ハイデガーの思想 3/4~本質存在と事実存在

存在了解 存在とは何か。

ハイデガーは少なくともこの時点で、この問いへの-たとえ後に修正せざるを得ないものである-明確な答えを出していたはずである。ただそれを述べるはずだった下巻が書かれないでしまったので、その答えもついに表に出されずに終わってしまった。謎めいた、あるいは思わせぶりなヒントが散在するだけである。しかし、これが分からなければ彼の言うことはほとんど理解できないことになろうから、なんとかその散在するヒントから無理にでも引き出してくる必要がある。一つの手がかりは、「存在は存在者ではない」ということである。存在とは、いわば存在者を存在者たらしめるものであるから、それ自体は一個の存在者ではありえない

「現存在が存在を了解するときにのみ存在は『ある(エス・ギプト)』」
「存在は了解のうちに『ある(エス・ギプト)』」
「現存在が存在するかぎりでのみ、存在は『ある(エス・ギプト)』」

『ある(エス・ギプト)』とルビをふったのは、これが『存在する(ザイン)』という意味での『ある』ではないということを示そうとしてのことがある。もしこれが『存在する』という意味での『ある』だとすると『存在』がふたたび『存在するもの』『存在者』になってしまい、『存在は存在者ではない』という原則に抵触することになる。それを避けようとしてハイデガーは存在に関しては『ある(エス・ギプト)』を『与えられる』と読み替えてくださっても良い。これらの命題は『存在』は現存在の行う『存在了解』の働きのうちにあるのだ、ということを言おうとしているのである。

第二部の第一篇ではカントの「純粋理性批判」の図式機能論と時間論が次いで第二篇ではデカルトと中世スコラ哲学の「存在概念」がさらに第三篇ではアリストテレスの「時間論」が検討されるはずであった。しかしこの題材の選び方はどう見ても適当ではない。第二部全体の主題からすれば、ここではあくまで伝統的存在論の存在概念の検討が行われるべきなのであるから、カントの時間論やアリストテレスの時間論を話題にするのはおかしいのである。ハイデガーもそれには気づいていたのだろう。第一篇のカント解釈、つまりカントの「純粋理性批判」は存在と時間という問題設定の間際まで迫りながらそこに至りつけなかったと見るカント解釈は2年後にそれだけ切り離して「カントと形而上学の問題」(1929年)という独立の著作に仕立て上げられている。これは妥当な措置であった。西洋哲学氏の展開についてすでにかなり明確な見通しを持っていたはずのハイデガーがなぜこんなに不適切な題材の選び方をしたのか、これが私には長い間不思議だったが、最近少しそのわけが分かってきた。この時点ではいわばまだ無名だったハイデガーは、自分の持ち出そうとするあまりにも大胆不敵な考えにためらいを感じて、逃げをうったのではあるまいか。後年ある講義の中で彼は、下巻に当たる部分も当時すでに印刷されてはいたのだが、それをヤスパースに読ませたらさっぱり分かってもらえなかったので出版を断念したと言っている。ヤスパースが理解できなかったのも、おそらくためらいからひどく曖昧な書き方をしていたせいではないかと思う。私も、この時点でハイデガーが下巻にあたる部分、ことにアリストテレスの存在概念の分析を同時に発表していたら、果たして学会に受け入れられたかどうか疑問に思う。「存在と時間」上巻があれほどの成功を見た後とは話が違うのである。


カントの存在概念 神の存在証明

Immanuel-Kant.jpg

「現象学の根本問題」の第一部第一章では同じカントでももはや時間論などではなく、存在に関するテーゼが直接採りあげられている。それは「存在(ザイン)は事象内容を示す(レアール)述語ではない」というテーゼであり、これはカントの「神の存在証明の唯一可能な証明根拠」(1763年)や「純粋理性批判」(1781年)の弁証論に見られる。ハイデガーはここでReal(レアール)、Realitat(レアリテート)を実在的、実在性と解するのは誤りだと主張する。realはラテン語のres(物)に由来し、「物の事象内容を示す」という意味に解されねばならないと、少なくともカントの時代にはそういう意味でしか使われなかったということを明快に解き明かしてみせる。

本質存在と事実存在 「デアル」と「ガアル」

ハイデガーの見解では、「存在=非制作性」というこの存在概念をカントはデカルトから受け継いだのであり、そのデカルトはまた、それを中世スコラ哲学から引き継いでいる。というのも、カントは表象作用の主体である「主観性」の概念を規定する際、デカルトの「われ思う(コーギトー)」に無批判に依拠しているが、デカルトは「われ思う、われ在り」のその「存在(エッセ)」を規定するのに、明らかにスコラ哲学の影響下にあった「思考するもの(レース・コギタンス)」という概念を拠りどころにしている。このばあいの「もの(レース)」はむろん「存在者(エンス)」の一種であるが、スコラにあっては「存在者(エンス)」は一貫して、「非造的存在者(エンス・クレアートウム)」、つまり神の「創造作用(クレアーティオ)」によって造られた被造物と解されている。ここでも「存在=非制作性」という存在概念が根底に据えられているのである。

ハイデガーは「現象学の根本問題」第一部第二章では、中世存在論つまりスコラ哲学における「本質存在(エッセンティア)」と「事実存在(エクシステンティア)」の区別を問題にしている。「本質存在」とは「あるものが何であるか」、つまりそれが机であるか椅子であるかというばあいの「存在」を言い、「事実存在」とは「あるものがあるかないか」、たとえばここに机があるかないかというばあいの「存在」を言う。観点に言えば、「デアル」という意味での存在と「ガアル」という意味での存在のことである。キリスト教神学と密着しているスコラ哲学においては、神によって創造された被造物の「本質存在」と「事実存在」の関係をどう捉えるかは神の創造の働きをどう考えるかという問題に直接結びつくので、実に煩瑣な議論が行われていた。





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