記紀以前の資料による古代日本正史 2/2

大歳御祖大神

「大歳」がどうして饒速日であるか。京都の八坂神社の記録には、素佐之男、稲田姫の間に生まれた8人の子の第5子「大歳」と書いてあるし、父素佐之男といっしょに九州平定をやったため、九州地方にはたくさんの大歳神社がある。また、
大歳御祖神社(旧国幣小社) 静岡市宮ヶ崎町
保久良神社 神戸市灘区
(祭神)大歳御祖大神 素佐之男尊 大国主尊
等がある。御祖というのは天皇の祖先という意味だから、これは5番目の大歳が神武天皇の義父「饒速日尊」であることは、これでも証明になる。
出雲に行って、素佐之男の住んでいた須我神社を調べたら、やはり出てきた。境内摂社に、男の子だけ5人祀ってあった。
若宮 八島野命、秋田 五十猛命(大屋彦命)、琴平 大歳命、木山 磐坂彦命、稲荷 宇迦御魂(倉稲魂命)
の5人で、大蔵は「琴平」ということになっていた。琴平、即ち四国の金比羅宮は、饒速日尊であるから、ここではっきりと証拠をつかむことができた。

という論調なのよ・・・、なーんだか、わかったんだか、わかってないんだか・・・って感じでしょう? この本・・・

饒速日の子供は判明したのが3人ある。長男は宇摩志麻治(うましまち)、これはあとで物部氏の先祖となった人で、島根県の大田で亡くなって、そこの物部神社に祀られている。次男が天香山(あめのかやま)尊、この人は別名高倉下と記されている。越後の弥彦山の麓で亡くなって、現在弥彦神社の祭神になっている。最後が相続人である末子の伊須気依姫、即ち神武天皇の皇后になった人である。饒速日大王は、いつ亡くなったかという調べがはっきりはしなかった。周辺の人の動きから計算して大体222年ごろ、68,9歳くらいまで生きていたと想像される。末子の伊須気依姫に、九州からいまの神武天皇の伊波礼彦(いわれひこ)を養子にもらったのが辛酉の年(241年)の元旦(旧暦)となっているので、この日に結婚式を挙げたのであろうと思う。

故意に歴史から消すために作られた虚像の歴史、書き換えられていた神社は、祭神名、神社名等、この際、元に復して欲しい。
大神神社関係、日吉神社関係、祭神を大物主奇饔玉饒速日尊に復元すること・・・ブツブツ・・・

なぜ歴史から消されたか

なぜ、これだけ偉かった、あらゆる信仰の的だった天照国照大神を、苦心惨憺して、おとぎ話(神話)まで作って、歴史から消したのか。日本書紀、古事記を書いて、二神社、16家の系図を没収抹殺して、日本の古代を塗り替えたのか。どこにそんな必要があったのか。原因はやはり仏教の伝来にあった。仏教が渡来して風の吹きまくるように広まった。その時、この饒速日大王の直系の子孫、物部氏は、この仏教に反対した。特に物部守屋は、寺を壊し、仏像を捨てさせた。一つには日本伝来の神様信仰から仏様信仰に移り変わることに我慢ができなかったのであろう。神、仏の対立は、海石榴市(つばいち)の善信尼の尻叩きの刑で極点に達した。仏教徒はついに物部氏打倒ののろしをあげた。この情勢に便乗したのが蘇我稲目、馬子で仏教徒を扇動して、物部守屋討伐戦を起こし、これが成功して、神武天皇以来権力の座にあった物部氏に代わって、蘇我氏が天下を取ることになった。そして、仏教は勢いに乗って神社を浸蝕し、大神神社に大三輪寺を併せ、その他全国の主なる神社に仏教の寺院を併用して建てさせ、神仏混淆政策をとった。神様の力をうすめるためである。しかし流石に饒速日大王の宋廟、石上神宮だけは、寺院を建てさせなかった。また、代々の天皇も仏教に帰依した。物部守屋没落後、仏教勢力が燃え上がるにつれて、天皇の祖先が、その仏教反対をした物部氏直系の先祖であるのはどうしても具合が悪くなってきた。幸い、神武天皇は、日向の系統である。そこで出雲の系統をなんとか抹殺できないかと考え、だんだんその機が熟し、とうとう日本の歴史書き換えの決心をされたのが第40代天武天皇の時だった。物部氏没落から約100年の後である。

ここは良い推測だと思うしアグリーなのよ。ではこの1000年以上前の証拠隠滅が不完全で、こういう書物が残っているから、それと比較すると・・・という証拠と論理の流れが一切感じられない本なのよねぇ・・・これ・・・。

11月22日(旧暦11月1日)の鎮魂祭は、亡き饒速日の多分命日ではないかと思って天理市の石上神社(布留の社)に行って「11月22日の夜、此方で鎮魂祭というお祭をしておりますね」と尋ねてみたら「厳かにやっております。布留大神の鎮魂祭ですから当社でも最高のお祭です」という答えだった。そしてこの石上神社を宮中に鎮祭したのは神武元年と記されていた。これで物部神社の記録の鎮魂祭が、神武天皇が義父の布留御魂の饒速日尊の鎮魂祭をされたのであることが証明された。この鎮魂祭は一般国民にとって関係は薄いが、皇室にとっては、重大なお祭のはずである。念のため、宮内庁に電話で問い合わせたら、「11月22日の夜、たしかに行っています」という答えだった。どうして現在の皇室はウソの日本書紀をほとんど相手にしないで、正しい本当の歴史で、行事その他を行っておられるのか不思議に思って調べてみた。72代白河天皇の時、こういう偽りの歴史で天皇が政事をするのはいけない。正しい歴史に戻すべきであるという持統天皇の頃から中止されていたこの饒速日尊の鎮魂祭も復活されて今日に至っていることが判明した。

西暦400年ごろまでは西は鈴鹿山脈、関が原の線から東は全部アイヌ民族の毛人が住んでいた。北陸は出雲から郵便が発達していたために、早くから日本民族も加賀、能登あたりまで住んだので、石川県、福井県はまだ毛人と日本人といっしょに住んでいたのではないかと想像される。富山以北は完全にアイヌ民族だった。現在関東を中心に三重県、愛知県までは遺跡を発掘すると、全部アイヌ民族の使った生活用品が出土する。この縄文土器といわれるのは、アイヌ人の生活用品で、モンゴリアン系の日本人には縄文土器を使用した歴史はないようである。出雲から出てくる土器でも、九州の日向から出てくる土器でもモンゴリアン系の日本民族は、日本民族の土器をもっていたのである。縄文の類は見当たらない。

民族・言語起源探究ってのは、国民・民族感情的に難しい問題なんだが、コイツ、こんな書き方して大丈夫だったのかね?

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