クオ・ワディス(下) 5/6~囚われのリギア

> クリスト教徒が幽閉されていた「臭い窟」

エスクィリヌスの牢獄は、火災を阻止するために家々の穴蔵を利用して急に作ったもので、なるほどカピトリウムの横にある古いトゥリアヌム程恐ろしくは無かったが、その代わり百倍も厳重に警備されていた。ヴィニキウスもはやはりリギアを救い出せるかどうかという希望を失っていた。今となってはクリストにしかそれができない。若いトリブヌスは既にただ、牢獄で一目会いたいということしか考えていなかった。「臭い窟」の監督の声が聞こえた。「今日は死体はいくつある。」牢番は答えた「123人だな。しかし朝までにはもっと出る。あすこの陰では何人か死にかけて咽喉を鳴らしている。」そういって牢番は、女どもが少しでも長く死んだ子供を手元においてできるだけ「臭い窟」にやるまいと隠すことに苦情を言い始めた。このままでもやりきれないここの空気が一層臭くなるから、まず臭いで死体を嗅ぎ分けなければならない。「死体をすぐに運び出さなければいけない。疫病は一番死体から染つる。さもないと死んじまうよ、お前達も囚人も。」

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ヴィニキウスにも現実感が戻ってきて、地下坑の中を見回し始めたが、いくら眼で探してもリギアが見つからず、その生きている間にあの人を見ることは全くできないのではないかと考えた。突然身震いをしたのは、格子の挟まった壁の穴の下にウルススの巨大な姿を見たような気がしたからである。そこでその瞬間にカンテラを吹き消してこれに近づき、こう訊いた。「ウルスス、お前か」巨人は顔を向けて、「誰です。」「私がわからないか。」と若者は訊いた。「カンテラをお消しになったのですもの、どうしてわかりましょう。」しかしヴィニキウスはその時、壁の傍らに外套を敷いて臥せているリギアを見定めたのでもう一言も言わずその傍らに跪いた。ヴィニキウスは跪きながら涙越しにリギアを見詰めた。暗かったけれども見分けることのできたリギアの顔はアラパステルのように青く思われ、腕は痩せ細っていた。「マルクス、私は病気です。アレナの丘かこの牢獄か、私は死ななければなりません。けれどもその前に一度お会いできるように祈っていました。こうして来てくだすった。クリストが届けてくだすった。私はあなたの妻です。」


> 皇帝の庭園で張りつけと火炙りの刑。

夕闇はまだ迫っていないのに、もう民衆の最初の波は皇帝の庭園に押し寄せ始めた。既にこれまでもローマでは柱の上で焼かれる人を見たことはあるが、今まで一度としてこれ程多数の処刑者を見たことが無い。皇帝とティゲリヌスはクリスト教徒のかたをつけると同時に、牢獄からだんだん都内に広がってきた疫病を阻止しようと思ってあらゆる牢獄を空にすることを命じた結果、最後の競技に当てられているやっと十数人のものしか残っていなかった。ところで民衆は庭園の門を通り越すと驚嘆のあまり唖然とした。正面から真っ直ぐに走る大通り勿論、茂った木の間や芝生やか潅木や池やプールや花壇の周りについてくる脇路に至るまで、樹脂を塗った柱が立てられて、それにクリスト教徒が縛られていた。その数は群集の期待を凌いだ。見物人の群は一つ一つの柱の前に立ち止まりながら、好奇心を持って犠牲の姿や年や性を確かめ、顔や花輪や蔦の紐を眺めて先へさきへと行くうちに、一体罪人がこんなにたくさんいたのか、やっと自分の足で歩くことのできる子供がどうしてローマを焼くことができたのか疑念に満ちた問いを抱くようになった。そうして疑念は次第に不安に変わっていった。そうしているうちに闇が迫って、空には最初の星が輝いてきた。すると処刑者一人一人の前に燃える炬火を手にした奴隷が立ち、庭園の様々な場所にラッパの音が響いて観物の開始の合図をすると、それがみんなで柱の下に火をつけた。花の下に隠してあった樹脂に浸した藁が突然明るい焔に燃え上がり、焔は一瞬一瞬大きくなって光が巻き上り、高く揚って犠牲の足を包んだ。群集は黙り込んだが、庭園には唯一の巨大な苦痛の呻きと叫びが響き渡った。しかも幾人かの犠牲は空に顔を挙げてクリストを讃える歌を歌い始めた。群衆は耳を傾けた。しかし、中でも小さい柱から引き裂くような子供の声が「ママ。ママ。」と呼び始めると、最も固い心も戦慄に充たされ、それらの可愛い頭と罪の無い顔が苦痛に悶え犠牲の息を止め始めた。煙の中で気絶するのを見て酔っ払っていた見物人さえ体中ぞっとした。焔は高く揚り、いまや新しい腹や蔦の冠を焼け縮らせた。焼ける体の焦げ臭いにおいが庭園を満たしたかと思うと、その時奴隷たちはかねて柱の間に用意してあった香炉にミュラとアロエを焚き始めた。群集の間であちこちに起こった叫び声は同情から出たのか陶酔と歓喜から出たのかわからないが、一刻一刻火と共に増した。しかも尚この観物が始まったばかりの時に、皇帝は群集の間に四頭の白馬に曳かれた競争用の豪奢な馬車に乗って現われ、自身もその宮廷に属している「緑組」の駆者の服装をしていた。

> 囚われのリギア

ネロの時代には、それまで稀に例外としてのみ催された夜の観物がキルクスに於いてもアンフィテアトルムに於いても慣例になっていた。アウグスタニがこの方を好んだのは、それに次いで早朝まで続く饗宴が始まるからである。民衆は既に流血には飽き飽きしていたけれども、闘技も最終回となり、残っているクリスト教徒が夜の観物で殺されるはずだという噂が広まっていたので、数知れぬ群集がアンフィテアトルムに集まって来た。アウグスタニが一人残らず列席したのも、今度はいつもの観物と違って、皇帝がヴィニキウスを苦しめるつもりで悲劇を上演することを決めたと推測したからである。

ヴィニキウスは時々眼を覚ましたというよりも、我慢のしきれない群集の足踏みが眼を覚まさせた。するとペトロニウスが云った。「気持ちが悪いのだな。うちへ連れて行ってもらえ」そうしてペトロニウスは、皇帝がどういうか構わないで気で立ち上り、ヴィニキウスを支え起こして一緒に出て行こうとした。その胸に憐れみに膨れ上がったばかりでなく、皇帝がエメラルドを通してヴィニキウスを眺めながら、その苦悩を満足げに研究し、事によると後日これを悲痛な詩に描いて聞くものの拍手を求めようとしていることが、ペトロニウスを我慢のできないほどいらだたさせた。ヴィニキウスは頭を振った。この円形競技場で死ぬかもしれないし、ここから出られないかもしれない。しかも観物は今にも始まりそうである。

はたしてほとんどその瞬間に都のプラエフェクトゥスが赤い小布を前で振るとそれを合図に皇帝のポディウムの真正面で門の軋る音がして暗い窟から明々と照らされたアレナにウルススが出てきた。この巨人は明らかにアレナの光に眼が眩んだらしく眼を閉じたが、やがてその真ん中に進み出てあたりを見回し、自分が何にぶつかることになるのかを見極めようとする様子であった。あらゆるアウグスタニ及び大部分の見物人には、これがクロトンの息を止めた男だということは知れていたので、これを見るとすべての腰掛からざわめく声が上がった。ローマに普通の人間程度を遥かに超えた巨大な格闘士は幾らもいたが、クィリテス(生粋のローマ人)の眼はまだこれに似たものを見たことが無い。皇帝のポディウムに立っているカッシウスさえ、このリギイ族の男に比べれば小さな人間のように見える。ウルススの大枝のように太く力強い腿と、二枚の盾を縫い合わせたような胸と、ヘルクレスのような腕に眺めいった。

皇帝とクニクルムの格子を見つめ、刑の執行者が出てくるのを待ち受けた。アレナに出てきた瞬間には、その単純な胸は自分を十字架が待っているかもしれないという望みに鼓動したが、十字架も掘ってある穴も見えなかったので、自分はこの恩恵に値しないとすれば他の死に方、恐らく野獣による死に方しかないと考えた。武器は持っていないのであるから「小羊」の信者にふさわしく平静と忍耐を以って滅びると決心した。そこでもう一度救主に祈ろうと思ってアレナに跪いて手を合わせ、キルクスの上に明間に瞬いている星に目を上げた。この姿勢は群衆の気に入らなかった。羊のように死んでいくクリスト教徒にはもう飽き飽きしている。もしもこの巨人が身を防ごうとしなければ観物は台無しだと考えた。あちこちに口笛が鳴った。あるものは闘いたがらない格闘士を鞭打つのを役目とするマスティゴフォロスに出て来いと叫んだ。




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