岸信介 -権勢の政治家- 1/3~帝大から農商務省

岸信介は1896年山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)に生まれる。父佐藤秀助と母茂世の間には3男7女がもうけられた。信介はその次男である。他の兄弟姉妹がすべて田布施生まれであるのに、信介だけは山口町で生をうけている。父秀助が当時たまたま同地で県庁の役人をしていたからである。秀助はもともと岸家の出だが、同じ田布施にある佐藤家の家つき娘茂世と結婚し、佐藤姓を名乗る。秀助18歳、茂世14歳の時である。茂世の両親は継ぐべき息子たちに恵まれながら、長女茂世の婿養子として秀助を迎え、佐藤家から分家させる。「佐藤信介」がのちに「岸信介」へと改姓するのは、実は父秀助の実家に信介が養子として入ったからである。

> わかりやすく日本で最も有名な非民化した家系図を載せておこうw
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岸が巣鴨で書いた「我が思ひ出の記」を読んでまず驚くのは曽祖父佐藤信寛に対する尊敬と誇りである。信寛(幼名寛作)は佐藤家の三代目である。初代は佐藤市郎右衛門、二代目は源左衛門。ともに毛利家の無給通(給領地をもたない武士)であった。信寛は毛利家御内用掛書調役(藩の記録係に類するもの)として出発するが、明治3年浜田県権知事(現在の副知事)となる。そして浜田・島根・鳥取の三県合同を果たした明治9年、彼はこの合併県の長すなわち島根県令に累進する。寛永4年から明治維新にかけて信寛が書いた「佐藤信寛手控」なる民政典例の筆録は長州藩の治績を知るうえでの貴重な資料として今に残っている。「吉田松陰先生より曽祖父宛の書信を見たこともある」という岸の追想からも察せられるように、信寛は松蔭と交わっており、軍学長沼流を松蔭に教授する。明治維新の志士たち、とりわけ伊藤博文、井上馨、木戸孝允、宍戸タマキらとの間にもかなり深い交友関係が続いた。井上家には、三男の太郎(のちに陸軍大尉)を養子に出している。

岸は高校時代には自由闊達な校風のなかで相当広範囲な濫読に明け暮れている。イプセン、トルストイ、ドストエフスキー、ゲーテ、シラーなどの小説類、ヘーゲル、ニーチェ、カント、ショーペンハウエル等の哲学書を翻訳を読み、さらに和書では、西田幾多郎、夏目漱石から歌集・歴史物に至るまで手当たり次第に耽読している。高校では「独法」に入ってドイツ語を徹底的に仕込まれたこともあってかなりの分量をドイツ語で読む。岸の知的好奇心は総じてヨーロッパに向っており、日本文化への関心も、のちの国粋主義者岸信介にしては、当時の若者たちの関心とさして異なるところはない。高校時代、岸はこうして多様な読書と趣味に浸りながらも、学業成績の方は上位から大体数番目であった。東京帝国大学に入ると、高校時代に果たせなかった首席を、のちの東大教授我妻栄と分けることになる

北一輝
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北一輝が岸に与えた思想的衝撃力は重い。岸が北と直接相まみえるのはただの1回だが、その出会いは岸にとって劇的でさえあった。1916年6月、中国革命に身を投ずるために上海に渡った北は、大川周明の求めもあって1920年1月、つまり岸が大学を卒業する少し前、長崎経由で東京に帰っていた。前年、満川亀太郎とともに政治結社猷存社をつくった大川周明が、この猷存社の指導者に北を据えるべくわざわざ上海に彼を訪ね、日本に帰るよう説いたのである。北の眼光炯々とした隻眼でにらみつけられた岸は、魁偉なるその風貌と烈々たる革命家的気魄とには完全に圧服されてしまった。辛亥革命の革命服に身を包んだ北は、宙を指差してこう叫んだ。「空中に君らの頼もしい青春の血をもって日本の歴史を書くんだ。」 北が中国で執筆した『国家改造案原理大綱』は、彼の記憶前すでに大川らの手で密かに日本へ運ばれていた。ごく限られた支持者に配布され回読されていた。岸もこれを手に入れ、夜を徹して筆写している。

国家改造原理大綱は、天皇がクーデターによって3年間憲法を停止して「両院を解散し全国に厳戒令を布く」こと、華族制度を廃止すべきこと、治安警察法や新聞紙条例などの廃絶による「国民の自由の恢復」を計ること、皇室財産を国家に下付すべきこと、国民の私有財産を制限すべきこと、大資本の国有化を行うこと、そして私企業の純益を労働者に配当し、1日8時間労働と日曜祭日の休業を断行すべきこと等々と唱導し、文字通り国家改造の具体的シナリオを示している。さらに世界領土の再分割を説く。「不法の大領土を独占して人類の共存の天道を無視する者」には「戦争を開始するの権利を有す」として、オーストラリアや極東シベリアを取得のための開戦は「国家の権利なり」として、帝国主義的領土拡大の正当性を訴えているのである。

岸は東京帝大を卒業後、農商務省に就職する。政治家になるなら内務省に行くべきところ、「政治家志望であるからこそ、農商務省に行きたいのです。」と反論している。官僚としての岸のキャリアは2つの時期に大別されよう。第1の時期は、農商務省ないし、商工省の16年、第2は、満州国実業部に着任してから商工次官就任のために帰国するまでの満州国3年。

第1の時期、農商務省が機構改革によって農林省と商工省に分離したのは大正14年であるが、商工省に配属された岸が際者に出くわした大事は、翌大正15年の欧米訪問である。少壮官僚岸がまず驚いたのはアメリカ経済の底知れないスケールであった。「その当時のナニからいうとね、日本は1年間の鉄鋼生産目標を100万トンに置いていたのだが、100万トンなど到底達成できなかった。ところがアメリカは、1ヶ月の生産が500万トンぐらいあるんだ。日本では自動車の数がまだ非常に少なくて、ポンコツになるまで修繕して使っていた。しかしアメリカでは、使い捨ての自動車が原っぱに積み重ねられている。石炭や鉄鉱石その他の資源の産出量を比べるとわかるが、日本がアメリカを目標にして経済政策を考えたって、どだいスケールが違っていた。アメリカの偉大さに圧倒され、一種の反感すら持った。」 岸は日米の経済格差に愕然とし、アメリカ資本主義が日本の経済発展のモデルにはなりえないことを悟ったのである。

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