 ~そして戦争へ
2011.03.24: ガンダム1年戦争 ~新兵器 3/4
2010.07.16: ドイツの傑作兵器・駄作兵器
2010.05.26: インド対パキスタン
2010.03.16: イランの核問題
2009.06.05: 現代ドイツ史入門
2009.05.05: 民族浄化を裁く ~ボスニア
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道
2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.10.21: 東インド会社とアジアの海2
2008.10.20: 東インド会社とアジアの海

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