実録ラスプーチン 8/8~暗殺計画と不死身伝説

ラゾヴェール博士はゴム手袋をはめて、青酸カリの結晶を入念にすりつぶして粉末にした。彼はそれを気前よくケーキに振りかけた。彼はまた0.3gを数滴の水に溶かし、2個のワイングラスに注いだ。致死量は0.04gだ。ラスプーチンは髪や髭をきれいに洗って櫛でなでつけ、染み一つないブルーのブラウスを着ていた。彼は長老に毒のついていないビスケットを差し出した。最初、毒入りケーキを勧めた時、ラスプーチンはいらないと言った。さらにどうぞと言うと、彼はそのうち2切れを食べた。青酸カリは苦いアーモンドのような香りがするが、彼は何も言わなかった。しばらくして彼は喉が渇いたのでお茶を所望した。ユスーポフはワインを勧めた。クリミアの一族の領地で取れるユスーポフ・ワインである。だが、ラスプーチンはマディラ酒のほうが良いと言った。ユスーポフがこの男のことをよく研究しておいたならそれがわかっていたはずだ。彼は何も添加物のないワインのグラスを勧めようとして、それを落とし、別の毒入りグラスを渡した。彼は飲んだ。何も起こらなかった。ラスプーチンは「のどがちくちくする」と文句を言っただけだった。ラスプーチンは黒壇の飾り箪笥の小抽斗を開けたり閉めたりして面白そうに遊んだ。いつ彼が倒れるかと待ち構えていたユスーポフは、イリーナがそろそろ来るかもしれないので調べてくると言い訳して地下室から姿を消した。仲間の陰謀者たちは、階段の一番上にたむろして、「ヤンキー・ドゥードゥルドゥー・ダンディー」のレコードを何度もかけなおした。彼らは姿を見られてはならなかった。もしラスプーチンが国会演説で激しく自分を非難したプリシュケヴィチを見かけたなら、ただちに何が起ころうとしているか悟ったであろう。ラゾヴェールは、彼自身の弁によれば、毒物が効かなかったことにすっかりイライラして気が遠くなり、雪の庭に出てやっと生気を取り戻した。警保局長ヴァシリーエフは、ラゾヴェールが良心の呵責に耐えかねて、青酸カリの代わりにソーダかマグネシアを使ったと断言している。解剖の結果、毒物が発見されなかったことに対するもう一つの説明は、インチキ薬品製造業者が、軍部の医療隊に純正薬品でなく偽者を納入していたというものである。第3の、ユスーポフ好みの理由が、この邪悪な男は悪魔の力に守られていたのだという。


2時間ほど過ごし、殺人は長丁場になりそうだった。女性達のパーティーという言い訳はだんだん通用しにくくなってきた。フェリックスは当惑し、空恐ろしくなった。階上にいる仲間達は落ち着かなくなり、何かと物音を立てた。ラスプーチンはそれを聞いて何が起きたのかと訊ねた。ユスーポフは調べてくると言って地下室を出た。ドミートリー大公は疲れたので帰りたいと言った。「あいつを半殺しのままで下において置けないよ」というプリシュケヴィチの言葉に、一同は「自分達のすべてを賭ける」しかないと思って、長老を射殺するために、一緒に地下に降りることになった。ユスーポフはラスプーチンが我々全員一緒にいるところを見たら警戒するに違いないからと、一人でドミーとリーのブラウニング拳銃を持って地下室へ戻っていった。ラスプーチンはテーブルに顔を伏せて座っていた。呼吸は荒かった。「頭が重くて、胃が焼け付くようなんだ。ワインをもう一杯くれ。ちっとは効くだろう」。ワインをごくごくと飲みほすと、彼はしゃっきりした。青酸カリが体内に入っているにもかかわらず、彼はユスーポフにジプシーの所に行こうと誘った。「心は神とともに、肉体はその持ち主とともにある」と彼は言った。ユスーポフの回想録によれば「私の腕はしっかりと彼の心臓を狙い、引き金を引いた。ラスプーチンは凄まじい叫び声を上げて熊の毛皮の上に倒れこんだ」 他の連中も駆け下りてきた。彼らはラスプーチンの身体を熊皮からもちあげて、敷物に血液の染みができないようにした。ブルーのブラウスに血がしみだしていくに連れて、長老の顔はぴくぴくと痙攣した。やがて身体が動かなくなった。午後3時だった。ラゾヴェールは彼を診察し死亡を告げた。プリシュケヴィチ管轄の病院列車まで車で行き、そこでラスプーチンの衣類を焼却した後、モイカ宮殿に戻って遺体を乗せ、川に投げ込みにいくことになっていた。

出発前、プリシュケヴィチとユスーポフはこれでロシアを救えたと信じてほっとし、葉巻を一服した。ユスーポフは、自分の夜中の仕事の成果を確かめるために、もう一度地下室に戻った。彼はその死体に魅せられ、たった一人で死体といっしょに30分近くを過ごしたその間に何か奇妙なことが起きた可能性がある。そして国会議員マクラコフは「ユスーポフはそのときことをよく覚えていると思うが、それについては何も言いたくない」となぞめいた言葉を残している。マリーヤ・ラスプーチンの説明では、ユスーポフは11月に父を何度か尋ねてきたが、あるとき、父を誘惑しようとしたことがあった。だから彼は死んだばかりの父と性交したのだという。シマノヴィチは、ユスーポフがラスプーチンのところへホモセクシュアリティの治療に来たことがあり、その際ラスプーチンは「彼を横に鳴らせて、紐で縛り、催眠術をかけた」ことがあったという。だが、どちらの言い分も当事者以外の裏づけとなる証拠はない。当人の弁によれば、ユスーポフは死体の腕をとったが、既に脈はなかった。彼は激情に駆られてその腕を揺さぶった。すると死体が動き出して毒蛇のような緑色の目が開いた。ラスプーチンはうめき声を上げて立ち上がり、彼に飛びかかった。「フェリックス、フェリックス」と繰り返しながら、彼の首を絞めようとした。ユスーポフは、ラスプーチンの手が自分の士官学校の制服の肩章を1つもぎとったところで、やっとそれを振りほどき、階上へ駆け上がった。

やがてプリシュケヴィチもまた恐ろしい現実を目の当たりにする。30分前には死んで地下室に横たわっていたラスプーチンが、階段を上って、雪に覆われた中庭を横切り、街路に通じる鉄門のほうへと走っていったのである。「私は自分の目を信じることができなかった『フェリックス、フェリックス、皇后に何もかも言いつけてやる』という激しい叫びが、夜のとばりを破って私の耳に響いた」 彼はソヴァージュの拳銃を取り出して発砲した。狙いははずれ、もう一度発砲したが、またも外れた。3発目、弾丸は彼の背中に当たった。彼は立ち止まったので、4発目を撃った。それはたぶん、頭に当たったようだった。プリシュケヴィチは駆け寄って、ブーツで思いきりラスプーチンを蹴飛ばした。ラスプーチンは雪の上に倒れ、起き上がろうとしたが歯ぎしりするだけだった。今度こそ最後の白鳥の歌が歌われ、彼が二度と起き上がらないことは確かだった とそれから数時間後のプリシュケヴィチの日記にある。さらにユスーポフがゴム製のバットを持って現れ、死体を殴打した

両人の実際の殺害場面についての説明は、解剖所見によって確認された。左胸部に残された傷は、ユスーポフが最初に心臓めがけて撃ったものと符合し、右背後と頭の傷は、プリシュケヴィチが背中と「たぶん」頭を撃ったという供述と一致する。コソロトフ教授はまた、プリシュケヴィチが蹴った時と、ユスーポフが殴打したときのものと思われる打撲傷も発見した。これらの銃声を聞いた警察官ヴラシーエフに口止めしてから、ラゾヴェール一行は午前5:30に車で宮殿に戻った。木綿のシーツ、青いカーテン、ボロ布、帆布などでくるんだ死体は、猛スピードで市の北のペトロフスキー島方面へ運ばれた。陰謀者は疲れきっていたユスーポフを除いて、全員が車に乗っていた。低い欄干から死体を放り込むとき、彼らは2つのへまをやった。死体に錘をつけるのを忘れ、事件の発覚のもとになったブーツを氷の上に残してしまったのである。


現体制最後の夜

1917年2月26日 彼は陸軍省から、兵士達が暴徒に発砲せよという命令を拒否したという報告を受けていた。もっといい時代ならば、人々が「パンをくれ」と言ったら、パンをやれば、それでことはすむ。だが、「専制政治打倒」の旗があがっているときに、どんなパンを与えれば、彼らを鎮めることができるのか? と皇帝はいった。アレクサンドラはまだ自信を持っていた。「これは1905年の時と違うと聞いています。なぜなら誰もがあなたを敬慕しており、ただパンを欲しがっているだけだからです。」と彼女はニコライに書いている。

2月27日、ヴォリンスキー近衛連隊は、午前の閲兵式で、完全戦闘体制を組んだ。その夜彼らは会合を開き、これ以上死刑執行人の役は演じないことに決めた。つまり国民の味方になることにしたのだ。彼らは指揮官のラシェエヴィチ大尉に、いつものように従順に「御意!」と挨拶する代わりに、「ウラー!」と歓声を上げた。

3月2日 グチコフとシューリギンがプスコフに着いたのは午後10時だった。退位書は改めてタイプで打たれた。ニコライはそれに、「まるで友達への走り書きか、洗濯屋に出す汚れ物のリストでも作るかのように」、中身にまったく無関心のまま、鉛筆で署名した。その署名を保護するために上からニスが塗られた。すべてが終わった。革命からわずか1週間で、グリゴーリー・ラスプーチンの遺体はこの世から跡形もなく消え去った。


シマノヴィチによれば、ラスプーチンは死の数日前、異様な文書を書き残している。「ポクロフスコエ村のグリーゴーリー・エフィーモヴィチ・ラスプーチン-ノヴィークの心情」と題するその文書は、「私はこの手紙を書いてサンクト・ペテルブルクに残しておく」という出だしで、次のように書かれている。

私は1月1日以前にこの世を去ることになりそうな予感がしている。私はロシア国民と、皇帝と、ロシアの母である皇后と、その子供たちと、ロシアの大地に、理解してもらいたいことを知らせておきたい。もし私が庶民の暗殺者に、とりわけ我が同胞のロシア農民に殺されるならば、ロシア皇帝であるあなたよ、何も恐れることはない。皇位にとどまり、統治されよ。ロシア皇帝であるあなたは自分の子供たちのことを心配する必要はまったくない。彼らは何百年もロシアを統治していくであろう。だが、もし私が貴族に殺され、貴族が私の血を流すならば、彼等の手は私の血で汚れ、私の血は25年間、彼等の手から洗い落とされることはないだろう。彼らはロシアを去ることになるだろう。同胞が同胞を殺し、彼らは互いに殺し合い、憎みあい、25年間にこの国には貴族は一人もいなくなるだろう。ロシア大地の皇帝よ、グリゴーリーが殺されたことを告げる鐘の音を聞くとき、あなたは次のことを知らねばならない。もし私の死を画策したのがあなたの身内であったならば、そのときはあなたの親族は誰一人として、つまり、あなたの子供たちも、身内も、誰一人として2年以上生きながらえることはないであろう。彼らはロシア国民によって殺されるであろう。私は去っていく。私がいなくなったら、ロシア皇帝はいかに生きるべきかを告げよという神の命令を、私我が身に感じる。あなたは思慮をめぐらし、慎重に行動しなくてはならない。あなたの身の安全を考え、あなたの身内の者たちに、私が彼らのために私の血を流したのだと告げよ。私はやがて殺される。私はもはや生者の中にはいない。祈れ、祈れ、強くあれ。あなたの聖なる家族に思いを馳せよ。グリゴーリー

シマノヴィチはこの手紙を皇后に渡し、皇帝には見せないように言い含めたと述べている。彼女はのちにそれをシマノヴィチに返した。彼はこの手紙の模写を1934年、パリに亡命中に、歴史家バーナード・ペアーズ卿に見せた。ペアーズはこの手紙を一字一句そのままに、1939年に出版された彼の名著『ロシア君主政の崩壊』のなかに引用し、これを入手した経緯も述べているが、「それ以上のことはについては立証できない」と付け加えている。この予言は恐ろしいほど正確だ。ドミートリーはロマノフ家の一員であり、ユスーポフは大貴族であり、やがて革命派の粛清も起こった。この手紙はラスプーチンの予知能力を裏付けているように思われた。これは彼が書いたのか? 言葉遣いは慎重で句読点もきちんとし、構文も意味も明瞭で、少しも脇道にそれていない。つまりラスプーチンのよく知られた走り書きの特徴とされる取り止めのなさや、ぶっきらぼうさもない。リリー・フォン・デーンの回想によれば、「彼はほとんど理解できないようなシベリアの方言で話し、文字はほとんど読めず、四歳の子供程度にしか文は書けなかった」という。いくらよく見ても、これは口述筆記させたものだろう。

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