皇族に嫁いだ女性たち 4/4~皇室スキャンダル

醜聞 宮家の古着

敗戦後、天皇家は温存されたがその権限は縮小された。直宮ではない宮家皇族や家族なども多くの特権を剥奪され、経済的苦境に陥ったりした。そして、太宰治が戦後の華族没落を描いた小説「斜陽」から、斜陽族という言葉が流行し、斜陽にともなう旧特権勢力の数々の庶民的言動は時に醜聞として広まることもあった。

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こうした世相にあって、雑誌「真相」の1948年6月号は「カメラ探訪 宮様商売告知板」を掲載し、皇籍離脱した東久邇宮稔彦の「東久邇商店」、閑院春仁の「無料結婚媒介所」、久邇朝融のダンスホールなどを揶揄まじりに紹介した。元妃たちの商魂ぶりも伝えられ、旧朝鮮公族妃であった桃山佳子などはふくよかな顔立ちの写真入りで「渋谷なる喫茶店『桃屋』の営業不振に鑑み、まずは銀座への進出の桃山家、銀六百貨店に御開業(ただし売品は全部ヤミだよ」、「銀六百貨店菓子部主任、李鍵公改め桃山虔一夫人佳子の君」と皮肉たっぷりに描かれた。「閑院夫人がチョクチョク古着を売りにくるナツメ衣裳部、大福帳に具出を取るは松平親子」の記事もあり、「ナツメ」は久邇朝融がはじめた久邇香水の直売所であった。「ナツメ」は美術部、食料品部、高級喫茶部の3部門に分けられた間口三間、奥行十間の小店で久邇の血縁の元妃殿下たちが数人の男女店員に交じって働いたりしていたのであった。「松平の奥様」や皇族たちが衣類を売りに持ち込み、「徳川のアオイの紋のとなりに菊の紋章がならんでいる」といわれたのであった。

貞明皇后記念館建設をめぐる詐欺事件

皇太后節子は貞明皇后と諡号され、その古風な気品と格調高さが後世に伝えられることとなった。しかし良妻賢母教育は戦後の風潮には必ずしもなじまず、その名声は衰えた。そして崩御7年後の昭和33年1958年に受難が訪れた。貞明皇后記念館建設募金をめぐる詐欺事件の発覚である。事件の発端は昭和29年7月頃御用邸のある静岡県沼津市の日蓮宗の住職と国際文化協会沼津支局長とが、貞明皇后を偲ぶ記念館建設を計画したが、両者の意見が対立したため支局長は国際文化協会理事長に話を持ちかけ、昭和30年9月に理事長が記念館建設の意思を持たないまま東京都知事に募金を申請したことにある。申請が許可されたことにより、理事長は無断で元公爵の一条実孝、元貞明皇后侍医の山川一郎、静岡県知事斎藤寿夫ら有名人約40名の名を賛同人として連ねたパンフレットを作成して、八幡製鉄、日本鋼管、味の素など都内一流企業に配布したのであった。その結果、およそ100社から八百万円を集めたのである。当時大卒の事務系の初任給が15000円ほどであったから、1社当たり新人社員の5カ月分の給料に相応する寄付を出したことになる。

募金活動は一年と限定されていたため、理事長はその後も延期申請をして3度目は貞明会と名を改め、日比谷公会堂で募金の芸能会を開き、その収入を得ながらも税金を滞納して脱税容疑で追及されたりした。また蔵前国技館で花相撲を開き、相撲茶屋の寄付金40万円をふくむ450万円の収益を上げたりしていた。さらに福島県など各地の小学校の生徒から10円、20円の額を集めていた。この総額は2000万円以上と推定されるが、昭和33年になっても記念館建設予定地とされる沼津市には何の動きもなかった。そもそも沼津市では昭和31年夏になされた国際文化協会支局長の土地借入申請に不審の点があるため却下していたのである。こうした事情を受けて、警視庁捜査2課は貞明会理事長宅などを詐欺の疑いで家宅捜査して取締りをはじめたのであった。貞明会の中心人物であった国際文化協会理事長は過去に詐欺や賭博の前科があり、暴力や恐喝の前科者を集めて資金を調達させていたというのが実態であったようだ。

官中魔女事件

昭和41年から46年にかけて皇后良子をめぐる新たな問題が発生する。入江日記によえば、当時、官中祭祀にうるさく、誰かが大晦日に剣璽の間に入ったとか、皇后良子をしてどうして旬祭は年に2回になったのかと言わせるなど、官中行事の運営に口をさしはさんでいた「魔女」と称された女官がおり、昭和天皇の高齢を考慮して祭祀の簡略化をすすめていた入江ら官中官僚の妨げとなっていた。しかし、「魔女」は皇后良子の信認篤く、皇后から保科武子女官長の後任を推されていたほどであった。「魔女」の女官長就任はなかったが、天皇と皇后が欧州旅行に出かける際の準備段階で、皇后は「魔女」の同行を主張し「魔女」が同行しないのなら自分も行かないとまで言いだし、一時は天皇単独の旅行案も考えられたのであった。

河原敏明によれば「魔女」は公家の羽林家である旧今城子爵家から皇后宮女官となった今城誼子のことであり、今城は旧来の官中祭祀の伝統を守ろうとしたが、入江ら改革派の官僚たちに阻止されたというのが真相であったという。今城家は花山院家の支流中山家の分家であり、維新後の当主である今城定徳が子爵となり、その正妻の竹子は橋本実梁三女であった。橋本実梁といえば明治天皇の夭折した長女である稚高依姫尊を産んで同日に死去した権典侍橋本夏子の兄(夏子の出生には不明な点があり、実梁の妹麗子と東坊城夏長の長女説がある)として知られる。また定徳子爵を嗣いだのは定徳長女の友子と結婚した中山孝麿侯爵の長男定政であった。中山高麿は皇太子嘉仁親王の東宮大夫をつとめ、孝麿の叔母は明治天皇生母の中山慶子である。そうした家系の今城定政の長女が誼子であり、代々の伝統的な宮中儀式を尊重する性癖もうなずけなくはなかった。

一方、皇后良子のほうは昭和35年1960年の長女照宮成子の容体悪化のころから精神状態が乱れ始めた。治療のかいなく成子は早世した。その後、皇后良子は新興宗教に凝った「魔女」の意見に従うことが増え、熱があっても「魔女」の一言で侍医に身体をみせることをしなくなった。「魔女」の皇后への影響力は、天皇裕仁の心の負担ともなり、天皇は口をパクパクする症状を見せるようになった。戦後の新時代に対応しようとする天皇裕仁と入江ら改革派の官中官僚たちと、旧来の伝統を維持しようとする皇后良子や今城ら守旧派の女官たちとの間の確執が「官中魔女事件」の背景にあった。皇后良子はめまぐるしく変わる皇室環境に息切れし、孤立感を深めていた。その心の隙間を埋めていたのが「魔女」であった。

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