マキアヴェッリと君主論4/4 ~君主と臣民

第14章 軍事に関する君主の義務について

君主は戦争と軍事組織、軍事訓練以外に目的を持ったり、これら以外の事柄に考慮を払ったり、なにか他の事柄を自らの業としてはならない。それというのもこれのみが支配する人間に望ましい業であるからである。この能力はきわめて重要であって、それは生まれながらの君主にその地位を保たせるのみならず、多くの場合私人から君主の地位に上るのを可能にする。反対に君主が軍隊のことよりも優雅な事柄に気持ちを注ぐ時、彼らがその地位を失うことは明らかである。
 君主は戦争の訓練を決して念頭から離してはならず、戦時よりも平時において訓練しなければならない。この訓練に二つの方法があり、一方は行動を伴い、他方は精神に関わるものである。前者に関してみると、軍隊をよく組織して訓練するほか、常に狩猟を行って身体の労苦に慣れさせなければならない。またこれによってその地方の地形を知り、山がどのように起伏し、谷がどのような形を取り、平原がどのように横たわっているかを認識し、側や沼の性格を理解しなければならず、君主はこれらの事柄に非常な注意を注がなければならない。心の訓練についてみるに、君主は歴史を読み、その中で偉人達の行動を考察しなければならず、戦争において彼らがどのように行動したかを知り、勝因と敗因とを検討してそれを模倣したり回避したりできなければならない。例えばアレクサンドロスはアキレウスを、カエサルはアレクサンドロスを、スキピオはキュロスをそれぞれ模倣した。懸命な君主はこのような生活態度を守り、平時にあっても決して安逸に流れることなく努力を傾けて肝要な事柄を実行し、逆境にあってもそれを活用できるようにすべきである。このようにしてこそ運命が変転した時にも、それに抵抗する準備が整うことになっている。

>日本の総理大臣も、年金と消費税の問題から開放して、外交と国防問題だけに集中させてあげたらどうですか? 気の毒にねぇ、内政大臣じゃねぇっちゅーの。
>君主政でない国家であっても、企業経営者というのは企業内では君主的な役割が強いから、身につまされるお小言に聞こえます。

多くの人々は実際見えもしないし、知覚されもしない共和国や君主政を頭に描いている。しかしながらどのように生きているかということと、どのように生きるべきかということとは非常にかけ離れているので、なされるべき事柄を省みない人は自らの存続より破滅を招くことを学んでいるようなものである。なぜならば自らの職業活動すべてにおいて良きことを実行しようとする人は、良からぬ人々の間にあって破滅することになるからである。

>これ、ここだけ読むと何を言ってるかわからない文章ですが、次の事例を一般に抽象化したモノ言いです。

第16章 気前良さとけちについて

私見によれば、気前が良いと見られるのは好ましいであろうが、しかしながら気前の良さが人々の考えられるようなし方で実行に移されると有害である。なぜならば適切かつ望ましいような形で気前良さを発揮する場合、その気前良さは人々の気づくところとはならず、かえって反対の汚名を免れることができないからである。それゆえ人々の間で気前が良いという評判を維持しようとするならば、豪奢に類する行為を避けるわけにはいかなくなる。かくしてこのような君主は、豪奢に類する事柄に常に全ての資産を使い果たすことになる。そして気前が良いという評判を維持しようとするならば最後に民衆を甚だしく抑圧し、重税を課し、金を得るためにはあらゆることを行うことにならざるを得ない。その結果臣民は彼を憎悪し始め、貧しくなった彼に何人も尊敬を払わなくなる。そのような君主はこの気前の良さのために多くの人々を損なって少数のものに利益を与え、その結果早々にあらゆる困難に見舞われ、何かの危険に出会うとたちまち窮状に陥ることになる。彼がこのような事情を認識し、従来の行動様式を改めようとする場合、直ちにけちという悪評が生ずることになる。
 それゆえ君主は害を蒙らずに、しかも人々に明らかであるような形で気前良さという美徳を示すことができない。したがって懸命な君主はけちであるという評判を気にすべきではない。節約によって歳入が増加すると外敵から防衛も可能となり、民衆に重税を課することなく事を起こすことができるようになり、時が経つにつれて気前が良いという評判を必ずとるようになると考えられるからである。

>これ、送って読んで欲しい女性がいますね。「君主たるもの、汝、臣民の評判を気にして、豪奢に類する行為を続けるわけには行かないのだ」
>「君主論 16章読めよ」って言って「なるほどね」と言える女性が居る家はおそらく、君主制の家庭ではなく、"連帯責任をきっちり奥さんも問われる共和制"と思われますが。

第17章 残酷さと慈悲深さとについて、敬愛されるのと恐れられるのとではどちらがよいか

私見によれば、各君主は慈悲深く、残酷ではないという評判をとるよう望むべきではあるが、しかしこの慈悲深さを誤用しないように注意しなければならない。チェーザレ・ボルジアは残酷と考えられていたが、彼の残酷さのおかげでロマーニャを回復し、統一し、平和を実現し、自らに忠実な存在たらしめた。残酷だという評判を恐れてピストイアを破壊のままに委ねておいたフィレンツェ人とりも彼の方が慈悲深いことになる。全ての君主の中でも新しく君主になったものは、新しい権力には多くの危険が伴うため、残酷であるという評判を免れるのは不可能である。君主は容易に他人を信じたり動揺したりせず、自らの影におびえてはならない。そして思慮と慈悲心によって自らの行動を抑制するようにし、あまりに他人を信用して不用心になったり、あまりにも他人に不信感を懐いて他人にとって耐え難いような存在になったりしないようにすべきである。

恐れられるよりも愛されるほうが良いか、あるいは反対であるか。両者を得ることは難しく、両者のうちどちらかが欠けざるをえない場合には、愛されるよりも恐れられる方がより安全である。それというのも人間に関しては一般的に次のように言いうるかれである。人間は恩知らずで気が変わりやすく、偽善的で自らを偽り、臆病で貪欲である。君主が彼らに対して恩恵を施している限り彼らは君主のものであり、生命、財産、血、子供を君主に対して提供する。しかしこれは必要が差し迫っていない場合のことである、必要が切迫すると彼らは裏切る。人間は恐れている者よりも愛している者を害するのに躊躇しない。なぜならば好意は義務の鎖でつながれているが、人間は生来邪悪であるからいつでも自己の利益に従ってこの鎖を破壊するのに対して、恐怖は君主と常に一体不可分である処罰の恐怖によって維持されているからである。

>いや、ますます、企業という社会構成体よりも、家庭に当てはめたほうが有効な気がしてきたw。

君主は仮に好意を得ることがないとしても、憎悪を避けるような形で恐れられなければならない。恐れられることと憎まれないこととは、恐れられることと愛されることよりも容易に両立しうる。このことは君主が市民や臣民の財産と彼らの婦女子に手を出さないならば、必ずや実現されると思われる。仮に誰かの血を流すことが必要な場合には、適切な正当化と明確な理由の下に行わなければならない。しかしなによりも他人の財産に手を出さないようにすべきである。それというのも人間は財産の喪失よりも、父親の死の方をより速やかに忘れるものだからである。

>あっはっは。こりゃ真実。財産の喪失は憎悪に変わるそうだ。うん、多分これ真実だというのが身をもってわかる。

【愚民の欲】
2012.04.18|真面目系クズについて 1/2
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2011.11.30: 利休にたずねよ3/4 ~茶の湯の極意
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2010.11.25: 初等ヤクザの犯罪学教室 ~割に合わない犯罪
2009.12.29: 何のために生きるのか?ふと考えるときがある
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