ハプスブルク家の悲劇 4/8 ~正妻ステファニーvs愛人マリー

3.マイヤリンク事件

フランツ・ヨーゼフとエリザベートとの間に1858年8月21日のルドルフ皇太子の誕生はオーストリアじゅうから盛大な歓迎を受けた。ルドルフは、教師が自分につける点数に一喜一憂したが、年に似合わぬ早熟な少年であった。ある日養育係のラトゥール伯爵が、成績が悪かった罰に狩りに行くのを禁じるとルドルフは言った。「褒美が欲しいから一生懸命勉強しているのではない。私の義務だからやっているのだ。」 これが9歳の子供の答えである。虚弱な体質ではあったが、ルドルフはぎっしり詰まった時間割を懸命にこなした。古文書学者ギンドレー、歴史家キリエク、地理学者グルーエン、美術の専門家アムブロス博士らはみな、彼の記憶力のよさとと学習意欲に驚いた。教師に対して、「何もかも教えてください。全部知りたいのです。」というのがルドルフの口癖だった。


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1881年、ルドルフが23歳、ステファニーが16歳の時である。ステファニーは身長が175cmもある長身で太り気味。お世辞にも美人ではなかったが、世間知らずで初々しいところが手練手管に長けた社交界の女たちに囲まれていたルドルフには、かえって魅力的に思えたのだろうといわれている。ルドルフとの結婚生活は当初はうまく行っていたが、1年目あたりから、次第に2人の関係にもひびが入りだした。ルドルフは儀式や社交に明け暮れる宮廷生活が嫌いでリベラルなインテリ階級との付き合いを好んだ。それに対してごく平凡な女性であるステファニーは、パーティーや晩餐会に明け暮れる宮廷生活に楽しみを見出していたのだ。結婚生活が破綻をきたした頃から、ルドルフはますます自由主義にかぶれ、ニンニク臭い空気の中で、大声で歌うような小料理屋に通った。脂肪の焦げる臭いや、ワインや煙草臭いにどっぷりつかり、飲めや歌えの大騒ぎをする。一度ルドルフは妻のステファニーを村娘に変装させて伴っていったが、こんな環境にはとてもついていけなかったと、のちにステファニーは回想録で嫌悪をむき出しにしている。要するに二人は性格が違いすぎたのだろう。

女の子エリザベートが生まれても二人の仲は元に戻らず、このころルドルフはミッチ・ガスパールという女性と関係を持った。グラーツ出身の黒髪の美しい女性で、町で知り合った高級売春斡旋人のヴォルフ夫人が皇太子に彼女を紹介したのだ。一種の高級娼婦のようなもので、裏社交界の女王のような存在だった。86年ミッチが21歳のときからずっとルドルフと関係があり、彼女は明るい調和のとれた性格で、ルドルフの気持ちをほぐし晴れやかにしてくれた。ステファニーはルドルフの背信行為を許さなかった。持ち前の生真面目さでルドルフを追及しどこまでも責めたてた。ある日ルドルフがお忍びでミッチの家に出かけたときのことである。あとをつけたステファニーは、通りのある一軒家の前に止められた皇太子の紋章つきの馬車を見つけ、ただちに帰してしまった。街の物見高い人々は、ルドルフの困惑振りを見ようと待ち続けた。何も知らずに出てきて、馬車のないのに気付いたルドルフは、人々の笑いものになったのである。

> ステファニー・・・民の女よのぅ・・・

その年、ルドルフの前にはもう一人の女性が現れた。16歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラである。決して美人ではなかったが、小柄でむっちりした体つき、つぶらな黒い目と黒髪の、男心をひきつけるセクシーな娘だった。母ゆずりの野心家であるマリーは、男性の好みも一流好みだったらしい。ヴェッツェラ男爵の娘として、いちおう上流社会の末席に連なっていた彼女は、フロイデナウの競技場やプラター通りを散歩する時、遠くから数回ルドルフ皇太子を見かけて一目ぼれしてしまったのである。怖いもの知らずの彼女は皇太子に対して湧き上がる熱い思いを、ただちに具体的行動でアピールした。積極的なアタック作戦を重ねたすえ、母の友人だったルドルフの従姉のラリッシュ伯爵夫人を通じて運良くルドルフに引き合わされたのだ。

MarieVonVetsera.jpg

> マリー・セクシー・ポットベリーっぽいね。それにしても、運良くなのか? マリーが戦略的に引いたレールの上だったのではないだろうか? ルドルフも災難な女に恵まれているな。

このときのマリーは、興奮した様子で侍女に囁いた。「あの方は私のもの。私の言っていることがおかしいのは承知よ。まだあの方は私を知らない。でも、私のものなの。私はそう感じるのよ。」 男爵令嬢とはいうものの、マリーの素性はいささかいかがわしいものだった。母のヘレーナは小アジアのスミルナ出身のギリシア人銀行家バルタッツィ家の娘で、イスタンブールで、トルコ駐在オーストリア帝国外交官だったヴェッツェラ男爵と結婚した。男爵はハンガリーの下級貴族だったというだけで出自はよくわかっていない。夫の急逝後、ヘレーナはウィーン在の銀行家の兄弟たちを頼って、子供たちを連れてウィーンに移住した。慈善事業に大金を寄付したおかげで、首尾よく爵位を"買う"ことはできたが、ウィーンの旧弊な貴族社会には受け入れられなかった。ウィーン宮廷は、こと"夫人"に関しては16代前から貴族であることが証明されなければ、容易に出入りを許さないのだという。そこでヘレーナはなんとか娘たちをよいところに嫁がせようと、あの手この手を用いた。マリーがルドルフに近づいたのも、もしかしたら、この母親の激励あってのことだったかもしれない。ルドルフとマリーの間をとりもったラリッシュ伯爵夫人は、エリザベート皇后の兄と一女優の、貴賎結婚によって生まれた娘である。普通は宮廷への出入りも許されないのだが、皇后は特に宮廷に迎えてかわいがっており、ルドルフも彼女とは幼なじみだった。

ルドルフは、ローマ法王にあてて、ひそかにステファニーとの離婚を求める書簡を送った。当時のカトリック国ではローマ法王の許可なくして離婚することはできなかったのである。ところがローマ法王は、不許可の書簡を当のルドルフ宛ではなく、ウィーン駐在のバチカン大使を通じて父のフランツ・ヨーゼフ皇帝に渡したので一部始終が洩れてしまった。皇帝が烈火のごとく怒ったのは、いうまでもない。実は当時のルドルフは、政治問題でも、父皇帝と深刻な対立を深めていたのである。当時の最強国ドイツは、1870年にフランスを破り、71年にはドイツ統一をなし遂げて、ヨーロッパは天才的な外交家、ドイツ宰相ビスマルクに思うままに翻弄されていた。

そのとき東側からロシアが攻めてくるんどえはないかと、脅威を抱いていたオーストリア帝国は、最強国ドイツとの同盟に救いを求めようとしていた。それに対し、ルドルフは、ビスマルクに対して抜きがたい不信感を抱き、逆にフランスとロシアとの同盟に切り換えたいという構想を抱いていたのである。ルドルフはドイツの仇敵であるフランスに積極的に接近する一方で、ロシアにも単身で赴いてドイツ包囲網工作を着々と行っていた。そんなころオーストリアの新聞に、ルドルフの抱く同盟構想案がすっぱぬかれてしまったのである。我慢できなくなった皇帝は、1889年1月26日、ルドルフを宮廷の自室に呼びつけた。このときルドルフの過激な政治活動、ローマ法王へのステファニーとの離婚要請、マリーとの関係などが、つぎつぎと話題に上ったことが想像できる。激しい口論の末、皇帝は「そなたは私の後継者にふさわしくない!」

1月30日 マイヤリンクで執事のロシェクは、ルドルフの部屋で突如続けて鳴り響いた2つの銃声に飛び起きた。すぐさま駆けつけてルドルフの部屋のドアを叩いたが返事がなく、中から鍵がかかっている。悪い予感がしたロシェクはホヨス伯爵を呼んで、ともに斧でドアを打ち破った。中に踊りこむと、ルドルフとマリーがベッドの上で血まみれになって死んでいた。そばにピストルが落ちており、床やベッド一面に血が飛び散っている。マリーの化粧をした顔にはかすかな微笑さえ浮かんでいた。深いショックにもかかわらず、皇帝は気丈に持ちこたえていた。ルドルフの葬式を無事済ませると皇帝はその足で政務に戻った。彼が少しでもうろたえた様子を見せれば、国中にそれが波及してしまう。皇帝の鉄のような意志は、政府や国民を感動させた。しかし実のところもはや60歳に手の届こうとする皇帝にとって、我が子の心中は匕首で胸を突かれるほどの衝撃だった。母にも妻にも遺書を書き残したルドルフは父皇帝にだけは遺書を残さなかった。その事実は深く皇帝を絶望させた。


> 皇帝はつらいのぅ・・・つらい・・・。民には絶対にないつらさがあるのぅ・・・。


ハプスブルク家皇太子の心中事件という、ゆゆしき事態を隠すため、当局によって実に多くのことが隠蔽された。皇帝が特に固執したのはルドルフの埋葬を自殺を認めていないカトリック式で行うことと、マリーの遺体を秘密裏に運び出すことだった。皇帝は、これがマリーとの心中であることを固く隠し、ルドルフの精神錯乱による自殺であり、そのとき冷静な判断力が欠如していたのだという鑑定書を医師に書かせた。同時にマリーが自殺したという嘘の検死報告書を書かせ、その遺体をルドルフとは別個に、極秘に埋葬させようとした。それも聖十字架墓地の修道院長に圧力をかけ、自殺であるにもかかわらず、埋葬を承諾させたのだ。マイヤリンクで発見されたこの2つの目の遺体についてはハプスブルク王朝が崩壊するまでは一切世間に公表されなかった。

ルドルフが始めにマリーを銃で撃ってから、その後に自分を撃ったのだろう。たてつづけに2度銃声を聞いたというロシェクの証言とは矛盾するが、彼の証言がどこまで事実かは疑わしい。ルドルフは自分を撃つ時、銃を固定させるために手鏡を用いたらしい。これは自殺者がよくやる方法だ。ルドルフの右手が黒く火傷していることから、右手で銃を撃ったと思われる。凶器は軍隊用の回転銃であった。当時、自然死でない者はすべて司法解剖を受けることになっていた。しかし皇族には警察の介入が認められていなかったため、事件に際しても、当局から解剖の指示はでなかった、だからルドルフの死体解剖はあくまで皇帝自らが要請したものである。解剖後は銃の一撃で打ち砕かれた頭蓋骨の痕跡を隠すため蝋製のムラージュで整形し、遺体はバルサム処理をほどこされて棺台にのせられた。

宮内庁当局は、マリーの遺体を現代では想像もつかないほど無神経なやり方で始末した。事件関係者が残した記録がそれを物語っている。1月31日、首相のターフェ伯爵が、警視総監のクラウス男爵を呼びつけた。マイヤリンク狩猟館は治外法権下に置かれ、侍医フランツ・アウヘンタラー博士がマリーが自殺したという偽の報告書を書くように命じられた。かくて前代未聞のことが始まった。既に死後硬直の始まっていたマリーの遺体は服を着せられ帽子をかぶさせられ、辻馬車内の二人の叔父の間にまっすぐ座らされ、体がくずおれないよう、服の背中に棒が差し込まれた。こうして生きている女性が旅に出かけるという外観がつくられた。2月1日遺体は聖十字架墓地に運ばれた。修道院長のデヂィック神父はマリーの遺体の左前頭骨に弾丸の傷跡があったような気がすると、後に述べている。マイヤリンクの館は皇帝の命令でただちに閉鎖され、カルメル会の女子修道院となり、尼層たちの聖歌が時折漏れるだけの人の近づかない禁城となった。

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