残虐の民族史 1/3 ~始皇帝

なぜ中国の皇帝は世界一残虐なのか?

> アジア一国一愛人構想、その活動は中国・インドネシアの内戦・革命を震源とし引き起こされるアジアの動乱を収益化することを目的としている。その将来を彷彿とさせる"中国の輝かしい過去"に興味が湧くだろう?

世界で最も残酷な処刑方法を2つ挙げろと言われれば、私は躊躇無く「凌遅の刑」と「腰斬りの刑」を挙げる。私ならずとも世界の刑罰史や拷問史の研究家なら、この2つが飛び抜けて残酷の処刑であると認定するのに異存は無いだろう。両方とも中国の伝統的処刑である。「凌遅の刑」とは3日かけて徐々に死刑囚の体を切り刻んでいく。刑吏も死刑囚も腹がへるから、途中で食事したりする。一部始終を公衆が見物している。この処刑は20世紀の初頭まで存続していた。いかにも4000年の歴史を持つ国の処刑らしい方法だ。もう1つの「腰斬りの刑」だが、読んで字のごとく、上半身と下半身を両断する処刑である。この処刑が世界刑罰史上最も残酷な処刑といわれる所以は、体を真っ二つにされた後も、しばらくは生きているからである。同じ処刑でも、中国では「腰斬りの刑」は打ち首の刑より重い刑罰と位置づけられていたのだ。人間は首を斬られてしまえば、脳と心臓が離れてしまい、たちまちのうちに意識を失って死んでしまう。斬首はされる本人はそれを目撃することも確認することもできない。しかし胴体を斬られたのでは、脳と心臓が離れていないため即死しない。腰斬りは斬り離された下半身を自分で見ることができるのである。死ぬまでに若干の時間があるのだ。それが死ぬ者にとって魔の時間となり、苦しみ抜いたあげくに死ぬということになる。


前210年、始皇帝は病死する。死の床に就いた始皇帝は後継者を長子・扶蘇と定めた勅書を作成したが、それを発送しないうちに50歳で世を去った。この時点で始皇帝の死を知っていたのは、李斯と趙高、始皇帝の末子の胡亥、それに5,6人の宦官だけだった。この間に李斯、趙高、胡亥が謀議して、趙高が保管していた勅書を破棄し、胡亥を太子にし、扶蘇と将軍・蒙括に自決をすることを命ずる勅書を偽造したのだった。李斯は、扶蘇を北の辺境に流すことを始皇帝に建言していたので、扶蘇が皇帝の位に就いた場合、復習されるのは明らかだった。そこでやむなく、この謀議に加担したのであった。しかし第2代皇帝に即位した胡亥は、即位したその日から、周囲の者が自分の陰謀によって皇帝の位を得たかのように見ているような気がして安心できなかった。彼は口実を作って、蒙括の弟の大臣・蒙毅をも殺害し、さらに始皇帝の公子12人を死罪にし、諸侯に嫁がせた皇女10人を磔にした。自分の地位の安泰のために、罪も無い兄弟姉妹まで一気に殺し尽くしてしまったのである。しかし、この2代皇帝・胡亥の命運も長くは続かなかった。即位の翌年の前209年には世界史上初の農民の大規模な反乱である陳勝・呉広の乱が勃発する。陳勝・呉広の乱は2ヶ月経っても鎮圧されないどころか勢いを増すばかりで、反乱軍は新たな王朝を築く動きに出る。これが知れると各地で反乱が相次いだ。

この計画は成功し、扶蘇と将軍・蒙括を亡き者にすることができた中国では、悪徳政府を武力で打ち倒すことは「易姓革命」といって、英雄的行動と見なされるから、反乱者に後ろめたさはない。この反乱を「国家存亡の危機である」と胡亥に進言した官僚があったが、胡亥はこれに激怒し、この官僚を処罰してしまった。一方、「反乱者は群盗にすぎないので、地方の軍隊で鎮圧すべきである」と進言すると胡亥はわが意を得たりとばかり喜んだ。権力者がこのような態度に出ると、周囲の者は恐れて事実を報告しなくなる。李斯は上奏文を奉り、胡亥を諌める行動に出る。現実から逃避したい胡亥は、李斯をうっとうしく思って遠ざけ、都合の良いことばかりを言う趙高をますます重用するようになった。趙高はこの機会を巧みに利用して、「李斯が反乱軍と通謀している、やがて彼は君主に取って代わろうとするに違いない」と讒言した。その結果、李斯以下の一族・賓客は獄に下され拷問を受けることになった。趙高は自ら取り調べに当たり、李斯に1000回を越える鞭打ちを行った。結局、李斯は、彼の次男とともに「腰斬りの刑」に処されることになった。

悪名高い始皇帝の「焚書坑儒」

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秦の始皇帝は、天下の書を焼き払った焚書と儒家を生き埋めにした「焚書坑儒」で悪名高いが、いずれも、先に見た李斯の建言を採用したものだ。李斯は、始皇帝の天下統一にあたって、皇帝の子弟や功臣に領土を与える封建制を採らず、皇帝が領土を直接統治する郡県制を採るように建言した。ところが始皇帝の前で遥か昔の古代王朝である殷周時代を賛美する者があった。殷や周は典型的な封建国家と見られていた。そこで李斯は次のように始皇帝に上奉した。

「仕官に所属されている書物は『奉記』(秦の歴史を書いた書物)以外の物をすべて焼き、博士の官以外で詩・書・百家の言を所蔵している者は、群主・群尉に提出してすべて焼き捨て、詩・書について議論する者は死刑に処し、古を是として今を非とする者はその一族を誅殺し、官吏であって以上のことを知りながら告発しなかった者は同罪とし、30日以内に実行しなかった者は、入墨をして労働刑に処する。」 前213年。始皇帝はこれを採用した。医薬・卜筮(亀甲を焼いて占うことと、筮竹を用いて占うこと)・農業技術書は焚書の例外としたというものの、国内の治安安定化のための情報封殺が、すでに2200年前に行われていたのであった。李斯は、法律や刑罰で国を治める法家思想を信奉していて、それまでの儒家思想を抹殺しようとした。李斯は、法治国家にしようとしたのだが、そのためには、国は徳によって治められるべきだと主張する儒家は邪魔な存在だったのだ。焚書が実行された翌年、儒家で始皇帝を非難するものが居た。政府は役員を動員して、首都・咸陽に所存する儒家をいっせいに捕獲した。その数460人余人。彼らは、大きく深く掘られた穴の前に連行され、次々に投げ込まれた。その上から、穴の脇の盛土がいっせいにかけられた。縛られたまま折り重なって転げている者の体や顔に土が滝のように雪崩落ち、叫んでいる口の中にも土が容赦なく注がれ、たちまち土の中に埋もれていった。その盛り土の上に兵士達が乗って、跳びはねて土を均すと、地中からは、腹が破れて弾けるような鈍い音が幾度と無く響いてきた。あまりの残酷さを見かねた始皇帝の長子の扶蘇は父を諌めた。すると始皇帝は、扶蘇を北の辺境に流してしまった。この措置が始皇帝の死後、趙高や胡亥に陰謀を抱かせ、秦の混乱を招くもととなったのだ。

独裁者という者は際限なく残虐になれるものらしいが、同じ独裁者でも中国の皇帝の残虐さは他の国の独裁者の追随を許さないものがある。なぜか? 皇帝は単なる王や君主ではない。広大な領土と膨大な人口がもたらす巨万の富に支えられた帝国の無二の存在である。皇帝と言う名を初めて自らに冠したのは秦の始皇帝である。始皇帝は自ら皇帝と言う称号を選んだ。意味は、王の中の王、単なる君主を越えた存在ということである。「帝」とは、上帝すなわち最高神のことであり、「皇」とは、祖先神や上帝の美称である。始皇帝の意識の中には自分は中国古代の三皇(伝説上の三天使)五帝(五聖君)より、功と徳において勝っているという自負があったのだ。以後、中国を統治するものは、みな、「皇帝」と名乗ることになったのだが、中国の「皇帝」とはいわば神である。徳によって国を治める神である。ではヨーロッパにおけるエンペラー(皇帝)とはどんな存在なのか。先述したように自ら神と称したローマ皇帝のような例外はあるが、キリスト教を受け入れてからはエンペラーにしろ王にしろ君主にしろ、神に統治を任された者にすぎないのだ。エンペラーの上には「神の法」が存在するのだ。ここから「法治」という伝統が生まれた。秦の始皇帝は丞相だった李斯が法治主義を根付かそうとした。しかし、その後、中国には「法治」という伝統が育たなかった。中国の伝統は、皇帝による「徳治」である。いくら徳があるといっても、皇帝は所詮人である。「人治国家」と言われる所以である。中国の独裁者の際限無い残虐性は、このへんに原因を探れるかもしれない。

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