宋と中央ユーラシア 1/4 ~宋まで、宋勃興当初

大唐帝国の滅亡

華麗な文化を残した大唐帝国が滅んだのは907年だったが、それ以前から呻吟していた。それを明確にしたのが黄巣の乱だった。黄巣は現在の河南省濮陽の南にある山東省曹州出身の塩賊すなわち塩の密売人だった。彼は何度官僚採用試験に応じても及第しない。たまった不満の爆発が、875年から884年までの長期の叛乱の引き金の一つとなった。ほとんど中国全土を駆け巡ったこの乱が、唐という巨木の中がうつろで、抜け出しようのない袋小路に入り込んでいることを自覚させた。
 玄宗朝以降、帝国は次第に揺らぎ始めていた。安史の乱、律令体制から両税体制へといった一連の出来事は帝国をいちじるしく変質させた。支配権は失われ、帝国の華だった貴族たちも力を失った。

五代十国の時代

五代十国はその名の通り華北に5つの王朝、他に十の小国が乱立する時代で、宋建国までのほぼ50年をいう。

皇帝たちの時代

皇帝とはいったいどんな存在なのか。時代が下るほどしだいに官僚制充実に向かう中国にあって、君主の支配権もしだいに強化されていく。これは皇帝の強力な発言権が政治を左右することを意味する。だが官僚制整備と君主権強大化が比例することは普遍的法則なのだろうか。君主独裁制がシステムの問題とすれば皇帝はシステムの一部となって存在感が薄くなってゆくはずである。実際、無能な指導者や混乱した政局が続いていてもある程度システムが整っていれば社会はそれなりに動いて行く。だから統治機構が整えば整うほど、指導者の持つ意味と役割が減少するともいいうる。

規制の緩和

唐と宋を区別するものの一つとして、規制の問題を意識的に取り上げるものは少なかったが、今後考えるべき問題のように思う。両税法の施行以後、土地所有面積の規制が緩和される。古来、中国王朝は無制限な私的土地所有を禁止してきた。だが、両税法施行以後、箍がはずれ、大土地所有制度が進展し大土地所有者が社会のリーダーの基盤となる。これが世に名高い形勢戸であった。では宋代の大土地所有が永続的な支配権を確立するかというと、それは間違いだ。なぜか。ひとつは、永続的な貴族制度の崩壊に理由を求めうる。親から子へ、そしてその子へと地位と財産を受け継ぐシステムは宋以降崩壊していくから、代々かけて巨大な財産を蓄積することができにくくなる。もう一つは相続システムだ。中国の均分相続システムもまた、特定の家に継続した資産の集中と保持を困難にする。
 これに関係するのが完成度の高い科挙制度であった。科挙試験は三段階で構成される。第一段階が解試、地方で行われる予備試験で、次が省試で都の礼部でおこなう本試験、最後が皇帝自ら試験する殿試で太祖の創出したものだった。

名だたる受験地の福州は、都市民の半ばが本を読んでいたという。この伝統は今日も受け継がれ、有名大学への合格率も高いところになった。本は実用書、つまりは科挙試験に利する本と言いうる。この傾向は今も続いているようだ。先般、福州の本屋を丹念に歩いたが、実用書が多いのに驚いた。

宋代の知識人とは士大夫をいった。彼らは科挙試験に及第して官僚となり、天子とともに政治を行う存在だった。宋代こそはその知識人が前面に躍り出て政治をとった最初の時代なのだ。かれらは儒学を学び、科挙を受ける。だが、かれらを知識人といいうるのか。かれらの学ぶ本は限られている。科挙出題の儒学のバイブルだ。かれらの学ぶテキストの総字数を計算した宮崎一定は、約35万字ほどと計算する。現在の本だとおおむね1ページに約1000字入るとされる。とすれば350ページほどの本にすぎない。たったこれだけの字数の本が中国人の心を支配し、思想を律し続けてきたのだ。士大夫の学識の底にあったのは、官僚となるために学習に学習を重ねたテキストへの信仰のみだったのだ。これでは中世ヨーロッパの知識人に及ばない。かれらも古代の思想へ回帰しようとしたが、そこにあったのは失われたテキスト、失われた言語への探索と興味でもあった。またひたすら忠誠を要求するキリスト教とそのテキストへの懐疑でもあった。だからここでは知識の根源の探索が行われた。しかし、宋代の知識人たちにはその発想は乏しい。彼らの世界は古代以来一貫していた。文字が同じだからだ。

貨幣経済の時代へ

マルコ・ポーロが驚嘆したように、元代の中国では紙幣が使用されていた。金や銀といった貴金属ではない。金高を印刷した紙が貨幣として流通するなど信じられなかったのだ。だがその起源はもう少し遡る。宋代の四川省で発生した交子だが、もともとは紙幣ではなかった。唐代に洗われた金融業者の寄附鋪が発行した手形が支払いに使われだし、宋代になって会子・交子・関子などという手形から紙幣への道をたどったのだ。もっとも民間の紙幣運営は危険もあり経営の不安定さがただちに信用不安になる。
 四川の交子も例外ではなかった。成都府の金持ち16の家が金融業者として独占権を持って信用の強化を図った。それはあたかも西洋の金融業者の誕生を思わせる。紙幣が視線で発達した要因は茶という産品があったことや、鉄銭流通地域だったということがある。中国の銭は銅銭を主体としたが、いっそう重い鉄銭は持ち運びに不便なうえに他地域との交換に際しての簡便さも要求されるからである。だからその安定はいつまでも続かなかった。しかも資金の減少が生じ、不払いも生じた。そこで政府は紙幣発行の利益を握るために天聖元年(1023)に益州交子務を創設して発行権を獲得するとともに発行当初から行われていた三年一界という有効期限を2年にして安定経営をはかった。

宋代に銭が沸き立ったことはよく知られている。毎年、大量の銭が鋳造され、国家財政を支えた。銭は東アジア世界にも流通し、日本にも渡来した。いかに膨大だったか、わが国で宋銭が一度に数万枚発見されるという報告からも明らかだ。記録によれば、北宋末にはやや減少しているが、1年間の鋳造量が500万貫という。これを一文銭の鋳造で数えると、一貫は1000枚だから500万貫は50億枚となる。だが宋代最盛期の人口を1億と仮定すれば一人頭50枚、すなわち50文にしかならない。10年分の貨幣が蓄積されて始めて一人頭数百文という額が出てくる。これでは絶対量が足りない。銅が不足がちの上に海外への流出も多い。生き物たる銭は規制を越えて勝手に歩き回るのだ。日本の寛永通宝が中国各地から出土していることも、このことを示す。今日、宋朝の銭が発見される場所は日本だけではない。遠く東南アジアや東アフリカにまで流出しているという。私の手持ちの宋銭のなかにはインドネシアのロンボク島で発見されたものもある。

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