ハイデガーの思想 4/4~現存在の時間化

存在了解にせよ世界内存在にせよ、現存在において現在・過去・未来といった時間の場(ホリツオント)が開かれることによってはじめて可能になる。つまり、現存在において存在という視点の設定が行われるのも生物学的環境を超越して世界が構成され、現存在がそれに開かれるのも、現存在がおのれを時間として展開すること、おのれを時間化することによってはじめて可能になるのである。というよりも、もともと現存在が現存在として存在するということ、つまり人間が人間になるということは、そこに現在・過去・未来という時間の場が開かれるということなのである。ハイデガーが「現存在の存在は時間性である」というのは、この意味に他ならない。「存在了解は時間性を場にして行われる」というのも同じ意味である。存在了解こそが現存在を現存在たらしめるものであるし、その存在了解、つまり存在という視点の設定は現存在が己を時間化することによって可能になる。

「存在と時間」の第一部、ことにその第一、二篇は準備作業だといったが、そもそもそれは何をどのように準備するものだったのであろうか。まず一方で、現存在が存在了解の場だということ、つまり存在という視点の設定が行われる場だということを論証し、他方で、現存在の存在が「時間性」だということ、つまり現時のうちに差異化が起こり、未来と過去という次元が開かれてくる時間化の働きこそが現存在の存在を成り立たせていることを明らかにする。その上で、存在了解と時間性のあいだに密接な連関のあること、つまり存在了解が時間性を場(ホリツオント)にして行われることを示す-これが第一部第一、第二篇の仕事である。時間化の働き(ツアイテイグング)という概念は動詞にすると「おのれを時間化する(ジッヒ・ツアイテイゲン)」であり、いわば「おのれを時間として展開する」あるいは「時間として生起する」といったほどの意味である。ところで先にも述べたように、ハイデガーは現存在がこのようにおのれを時間化し、時間として展開する仕方は決して一通りではなく、そこに本来性・非本来性が区別されると考えている。この本来性・非本来性は何か道徳的ないし宗教的基準で計られるわけではなく、あくまで構造的な違いなのである。つまり、現存在がおのれを時間化するに際して、おのれに与えられた構造をどの程度満たしているか、ことにおのれの可能性とどのように関わり合い、どのくらいの射程で未来の次元を開くかによって、それは計られる。ハイデガーによれば、本来的時間性においては、その時間化はまず未来への先駆として生起し、そこから過去が反復され、そして現在は瞬間として生きられる。ここでは未来が優越し、3つの時間契機が緊密に結びついている。


ハイデガー
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文化の展開の企てとその挫折 物質的自然観をくつがえす

存在=現前性=非制作性というアリストテレス以来の伝統的存在概念は、ハイデガーの考えでは、非本来的な時間性を場として行われる存在了解に由来する。この視点から見られるとき、存在者の全体は、したがっていわゆる自然もまた、作られたものなお作られうるものとして見えてくる。つまり自然は制作のための材料・質料と見られるのである。ギリシア語のこのヒュレーがラテン語ではMateria(マテーリア)と訳され、これが英語のmaterialに引き継がれる。いわゆる物質的な自然観、自然を制作のために死せる質料と見る自然観はこの視点のもとに成立したのであり、その上に立って近代の機械論的自然観も成り立ちえた。このような自然観は当然のこととして政策のための技術知の担い手である人間を世界の中心に据える人間中心主義と顕在的潜在的に連動している。してみれば近代ヨーロッパにおける物質的・機械論的自然観と人間中心主義的文化形成の根源は遠くギリシア古典時代に端を発する「存在=現前性=非制作性」という存在概念にあると見るべきだ、と考えていたのである。ハイデガーは人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を復権することによって、明らかに行き詰まりに来ている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたのである。

力というものは、たとえば政治権力をとってみても、つねに拡大し続け、より大きな権力たらんとしつづけるかぎりでこそ権力たりうるのであり、いったん現状維持に甘んじたら、たちまち無力に転じ没落してしまうものであろう。とすれば、力のそうした動的な本質は、ただ力というだけでは捉えきれず、「力への力」とでも言うしかない。意思も同様であり、より弱くより小さくなろうと意思することなど原理的にありえない。意志も常により強く大きくなろうと意思するものであってはじめて意思足りうるのであり、これまた「意思への意思」とでも言うことによってしかその動的本質を捉ええない。おそらくニーチェは力や意思となって発言する「生(レーベン)」一般の持つそうした動的本質と内的分節構造とを表現するのに「力への意思」という概念が適切だと考えたに違いない。

彼はまたこの概念によって、かつて二元的に対峙させたディオニュソス的原理とアポロン的原理を一元化することに成功した。ディオニュソス的原理つまり生が、アポロン的原理つまり理性を、おのれの契機としてとりこむことになるのである。というのも、力への意志は、現にあるよりもより強くより大きく生成していくために、現に到達した段階を見積もり、これからげき昂揚していく段階を見積もらなければならないのであり、いわば「計算だかい」からである。こうしてニーチェは生を理性をも包み込むものとしてあるいは理性を生の一契機として捉えるにいたったのである。同時にニーチェは、この力への意志という概念によって、ソクラテス以前の思想家たちが自然という概念のもとに見ていたもの、つまり生きた自然のその生の構造を捉えなおそうとする。つまりニーチェはこの概念のもとに古代ギリシア早期のあの生きた自然の概念を復権し、形而上学、つまり自然を制作のための死せる質料と見る自然観を指導原理に形成されてきた西洋文明を総体として批判し克服しようと企てたのである。






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