民族世界地図 1/2

民族の不定義、みな勝手な定義な定義にしたがって、勝手な基準に基づいて計算するからそうなる。「民族の定義」などというものはないに等しく、存在するのは「民族の不定義」だけというべきだろう。

どうして民族を定義しなければ国家が成り立たないという事態に追い込まれたケースがある。イスラエルである。「ユダヤ国家」を前提に建国されたからで、世界からユダヤ人を招き寄せ、それを選別する必要上、「ユダヤ人とは何か」の基準を設けなければならないわけだ。国家の基本要素の一つは国民であるが、不安定なイスラエルへの移住に二の足を踏むユダヤ人、いったんはイスラエルに来たものの安住できずにまた他へ移住するユダヤ人もある。国民を確保するために、ユダヤ人として素姓の定かでないものを受け入れたりした。それではユダヤ国家としての純粋性を、やがて維持しにくくなる。


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イスラエル政府はまず、ある人物について、本人がユダヤ人と申告するか、またはその両親が申告すれば、その人をユダヤ人と認めることにした申告制度である。ではユダヤ人の両親から生まれたユダヤ人が他の宗教に改宗したら、ユダヤ人でなくなるのか。もし片方の親がユダヤ人であることを条件にして、その子供をユダヤ人と認めるとしたら、その親は母親であるべきか父親であるべきか、どちらでもよいとするか。両親が非ユダヤ人であっても子供がユダヤ教に改宗すればユダヤ人とみてよいか。本人も両親もユダヤ教徒だと申告しているのに、日常的にユダヤ教の戒律を守っていない場合、ユダヤ人と認定できるか。そんな疑問やら問題点が実例によって続出してきたのである。そこで「ユダヤ帰還法」が制定され、その中にユダヤ人の定義がなされた。ユダヤ人とは「ユダヤ人の母から生まれた者、ユダヤ教に改宗した者、そして他の宗教の信者でない者」というのである。

ユダヤ教には宗派があり、どの宗派で改宗するのかが問題になった。ユダヤ純粋性保持で最も原則にこだわるマフダル(国家宗教党)は、改宗の儀式はユダヤ教正統派によるべきで、ユダヤ教改革派やユダヤ教保守派によるものは、認められないと主張した。1986年、イスラエル内務省もついにこの立場に同調し、ユダヤ教に改宗した移民に対して「正統派ユダヤ教に改宗した」とのスタンプを押した身分証明書の提出を支持している。

>嘘に始まった国家は、嘘に嘘を塗り固めていかないと存続できないのだろう。


香港の民族構成は中国系98%、その他2%であるが、中国系では広東省系の漢族が圧倒的に多く、したがって広東語が日常的に使用される。香港住民が英国国籍を持つのは当然であるが、英国は経済困難に加え、旧植民地から多数の移民を抱えて社会的に微妙な問題を引き起こしているため、香港からの移住を規制する措置をとった。その最たるものが1981年、英国が行った国籍法改訂だった。英国国籍者を三種類に分類し、英国移住を認めない「属領市民」という項目に香港住民を押しこんでしまったのだ。

マカオの民族構成も香港と似かよっている。中国系95%、ポルトガル系3%、マカオ系2%。返還とともにだれもが中国国籍となるが、二重国籍を容認するポルトガルは総人口の30%にポルトガル旅券を発行済みである。二重国籍を認めない中国は、ポルトガル旅券を保持するマカオ市民が海外でポルトガル国籍を使うのは自由、ただし中国国内ではポルトガル公館で便宜を受けてはならぬ、との巧妙な方法で妥協にこぎつけている。

アルメニア問題

クレムリンがアゼルバイジャンに武力介入した時、武力行使の名目が「アルメニア人迫害阻止」であったため、かねてキリスト教徒のアルメニア人に同情的な欧米は正面から非難したくなかったのだ。アルメニア人の総数は推定650万人以上、旧ソ連に460万(アルメニア共和国に350万)、他にトルコ、イラン、欧米などに200万以上といわれる。アルメニア人に関する最古の記録は紀元前14世紀に見え、居住地は現在のトルコ東部とカスピ海の間で変化してきた。紀元前7世紀頃流れてきたアーリア人と混血、インド・ヨーロッパ語族のアルメニア語を話し、4世紀に世界で初めてキリスト教を民族宗教に採用した。第二はオスマン・トルコのアルメニア人虐殺だ。第1次大戦が始まるや、支配下のアルメニア人の反乱を恐れたオスマン・トルコは1915年彼らにメソポタミア砂漠への強制移住例を出す。混乱の末、アルメニア側は「150万人以上のアルメニア人が虐殺された」と主張、オスマン・トルコ崩壊後に誕生した現在のトルコ共和国政府は「多くは移住の途中で病死かが死したのだ」と弁明してきた。

87年、欧州議会が採択したアルメニア決議、トルコはECに加盟を申請中だが、トルコがアルメニア人大虐殺を認めなければEC加盟を認めないという内容だ。88年アゼルバイジャン共和国内のナゴルノ・カラバフ自治州(人口の80%がアルメニア人)はアルメニア共和国への所属変更を決議した。「大虐殺」のトルコ民族に近いイスラム系アゼルバイジャン共和国所属(実質的な従属)には耐えられぬということだ。89年、アルメニア共和国は「4月24日をアルメニア人大虐殺を追憶する国民祝日とする」と宣言した。

モルダビア

ルーマニア・ソ連国境をなしたプルト川の東はかねてべッサラビア、西はモルドバと呼ばれた。モルドバの人、つまりモルダビア人が14世紀に興したモルダビア候国がベッサラビアを領有し、川の東側にもモルダビアの呼称があてられるようになった。第二次世界大戦後、ソ連邦を構成する共和国が川の東に樹立された時も「モルダビア」と名付けられたのだ。1812年、ロシアが川以東のモルダビアを領有してからモルダビア人の間に反ロシア感情が芽生える。19世紀半ば、モルダビア候国は南のワラキア公国と統一し、1881年ルーマニア王国となる。第一次大戦とソビエト革命で混乱した1918年にはルーマニアが武力で領有した。第二次大戦ではナチス・ドイツも登場する。ソ連が独ソ不可侵条約により占領(1940年)、モルダビア共和国を樹立させた。独ソ戦になり、ルーマニア・ドイツ両軍がこれを3年間支配したところでソ連軍が奪還、1947年ルーマニアはついに川以東のソ連帰属を承認したのだ。モルダビア共和国は91年5月、「モルドヴァ共和国」と改名した上、8月にソ連からの独立を宣言、ソ連崩壊後は独立国家共同体(CIS)に加盟した。ところがモルダビア共和国内で少数民族となる約75万人のロシア系やウクライナ系の住民が不満を抱いて「国の中の国」というべき「ドニエストル共和国」を宣言。92年にはこれを支持するロシア軍とモルダビア共和国軍の大規模な軍事衝突にまで発展した。またトルコ系住民も「ガガウス共和国」を宣言している。

中国内朝鮮民族

朝鮮人の中国移入が始まったのは、17世紀から国境付近の貧民がより良い生活を求めて移動しながら中国側に入り込んでいるが小規模であった。むしろ日韓併合(1910年)後に、農地接収、日本人の朝鮮半島移入、半島産米の日本輸出などで貧窮した農民が、中国へ流れ込み、そこに水田耕作を定着させたと言われる。日本は彼らを「日本臣民」扱いして満州進出に利用した面もある。満州国建国(1932年)後、流れは加速し、終戦直前の在満朝鮮人は215万を数えた。

【民族意識系】
2012.11.12 もっと知りたいインドネシア 2/3 ~地理と民族
2012.10.05|宋と中央ユーラシア 4/4 ~ウイグル問題
2012.04.25|美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本




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