海道の社会史 4/4~ミンダナオ以南スルー諸島

南ミンダナオ圏は決して一様ではない。生態系としてはっきりと2つの土地に分かれる。コタバトはミンダナオ第一大河プランギの河口に位置し、多くの支流を集めるその沖積平野は農業地区であり、水田稲、陸稲、バナナ、キャッサバ、野菜類がよく栽培されている。海岸部は衰退したマングローブ汽水帯で、ムスリムの漁民が多い。これに対してスルー群島の多くの島々には珊瑚礁が発達し、農地はあまり見られない。わずかに栽培されているのは、キャッサバ、バナナその他の果樹、マニラ麻などである。スルーでは農耕生産が珊瑚礁という地質に制約されきわめて貧しいのだが、海の生産は豊かである。この海域はフィリピン群島でよく知られた漁場であり、スルー海、モロ湾はカツオ、マグロが豊富である。こうした回遊魚漁業の基地は、今日、サンボアンガである。そこにはヨーロッパ系、日系の缶詰工場が設けられ、魚の腸や骨を利用したドッグフードも生産されてヨーロッパに輸出されている。サンボアンガの魚市場でマグロを眼にすることはない。マグロ漁獲のすべてが缶詰工場に買われるからである。回遊魚の加工だけでなく、スルーは、マルク圏と同じような特殊海産物の産地だった。

ミンダナオは北海道と似たところがある。両者ともに国内植民地だった。ミンダナオは最後まで抵抗を続け、その領有は19世紀末まで決まらなかった。ミンダナオとスルーは東南アジアで最後まで植民地主義国による領有が決まらなかった土地である。こうした植民地主義による領有未決定とそこがムスリムの居住地であったことがからまって、ミンダナオは後々まで特殊視されてしまう。米西戦争に勝ったアメリカ合衆国は、1898年スペインから群島を譲り受けるが、この領土にはミンダナオやスルーが含まれていなかったので、あらためて条約を結ばなければなかった。アメリカは1929年の世界恐慌を境として、フィリピンの砂糖や移民労働者の流入を阻止するために、フィリピン独立を深刻に考えるようになる。フィリピンの側における独立運動の圧力とあいまって、この配慮が米国議会における1934年のフィリピン独立法案となった。ところがミンダナオだけは異教徒の土地だから、永久にアメリカの一州とすべきだというような声がかなりあった。事実、独立の約束を交わした後だったにもかかわらず、アメリカに亡命したユダヤ移民の処置に困ったルーズベルト大統領は、ミンダナオにユダヤ国家を建設する案などを考えている。そんなふうに独立すべきフィリピンからミンダナオだけもぎとられては困るので、独立準備国家ともいえるコモンウェルスの初代大統領ケソンは、ミンダナオのフィリピン化を進めなければならなくなる。

ミンダナオの歴史、面白いですねぇ…。


ラナオ湖のマラナオ族にスペインへの抵抗を働きかけた時、コタバト王国の建国者クダラートは面白いこと言っている。「従えば一生の奴隷、戦っても1年の収穫を犠牲にすれば済む」 補給のきかないスペインは1年持ちこたえられるはずはないし、こちらは山中に入っても暮らしを落とせばしのげる。こうした民衆のしたたかな暮らし能力について、クダラートは正確なち智慧を持っていたようである。言ってみればやんごとなき王族ではなく、むしろ荒武者だったのだろう。

スルー王朝の歴史を系図によってたどったマフールなどによると、この祖先はマラッカ海峡方面から来た。ボルネオのブルネイもまた同様である。この流れに沿ってイスラム化の動きがあった。ボルネオ西岸を北上する移動である。それが今日のマレーシアサバ州である。スルー群島は先述したようにマカッサル海峡側に深く入り込んでおり、ブルネイはボルネオ西岸に位置するから、ボルネオ北端を境として東岸はスルー、西岸はブルネイの勢力圏だった。しかしこれは大まかな区別でボルネオ北端のサバはスルーとブルネイに両属する土地だった。言ってみればあいまい領域である。今日の東南アジア諸国は植民地主義の分割から生まれたと書いた。もちろんこうした領土の分割は植民地主義だけがもたらしたものではなくて、それ以前からもいくらかあったのだが、領土の境界はさらにあいまいだった。どこの"国家"にも属さない、つまり村だった土地が東南アジアにいくらもあったのである。

こうした土地の典型としてボルネオ北端のサバをあげることができる。そこがあいまいな領域だったのは遠く離れた辺境だったからだけでなく、人々がいつも動き回っていたからだと思う。支配者にとって辺境いつもぼんやりと人の動く協会の定かで無い土地だった。ボルネオ北端のサバはまさにこうした領域だった。こうしたあいまい領域としての性格がスルーにひびいてくる。ごく単純化して言うと、植民地化以前においてもかなりあいまいだったのに、列強もそこに利益を求められず領有未決定のまま残したのである。

南スラウェシのワンギワンギ島で会ったパジャウ族船長は「来いというのなら日本までだって行くさ」と豪語した。彼はウジュンパンダンへの生きたままのアオウミガメやホシナマコを運んでいる。彼は付け加えた。「だがスルー近海で海賊に襲われて命だけはまぬかれたが、荷を奪われた。あそこは最低の土地だ」。 今日、東南アジアに奴隷の習慣はもはや無い。海賊だけが堕落した形で残されている。海賊と交易と漁業が同一人の兼業だった例が多いことを考え合わせると、海賊が他の産業を害ったという面だけに注目するのは的を得てないという気がする。もし、それだけなら海賊にとって自殺行為なのだから海賊は当に自滅していただろう。海賊はあきらかに非人間的な形によって他の産業を刺激する面を持っていたのである。それが捕虜奴隷という労働力である。捕虜奴隷はまさに労働力であると同時に、値段を持つ商品として取引されたのである。海賊の遠征はまた造船業をも刺激しただろう。フィリピンの大型ダブル・アウトリガーは、戦争と略奪遠征のための船だったとする人類学者もいる。海賊と交易、漁業は矛盾する側面と協力し補完する側面を持ってかかわりあっている。

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