クオ・ワディス(下) 1/6~ローマの大火を見ながら歌を歌うネロ

ティゲリヌスはプラエトリア兵の全部隊を集めてから、近付いてくる皇帝に矢継ぎ早に飛脚を送り、火災がますます激しくなっているから観物の豪華さは申し分ないと報告した。しかしネロは、滅びていく都の光景を堪能するために夜になってから来たいと思っていた。その目的からアクァアルバナ(水道の名)の附近で泊まり、テントに悲劇役者のアリトゥルスを招き入れ、その助けを借りて姿や顔や目付を整え、それに応ずる動作を学び、これと激しく意見を交わして「おお、神聖なる町よ、イダ(トロヤの南方の山)よりも強固と見ゆるに。」という言葉の所で、両手を上に差し伸べたものか、それとも片手に琴を取ってその手を脇に垂れ、もう一つの手だけ挙げたものかと議論した。しかもこの問題がこの瞬間にあらゆるほかのことよりも重要だと考えていた。結局、薄暮に発足したが、尚ペトロニウスの意見を徴して、災害に捧げられる詩句の中に神々に対する非難の語をいくつ加えるか、それとも芸術の立場から考えてそういう言葉はこういう祖国を失った人の口にひとりでに出てこなければならないものかを語った。

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真夜中頃、廷臣、元老院議員、士族、解放奴隷、奴隷、女、子供のあらゆる隊を網羅する豪勢な供奉と共に城壁に近づいた。17000のプラエトリア兵は戦闘隊形を取って路上に配置され、皇帝の入場の平静と安全を取ると同時に適当な間隔を置いて興奮する民衆を阻止した。実際に民衆は行列を見て呪い叫び口笛を鳴らしたが、それに飛び掛ることまではしなかった。多くの場所ではそれでも喝采が起こったが、それは何も持ち物が無く、従って火災では何も失わず、いつもよりたっぷりある穀物やオリーヴや食べ物や金銭の分配を期待している賤民から出たものである

ネロはオスティエンシス門(ローマ市南西のオスティアにいく国道の出口にある門)まで来ると、しばらく立ち止まって「家なき民の家なき王、この私は不幸な頭を夜どこにおこう」と言ってから、クリヴスデルフィニ(アヴェンティヌス丘の東部)を通り、アッピア水道の上に予め自分のために設けられた階段に立ち、その後ろにアウグスタニとキタラ琴や琵琶やその他の楽器を携えた楽人の群が随った。そうしてすべてのものは胸に息を凝らして自分達の安全のために覚えておかなければならない何か偉大な言葉でるか出るかと待ち構えていた。しかし皇帝は紅の衣を纏い、黄金の月桂冠を頂き、無言のまま荘厳に立って、荒れ狂う焔の力を眺めていた。テルプノスが黄金の琵琶を渡すと、皇帝は火の光が注がれた空に目を上げ霊感を待っているようであった。

ローマの過去と魂は燃えていたが、皇帝は琵琶を手にして立ち、悲劇役者の顔付をして滅びていく父祖の都を思わず、破壊の偉大さをできるだけ良く伝えて、なるべく大きな驚嘆を引き起こし、なるえく大きな喝采を得るために、姿勢と感動的な言葉ばかり気にしていた。ネロはこの都を憎み、その住民を憎み、ただ自分の歌と詩を愛したのであるから、心の中では到底自分が書いたものによく似た悲劇を見ることができたのを喜んだ。作詞者としては自分を幸福と感じ、朗読者としては霊感を受けたと感じ、興奮の探求者としては恐ろしい光景に堪能して、トロヤの滅亡でさえこの巨大な都市の滅亡に比べればなんでもないと思っていい気持ちになった。これ以上何を望むことができよう。ここにローマ、世界を支配しているローマが燃えている。そうして自分は高架水道のアーチの上に黄金の琵琶を手にして立ち、衆目の見るところに赤い光を浴びて嘆賞の的となり堂々として詩人らしく振舞っている。ここでネロは両手を挙げた。そうして絃に触れるとプリアモスの言葉を朗読した。「おお我が父祖の巣よ。おお親しき揺監よ」 ネロはまたアリトゥルスから習った仕草で、方から悲劇役者のスュルマ(襟袖のついた上着)を投げ下して絃に手を触れ歌い続けた。予め作っておいた歌を終わってから、即興詩にとりかかり、目の前に展開する光景の中に偉大な比喩を求めた。

短い沈黙の後に喝采の嵐が巻き起こった。しかし遠くから民衆の唸声がネロの耳に届いた。今となってはもう誰一人、皇帝がこの観物を催してそれに合う歌を歌うために町を焼けと命じたのを疑うものは無かった。ネロはその何十万という声を叫びを聞くと、アウグスタニのほうを見て諦めに満ちた悲しい笑いを見せていった。「私と詩に対する生粋のローマ人の評価はまずこんなところだ」「けしからん」とヴァティニウスは答えた。「プラエトリア兵に突撃の命令をお出しください。」ネロはティゲリヌスの方を見た。「兵士たちの忠誠に頼ることができるか。」「おできになりますとも」とプラエフェクトゥスは答えた。しかしペトロニウスは首を竦めた。「忠誠に頼ることがおできになっても、数には頼ることがおできになりません。しばらくこのままここにお止まりください。ここが一番安全です。あの民衆は鎮めなければなりません」と言った。ティゲリヌスが「私はできるだけのことを致しましたが、危険は迫っております。どうか民衆に演説をなさって、何か約束をしてやってください」「皇帝が群集に演説をしなければならないのか。誰か他の者が私の名でやれば良いじゃないか。誰がそれを引き受ける。」「私が致します」とペトロニウスは平静に答えた。

「ペトロニウス、趣味の審判者、ペトロニウス」この名前が繰り返されるにつれて、あたりの顔は怒声を和らげた。「お聴きなさい。都は再建される。ルクルスとマエケナと皇帝とアグリッピナの庭園は、諸君のために開放される。明日から穀物と葡萄酒とオリーヴの配給が始まって、各人は咽喉まで腹を満たすことができるようになる。さらに皇帝は今まで世界が見たことも無いような競技を催し、その際、宴会と贈り物が諸君を待つことになる。諸君は火災の後に火災の前より富むであろう。」

ティゲリヌスは皇帝の前に立って言った。やがてゆっくり力を籠めて、まるで鉄を打ち付けるような声でこう話した。「陛下お聴きください。申し上げたいことがございます。方法が見つかりました。民衆には復讐と犠牲が必要ですが、たった一つではなく百も千も要ります。陛下は前にお聞きになったことはありませんか、ポンテオ ピラトが十字架に懸けたクレストスが何者だか。また、クリスト教徒というものが何者だかご存知でしょう。あの連中の犯罪と忌まわしい儀式のこと、火が世界の終わりを齎すという予言のことを申し上げなかったでしょうか。民衆はあの連中を憎んでいて、嫌疑を懸けています。あの連中を神殿の中で見かけたものが無いのは、我々の神々を悪霊だと思っているからです。スタディウムに来ないのは競馬を見下げているからです。クリスト教徒は一人として陛下に喝采を送ったことがありません。一人として陛下を神と敬ったものはありません。あいつらは人類の敵、この都と陛下の敵です。民衆は陛下に対して呟いておりますが、陛下、ローマを焼けと私にお命じになったのは陛下ではなく、ローマを焼いたの私ではありません。・・・民衆は複数を望んでいます。復讐させておやりなさい。民衆は血と競技を望んでいます。与えておやりなさい。民衆は陛下に嫌疑を懸けています。その嫌疑を別の方にお外らしなさい。」




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