岸信介 -権勢の政治家- 3/3~軍需省から戦後

東条内閣の末期、戦局は絶望的になっていた。軍需省が誕生した18年11月、米軍はギルバート諸島のマキン、タラワ両島に上陸し、5400人の日本守備隊を玉砕させるが、ミッドウェー海戦(昭和17年6月)、ガダルカナルの敗退から打ち続く戦局の悪化はもはや決定的となっていた。以後クエゼリン、ルオット両島(マーシャル諸島)の守備隊玉砕(19年2月)、トラック島壊滅(19年2月)、さらにはマリアナ沖海戦の敗北(19年6月)と日本軍はことごとく惨敗するが、このマリアナ沖海戦とほぼ時を同じくして起こったのが、米軍のサイパン上陸とそれに続く日本守備隊30000人の玉砕であった。岸と東条の対立が公然化した引き金は、まさにこのサイパン陥落であった。「サイパン陥落は日本の戦争継続を不可能にした」というのが岸の主張であったのにたいし「作戦的判断は軍人のやることであり、岸ら素人の関知するところではない」というのが東条の立場であった。しかし、サイパン陥落によって日本本土が米軍用機B29の攻撃射程に入ったことは事実である。軍需次官として管轄する国内各地の軍需工場が米軍の爆撃にさらされることは自明であり、対米戦争はもはやこれまでというのが岸の判断であった。岸の「早期終戦」論である。


岸の「反東条・倒閣」が実は彼自身の「先物買い」であった、という説は戦後まことしやかにささやかれた。戦局が極度に悪化して、早くも岸は戦犯逃れを考えたうえで東条の戦争政策に反逆して見せたのだ、という説である。ただ、「反東条・倒閣」は岸の単なる個人プレーとはいい難く、岸を含む広範かつ組織的な工作の結果であった。木戸内大臣や、近衛、岡田啓介、米内の元首相など、さらには藤山愛一郎、池田成彬ら財界指導者の中にも浸透していたのである。

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しかしそれにしてもこの「反東条・倒閣」に関連して岸には奇妙な行動が見え隠れする。1つはカネをめぐる問題であり、今ひとつは「反東条・倒閣」と矛盾する行動である。近衛の女婿細川護貞は日記で、「岸は在任中、数千万円少し誇大に云えば億を以って数える金を受取たる由、然もその参謀は皆鮎川義介にて、星野直樹も是に参画しあり。結局この2人の利益分配がうまく行かぬことが、内閣瓦解の1つの原因でもあった。これについてはさすが山千の藤原銀次郎が自分(井沢)の処で驚いて話した。」(数千万円を仮に3000万円とするなら今日の貨幣価値でざっと250億円)

東条暗殺計画に関与していたとされる高木惣吉(海軍教育局長)は日記で、7月6日における岸との会見の模様を記している。岸は高木に対して「東条に変わりうる人材が見当たらないので、東条をして何とか国力を結集して戦争に向かわせる外なしと思う故、助力ありたし」とのべ、「次の手」として「東条だけ残って閣僚も三長官も総替りする位のことが必要と訴えている」


A級戦犯容疑者が起訴ないし不起訴になったその分岐点の一つは、太平洋戦争開始前にもたれた日米交渉に関連して対米開戦を決定した昭和16年12月1日の御前会議に出席したかどうかが、国際検察局(IPS)の最大の関心事であった。「御前会議出席」について、戦後岸はこれを認めたり否定したりしているが、最近整理公開されたIPSの尋問調書には岸がこの御膳会議に紛れもなく出席していたことを明らかにしている。(モーネイン報告)

モーネイン報告が作成されるはるか以前に、IPSが岸の容疑固めに動いていたことはいうまでもない。「満州ギャング」「戦争唱導者」としてウォルドーフ報告書、岸を「国際法廷で裁かれるべき第一のグループに入れるべき」としたモーガン報告書、主として岸の満州における行動を分析し、東条内閣時の大東亜省設立と岸とのかかわりなどを記述したマックイン報告書などがそれである。その基本的な問題関心は、岸が満州の産業開発と法制整備にどのように主導力を発揮したか、商工相として日米開戦にどうかかわり、軍需次官として戦争遂行にどのように力を尽くしたか、そして岸がその人脈とりわけ軍部との濃密な関係をどのように築いたか、といったことに注がれていた。

一方で、岸釈放の動きとして、椎名悦三郎のマッカーサー元帥宛嘆願書は注目に値する。椎名は満州国産業開発5ヵ年計画の草案作りに岸は参加していないこと、今次大戦中軍需次官としての岸の立場は、陸海軍支配下の同省内にあって「哀れむべき」立場にあったこと、岸の「東条打倒」が同内閣総辞職につながったこと、等々を強調して「岸釈放」を請願しているのである。

一般参謀本部第二部すなわちG2は、ウィロビー将軍率いる「情報・治安」担当部局である。G2が「岸釈放」勧告をマッカーサー元帥に送った時期は、時期と重なっていた。ドイツ出身の反共主義者ウィロビーとニューディーラーでありリベラリストといわれたホイットニーとの対立は21年1月から開始された日本指導層の公職追放をめぐって早くも「最高潮に達した」。民主化を徹底する立場から容赦なく旧指導者の公職追放を進めるGSとこれを「容共的」と断じて猛反発するG2との「内戦」は、以後、対日占領政策のあらゆる局面で熱度を高めていく。

GSとけんかばかりしていた第一次吉田内閣(昭和21年5月~22年5月)はすでにウィロビーと親密な関係を結んでいた。GSから支持されていた芦田均内閣(昭和23年3月~10月)を、あの昭和電工事件(昭和電工社長日野原節三が復興金融金庫から融資を受けるために政官界に運動費をバラまいた一大疑獄事件)の摘発をもって倒したのはほかならぬウィロビーのG2であった。「反共」のG2が「対日懲罰」のGSを完全に凌駕し、G2およびこれと連携する人脈が獄中の岸と接触し、GHQ経済科学局のキャピー原田は巣鴨の岸から戦後復興問題でたびたび意見を聞き、原田自らマッカート少将に「岸釈放」を説いている。

28年もくれる頃、自由党総務会は島内に設置される憲法調査会の会長に岸を充てることを承認する。鳩山は秘密外交排除のための「外交委員会」とともに、現憲法の「研究調査をなす」ための「憲法改正調査会」を自由党内に設置すべき旨を吉田に示し、吉田がこれを受け入れたことによって、「鳩山復党」の大義名分が生まれたわけである。かくて吉田は同調査会会長の座に、保守再編の旗振り役ともいうべき岸を据えることになるのである。「保守結集」は吉田にとって両刃の剣であった。いや吉田にとって「保守結集」はその推進勢力をみればわかるように、みずからの政権を突き崩す力を秘めていた。吉田政権に「ポツダム体性派」なる烙印を押して、「独立の完成」のための「保守結集」を叫ぶ岸が吉田にとって無気味な存在であったことは確かである。

自民党第二代総裁選出のための選挙が行われたのは、日ソ共同宣言の調印から2ヵ月後の12月14日である。石橋湛山、石井光次郎、岸信介の3者によって争われることになる。第1回投票で岸は一位となるが過半数には至らず、決選投票で石橋、石井の2位3位連合によって、石橋が7票差で岸に勝利する。石橋は、旧緒方派を継承した石井派、旧吉田派の一部を引き連れる池田派、旧改新党系の三木・松村派、そして大野派と結ぶことによって、旧吉田派の分流である佐藤派、旧日自党系・旧改新党系からなる河野派、旧改新党系の大麻派などを主勢力とする岸に僅差で勝った。

敗北としたとはいえ同占拠で党内の約半数の支持を得た岸が、その力を背景に石橋の人事工作に猛然と反発していくのである。石橋が石井との密約、すなわち石井副総理に固執するなら自分は入閣しないこと、しかし挙党一致態勢をとるなら入閣はやぶさかではないというものであった。結局石橋は「石井副総理」を棄てて岸の入閣をとる。岸の外相就任である。わずか2ヵ月後、病臥引退の石橋に代わって首相になったまさにそのポイントはここである。巣鴨プリズンから解放されて8年2ヶ月、衆議院議員の議席を得てわずか3年10ヶ月にして岸は遂に権力の頂点を極めることになる。ときに60歳であった。

【国家創設の野望】
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2014.01.22 ソ連解体後 5/6~連邦解体を促進した「8月クーデター」
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