お釈迦さまの脳科学 4/4~日本で浄土教は念仏を唱える宗教に

すべてのお経は漢語訳されたときに道教や儒教の思想が混入しています。特に奈良時代や平安時代に中国から輸入された浄土教には、その傾向が強く表れています。日本で浄土教と言うと、鎌倉時代に成立した法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗を思い浮かべると思いますが、すでに飛鳥・奈良時代には入ってきているのです。天台宗にも、重要視されていなかっただけで浄土信仰はありました。ただし一般民数への浄土教が流行るのは鎌倉時代以降です。中国から来た浄土信仰では、浄土へ行くために臨終の床に阿弥陀如来の木像を置いて、赤い糸で手首をつなぐという儀式がありました。ほとんど道教の思想なのですが、赤い糸で阿弥陀如来の像と結ばれていると阿弥陀様と縁ができたので極楽浄土へ行けますよ、という理屈です。当時の仏像というのは、多くが宋から輸入されており非常に高価なものです。臨終の際に木像が必要となると、ごく一部の王侯貴族しか極楽浄土へは行けないことになってしまいます。浄土宗を開いた法然は、この矛盾に気が付きます。法然は「観無量寿経疏」を根拠に仏の名を唱えればよいと解釈しました。そして「誰でも南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土へ往生できますよ」と説き、日本で浄土教は大衆化したのです。

日本では寺が差別を進めた

日本に儒教が伝来するのは仏教伝来の少し前、5世紀あたりです。その後、日本は儒教は純粋な学問として重んじられるようになります。儒教は、先祖崇拝をベースとした差別的な思想ですが、江戸時代に差別的な「穢れ」思想を流行らせたのは、言いにくいことですが仏教だったのです。その象徴のひとつが「差別戒名」です。当時は被差別部落の人が亡くなったとき「寺が穢れる」という理由で墓にも入れないことがありました。墓を作ったとしても戒名は授けない。付ける場合には、「蓄男」「蓄女」といったように一般に戒名には用いない文字を使い、人目で被差別部落の人の墓だとわかるようにしていたのです。「穢」の文字そのものが戒名として付けられていたこともあります。しかも差別戒名は戦後になっても続けられていたことが、最近の調査によって明らかになっています。

なぜ、こうした差別が社会に根付いてしまうのでしょうか。穢れの思想は、「うつる」という概念から始まっています。「病気がうつる」「災いがうつる」というように、目に見えないものが自分に降りかかってくるイメージです。恐怖感を伴う情動は、非常に社会的洗脳に利用しやすいのです。そして、動物の死体を扱う仕事を「穢れ」と見ることから差別が始まります。もともと、死体が腐っていく様を見て汚いと思う感情から、それが「うつる」という常道を生じさせたのでしょう。衛生状態が悪く、病原菌に感染するというような科学的な根拠があるのであればまだ許せますが、人に対する差別感情は理由が異なります。衛星について全く知識のない、大昔の人々ならまだしも、現代人が「穢れ」を理由に差別することは絶対にあってはなりません。いずれにせよ、穢れの思想は仏教とは相容れない論理であり、釈迦はこうした差別を徹底的に否定していました。

『般若心経』を添削

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般若心経には形式だけでなく、言っている内容にも問題があります。最も顕著なのは、「色即是空、空即是色」という有名な一節です。これは中国語の倒置法で、色と空がまったく同じであると強調されているのです。「色」とは物質(有)のことです。物質に対応する概念は「無」です。「空」とは既に説明したとおり、有と無の両方を含む上位概念です。ですから、「色即是空」は、「物質とは空である」という意味になり間違いはありません。しかし、その次に続く「空即是色」は「空とは物質である」という意味なり問題があります。「犬は動物です」とは言えますが「動物は犬です」は間違いなのと同じです。

すべては「縁」によって「起」こる

これまで釈迦は神を否定したと何度も書いてきました。一神教で考えられている神とは、「それだけで絶対的なもの」です。カントの言葉で言う「アプリオリな存在」です。バラモン教のブラフマン(神)、道教のタオ(道)もアプリオリだと考えれていたものです。カントの時代には、時間と空間はアプリオリだと考えられていました。しかし、相対論以降、アプリオリなものはなくなりました。アプリオリなものは何もないということは、釈迦は「縁起」という概念をつかって説明しました。縁起とは「縁」によって「起」こると書きますが、それ単体で成り立つものは何もなく、すべては他のものとの関係性によって成り立っているという思想です。川の水で考えてみましょう。川からコップで水をすくったとします。この水が存在するためには、上流から流れてくる水も下流へと流れていった水も必要でした。コップの水だけではここに存在しえません。コップいっぱいの水がそこに存在するために宇宙がすべて必要です。これが縁起です。それを釈迦は「生じることもなく、滅することもない」と言っています。コップの水は無から生じたわけでもないし、消滅してしまうこともありません。水をコップから流しても水を構成する水素や酸素といった原子が消えてなくなることはないからです。




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