地獄の季節

北須磨団地には、川崎重工だけでも100所帯はおるし、神戸製鋼系がいちばん多いんかな。ここらは、みんな労働組合関係の人間ばっかりや。1坪3500円で労働金庫が神戸市から買い取ったところでな。うちは300万ぐらいで買うたんやったかな。北須磨団地はただ単に種種雑多な人々が住んでいるだけの街というわけではなかった。労働運動に根ざしてひとつの思想に貫かれた人々が中心をなしている街なのである。団地の中には「東大通り」「灘高通り」と呼ばれる街路があり、エリート意識の強さを示している。


少年Aの住む北須磨団地が最初の産声をあげたのは、1967年のことだった。木造一戸建て住宅200戸が完成し、第一次入居がはじまったのである。「勤労者に住宅を!」のかけ声のもと、兵庫労働金庫が創立15周年を記念して着手した日本最大の労働者の団地であった。人々は毎月1万円ずつを労働金庫に積み立て、ボーナス時をふくめて3年間で60万円を貯め、入居資格を手にした。月々1万円の積み立ては、1965年当時の東京板橋区の1戸建て、もしくは長屋形式の家賃が4000円だったことを考えればかなりの金額であったことがわかる。マイホームの夢は、それほどまでに彼らを魅了してやまなかった。街の名前は労働運動が唱えてきた「友愛」からとり「友が丘」と名づけられた。

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自治会運営の原則として、
1.自治会に政治色・政党色を持ち込まない。
2.昔の隣組式ではない、個を尊重しながら全体の和を保つ。
3.役員は民主的な選出方法を考え、今後の加入者も平等に参加できるようにする。
4.会費は必要最低限にしぼる。

彼らが目指したのは「自分達がつくる自分達の街」であり、「警察のない街」であった。実際人口7000人となった北須磨団地には、いまでも交番や派出所はない。地元の人間ではないタクシーの運転手から行き先を北須磨団地と告げたときに投げ返されたこんな言葉がある。「ああ、アカミチですか」 意味がわからず聞き返さなければならなかった。「"赤の道"ですわ。あそこは労働組合の団地ですやろ。私らはあの団地のことを"アカ道"言うてるんですわ」 妬みとも蔑視ともつかぬひびきが籠もっていた。

自治会長石田一一氏は「ここに交番置いたら、一戸一戸全部まわられて、個人的な情報、みな持っていかれてしまうがな。それでは労働運動にとって、ブレーキになる。郵便局をしばらく置かんかったのも。おんなじ理由からや。何丁目何番地までわかってまうやろ。昔は警察が戸別訪問して、町内会が持ってる以上のデータを持っていったもんなんや。ところがこの事件が起こってそれが裏目に出た。警察には住民の情報がなかったから、一戸一戸全部、聞き込みせんといかんかったわけや。警察を必要としない街づくりをやってきたのは、わしらや。パトロールでも何でも、自分達でやらないかん」 交番は受益者負担で作らなければならない。建物を住民側が建てて警察官に来てもらう。それではあかん、と石田老人は言う。「土地の有力者と警察との癒着が起こる可能性があるからや」 石田老人は自治会事務所を交番で提供しようと提案したが、そのときちょうど交番の統廃合問題が起こり、縮小に向っていく時期に直面した。交番問題は結局、そのまま立ち消えになってしまった。

2月10日、友が丘中学の中落合の団地の植え込みのあたりで、小学校6年生の二人の少女がハンマーのようなもので背後から殴りつけられていた。命に別状はなかったが、一人の少女の腹に深い疵を負わせ、もう一人の少女を死に追いやった3月の通り魔事件や、5月の土師淳君事件ばかりではなかったということが、絶望的な空気をこの街にもたらしていた。ただ、それらの事件が引き起こされる前から、この街には実に不可解で、奇怪な事件がたてつづけに起きていたのである。3年前には、錯乱した息子が父親を刺し殺す事件があった。犯人は逮捕されたが精神鑑定の結果、精神障害が認められ、罪には問われなかった。住民の中からは「その犯人が、今帰ってきてるんや。そいつがやったのかもしれん。」という声が聞かれた。実際、警察も事件が発生してまもなく、必死で彼の行方を追った。石田会長は「あれは全然関係ない。あいつは、いまも精神病院にはいっとるわ」と一笑に付した。惨劇の家は土師家の近くにあった。白い2階建ての家だ。壁にはひびが入り、玄関前の小さな庭には雑草が伸び放題になっている。事件後、空き家となったのその家には、いまだに誰も住もうとしない。放火やささいな付け火の類は、珍しいことではなかった。タンク山の枯れ草が燃え、ごみ捨て場のごみが燃えた。なかでも不気味だったのは、自分の家に火を放ったという男の存在である。30代後半のその男は、一再ならず5度までも自宅に火をつけた。しかも内鍵をかけ、自分もろとも焼き尽くそうとした。

実に不可解なのは、土師淳君の頭部を友が丘中学の正門前で3人が語る頭部の位置がそれぞれ食い違っていることだった。最初に警察に通報したのは、友が丘中学の管理員である。彼がそれを発見したのは朝の6時40分、朝刊をとりに正門に出た時だった。捜査本部の発表によれば、管理員の通報で駆けつけたとき、頭部は門扉の中央付近のコンクリート地面に正面に向けて置かれてあったという。それ以前に5時半ごろ、散歩で正門の前を通った84歳の老婆である。私がしめした友が丘中学の正門の写真を見ながら、彼女が指差したのは門扉の中央ではなく、その右側の門扉を収納する門柱に刻まれた校名プレートの真下の地面だった。もうひとりの目撃者は、毎日新聞の配達員である。49歳の彼が見たのは、配達途中の6時半ごろだったという。「僕が見たのはここですわ。酒飲んだような赤い顔をしとって、蝋人形みたいに見えたんですよ。まさか人間だとは思わんかったけど、年齢にすれば、30歳過ぎぐらいに見えましたよ。正面を向いて置いてありました」 目撃者3人が見た頭部の位置は、なぜ違っているのか。事件はこの件についてはついに解明されないまま、終結を迎えることになる。

タンク山一帯は、もともと竜華山と呼ばれたなだらかな山並みであった。古くは転法輪寺という今もニュータウン近くにある寺の領地で、修験者たちが行き交った。明治の地租改正以降、所有者はばらばらになった。その大部分を神戸市中山手通に住む中国人、鄭一族が所有していた。1932年(昭和7年)には鄭道享によって「須磨ゴルフ場」を建設する許可申請が出されたが、満州事変勃発など諸般の事情のための中止された。戦後の高度経済成長期になって、そのままそこがニュータウンとして造成されていったのである。鄭一族はタンク山を1972年まで所有していた。北須磨団地の第一次入居がはじまったのがその5年前からだから、最後の最後まで買収要請に応じなかったのだ。1972年からは神戸市の所有になっている。

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高山 文彦

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