残虐の民族史 2/3 ~ジンギス汗

ジンギス汗の悪夢に学んだロシア人の凶暴

趣向を凝らした頭蓋骨の塔

織田信長が、妹のお市の方の旦那である浅井長政を滅ぼし、髑髏で酒杯をつくって酒を飲んだと言う話は有名である。チンギス・ハーンの子孫を名乗ったティムール(在位1370年~1405年)に比べたら、かわいいくらいである。14世紀後半から15世紀初頭にかけて、中央アジア、西アジアを戦乱の渦に巻き込んだティムールは、征服地に頭蓋骨で塔をつくることを趣味としていたからだ。モンゴル族の出身で中央アジアのサマルカンドを都として帝国を築いたティムールは、ロシア、インド、トルコへと版図を広げていったが、1387年、現在のイランの中央部にあるイスファハンを陥落させたとき70000人を虐殺した。そして、その首を刈って頭蓋骨のピラミッドを作った<。さらに1394年、タクリトという都市を攻略した時は、戦死者や虐殺した人々の頭蓋骨を組み合わせて、見事なミナレット(イスラム寺院の尖塔)状の高い塔を築いた。

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1400年、ティムールはシリアのアレッポに侵略の矛先を進め、3日間、その地を虐殺・略奪地獄に陥れ、そこで殺戮した20000のイスラム教徒の首をすべて刈って、顔を整然と外側に向けさせて、周囲15メートル、高さ7メートルの頭蓋骨の塔を作った。髑髏の塔の趣味も年季が入ってきたので、彼は少しでも見事なものを作ろうと趣向を凝らしたに違いない。現在残っていたとしたら貴重な観光資源となったかもしれない。ティムールは1401年、現在のシリアのダマスカスに進撃したが、このときは救援に駆けつけたエジプト軍の抵抗に遭い、数人の武将を失った。この地を占領すると、ティムールは、2万の将兵に対し、1人当たり生首1つ取ってこいと命じた。勝ち誇った軍勢は一気に市内を目指して殺到し、殺戮の嵐が吹き荒れた。そしてティムールは、先のダマスカスの戦いで戦死した部下の霊を弔うためと称して、部下が刈ってきた2万の生首を積み重ね、120もの塔をバグダードをあらゆるところに構築した。血は争えないもので、ティムールの血統を継ぐムガール帝国の第3皇帝アクバル(在位1556~1605)も、頭蓋骨の塔をつくるのが大好きだった。アクバルは、北インド、アフガニスタンの大部分を治め、やがて全インドへと広がるムガール帝国の基礎を固めた皇帝だが、かれが作った頭蓋骨の塔は、天にも届くと形容された。

ヨーロッパ人の悪夢「モンゴル来襲」

ポーランドの美しい古都クラクフの街の中央市場に建つ聖マリア教会の塔の上から、毎日正午になるとラッパの音が高らかに鳴り響く。このラッパが最初に鳴り響いたのは13世紀「タタール来襲」のときだった。ヨーロッパではタタールはモンゴルを意味する。13世紀、モンゴル帝国オゴタイ汗(在位1229~41)は、総司令官バトゥを西方に遠征させ、ロシア全土を制圧した後、東ヨーロッパを蹂躙した。その遠征はポーランドにまで及びクラクフにもモンゴル軍が押し寄せた。クラクフの守備隊のラッパ手は市民に急を告げるために、聖マリア教会の塔に登りラッパを吹いたが、彼の首には矢が突き刺さり絶命した。モンゴル軍は綿密な偵察を行い敵情を分析していたのに対し、ヨーロッパの軍隊は迫りつつある危機に無頓着でモンゴル軍の情報を得ていなかった。モンゴル軍は軽装備の騎兵が主で機動力に富み、よく訓練され組織的に動いたが、ヨーロッパの軍隊は重装備の騎兵と歩兵(農民兵。日本で言うところの足軽と見てよい)からなり、行動は鈍重であった。さらに、モンゴル軍の弓の射る術は群を抜いていたので、十字軍としてイスラム教徒の戦いで名を馳せたヨーロッパの軍隊も翻弄され、なすすべもなく壊滅した。

タタール人はもともとモンゴルの一部族で、ジンギス汗に統合されたのだが、ヨーロッパに遠征したモンゴル軍にはタタール人が多かった。そのためヨーロッパ人には、「タタール」の名は長く悪夢だったのだ。おそらくヨーロッパ人には、モンゴル軍は悪夢とも映っただろう。それほど残虐で容赦なかったからだ。しかし、モンゴル軍が最初から残虐だったわけではない。ジンギス汗が現れて、周囲の部族を統合し、さらに領土を広げるために異文化と接するようになってあから、狩猟民族としての血が騒ぎ始めるのだ。1219年ジンギス汗(在位1206~27)は中央アジアのアム・ダリア河下流域(現在のトルキスタン、ウズベキスタンあたり)にあったホラズム王国のオトラル太守に隊商を派遣する。ところが通商の目的の隊商が虐殺され、略奪されてしまう。この時をもって、世界史上に特筆すべき仮借ない虐殺が長年にわたって開始されたのであった。

すべての生き物を殺し尽くせ

ジンギス汗は当初、オトラル太守に謝罪を要求した。しかし、それが通じないことを知るに及んで激怒したジンギス汗は、ただちにホラムズ王国に軍勢を送り、オトラル太守を捉えて処刑してしまう。当初は「正義の戦争」として開始された西方遠征だったのだが、戦争を遂行する過程において戦争の性格が変化し、征服戦争としての性格を強めていったのだ。オトラル太守を処刑してもジンギス汗の攻撃はとまらなかった。モンゴル軍はさらに西へ侵攻し、カスピ海の南東端から東へ500kmほど離れたホラーサーン地域の中心都市であったニーシャプールに前進した。このとき既に周辺の町はモンゴル軍によって壊滅させられていた。ニーシャプールの城主は降伏を申し出たが、モンゴル軍側は認めなかった。モンゴルの皇子トゥルイの義兄トクチャルがニーシャープールの場内から放たれた矢で戦死していたからだ。モンゴル軍の占領が完了すると、トクチャルの妻であったジンギス汗の娘が、1万人を率いて入場してきた。彼女はニーシャープールの人間のみならず犬、猫、鳥などのすべての生き物を殺した。虐殺は4日間に及び、すべての建物を破壊するには、なお2週間の時間が必要であった。このような恐るべき破壊行動はジンギス汗の親族が戦死するたびに起きた。

ロシア独特の「肋骨に鉤を掛けて吊るす刑」

歴史上、最も過酷な処刑や拷問を制度化したのはロシアであろうが、こうした過酷で残酷な拷問や処刑の法律の原形が成立したのは、ロマノフ王朝の第2代皇帝アレクセイ・ミハイロビッチ(在位1645~76)の治世の時であった。彼の治世には民衆の反乱が相次いだ。1648年には、コサックを解放したボグダン・フメリニツキーの反乱、同年、モスクワ民衆蜂起(塩一揆)、1662年には再びモスクワ民衆蜂起(銅貨一揆)、どちらの民衆蜂起もアレクセイを危機に陥れた。そして最大のものは1650年からのステンカ・ラージンに率いられた農民蜂起であった。アレクセイは反乱を鎮圧する一方で、民衆の不満を鎮めるための行政や司法制度の改正を進めた。刑罰の面では、犯罪を細かく分類規定し、処罰も強化した。もともと刑罰としては、斬首、縛り首、串刺しなどが制定されていたが、鼻や耳のそぎ落としや切断刑が大規模に導入された。他の国にないロシアの著しい特徴のある処刑方法は、肋骨の2本に大きな鉤の先を打ち込み、くるりと回して引っ掛け、鉤についている縄を柱から出ている横木に結びつける方法である。そうすると、死刑囚は2本の肋骨だけで体重を支えなければならなくなる。縄で縛られて吊るされるだけでも、時間が経つにつれて縄が皮膚、筋肉、骨に食い込んで痛みと苦しさで耐えられなくなる。まして肋骨に直接、鉤を掛けて吊るされれば、その激痛は想像を絶する。

先の農民蜂起の首領ステンカ・ラージンは、モスクワの現在の赤の広場で四つ裂きの刑にされた。この「肋骨に鉤を掛けて吊るす刑」もまた、先に述べた「タタール人のくびき」、すなわちモンゴル帝国に支配されていた250年の間に取り入れられたと見られる。というのは、モンゴル帝国に、同じような事例が見られるからである。モンゴル四汗国の1つにイル汗国がある。ジンギス汗の孫フラグ汗が建てた国で、領土は現在のイラン、イラク、シリアあたりを中心とし、地中海まで及び、イラン北西のタブリーズを首都としていた。1316年12歳の幼さでイル汗国第9代スルタン(すでにイスラム化していた)の座に就いたアブー・サイード(在位1316~35)はあまりに幼くしてスルタンの座に就いたため、家臣たちの反乱に悩まされていた。サイードは、自分に忠誠に誓うアミール・チョバンという男に諸将の動向を調査させ、反乱を鎮圧させた。捕虜となった反乱軍の殆どは戦場で斬首されたが、主立った4人は、拷問を受けるために連行されてきた。群衆が見守る中、処刑所に立てられた処刑台の横木に、まず最初の男が肋骨に鉤を掛けられて吊るされた。肋骨に全体重がかかるわけだから、肋骨が折れんばかりにたわみ、血が滴り落ちた。それでも男はサイードを罵ったので、拷問吏たちは男の舌を切り取ろうとした。しかし口を開かせることができなかったので、顎の下から鉄の串を突き刺して舌も貫き、沈黙させた。さらに火炙りにしたうえで3日間、晒し者にした。3日後、既に死亡している男の首は切断され、国中を引き回された。サイードは最終的に、国家を支えてきた宰相ラシード・ウッディーンまで処刑してしまったために財政困難に陥り、イル汗国は分裂してしまう。

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Comment [1]

お久しぶりです。トラバを有難うございました。

貴方も『残虐の民族史』を読まれたのですね。タイトル通り世界史は残虐のオンパレードです。
柳井伸作氏は他にも『世界リンチ残酷史』(河出文庫)という著作がありますが、こちらはご覧になられたでしょうか?世界には様々な拷問や処刑方があると、驚嘆させられました。

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