ロベスピエールとフランス革命 2/4~ジャコバン派

1791年夏のロベスピエールの下宿移転は、彼の生き方に変化をもたらした。家主のモーリス・デュプレイは繁昌している大工兼建築家で、政治好きの妻、まだ学校を行っている少年、孤児の甥、3人の結婚適齢期の娘があった。最年長の娘、エレオノールはロベスピエールの心の友となり、全家族は賛美に満ちた聴衆となった。晩にはデュプレイ夫人は、政治上の友人と隣人に家を解放した。のちにパリ市長になるペティヨン、元僧侶でのちにテロリストとなりボナパルトの警視総監となるフーシェ、3年後ダントン派とともに刑死するデムーラン、エリザベトの婚約者ル・バ、ロベスピエール崇拝からジャコバン派となったサン=ジュスト、画家のダヴィット、不具の狂信者クートン、政府御用印刷人の二コラ、そのほか多くの人がやってきた。

> フランス革命、ジャコバン派のメンバーがそろった溜まり場だ。面白そう。

サンジュストでも絵でも載せようかぐぐったら、日本語と英語であまりにも違うのが面白かったので、

英語版 Saint-Just
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日本語版サンジュスト
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コミューヌと国民公会

1792年8月10日の事件は外国の観察者を途方に暮れさすと同時に恐怖におののかせた。これまでパリの地区と述べてきたものは、実は1790年の自治体法でパリ市を分割したところの48の地区であった。もとは60であった選挙区、もしくは市選挙区で、この再分割は、市参事会(ミニュシパリテまたはコミューヌと呼ばれる)に対する独立性を弱める意図で行われた。しかし人口平均12500、「能動市民」(有権者)の数平均1700を持つ各地区は、政治的クラブと同時に国民衛兵の代替の中核となり、これまで以上に1つの政治的単位となり、どんな党派であろうと地区議会の多数を握った党派によって制御され、その要求を武力によって裏付けることができた。これらの地区のあるもの、比較的上流の諸地区はまだ国王の味方であったが、他の地区、ことに市の東隅とセーヌ南岸の人口の密な区域は、猛烈な共和主義であった。多くの地区はこの2つの見解の間を動揺していた。戦争の勃発に続く敗北と国土侵入の4か月によって、1地区を除いてすべて国王の廃位を遂行するのに十分な多数が確保されえたのである。中央よりの指示に従う本能はなおきわめて強かったので、正式に選ばれた地区代表である市参事会の権利をはく奪し、「蜂起コミューヌ」の名で暴動を遂行することが必要であった。

8月10日、大臣たちは依然その官庁に出勤しているが、彼らの地位の基礎である行政権は存在しない。憲法はなお有効だが、憲法の根本をなす王政はなくなっている。軍隊はなお前線を守っているが、その将軍たちは忠誠を共和国へ移すであろうか。フランスは全体として革命にしがみついているが、国王なしにすまし、パリ・コミューヌの独裁を許す用意があるであろうか。これらの問題は、王権の没落(8月10日)から国民公会の招集(9月20日)までの6週間、全国を途方にくれさせた。ブラウンシュヴァイク公が国境を越え、プロシア軍がパリへ進軍中であるという報は、事態をはなはだしく悪化させた。

ロベスピエールは、ジャコバン、ジロンドいずれの王権攻撃にも積極的に参加することなく1792年の夏の事件を見守っていた。しかし彼は、これが人民の勝利に終わり彼の唯一の理想である正義と徳の共和国に新たな道を開くことをひそかに希望していた。彼は8月10日の攻撃を組織した連盟兵委員会、地区委員会のいずれのメンバーでもなかったが何が進行中か知っていた。議会におけるマルセーユの利害の選ばれた代弁者として彼はその連盟兵の進軍を賞賛し、蜂起における彼らの役割を宣伝した。8月10日が近付くにつれ『憲法の擁護者』は、蜂起の味方として公然と姿を現し、蜂起は国王と議会との双方の代わりに、真に人民を代表する国民公会を設立するのを目標とすべきだと述べた。しかしロベスピエールは、剣をよこたえたデムーランのように街に姿を現さず、また蜂起コミューヌに参加したダントンのように、市役所に姿を見せなかった。彼はすべてが終わるまで家に-政敵によれば地下室に-ひそんでいた。そして夕方例のごとくジャコバンクラブに姿を現して演説し、国民公会の選挙を力説し、この日についての公式の解説を地方全体に配布すべきことを示唆し、自由を確保するまで武器をおかぬよう人民に忠告した。

ジャコバン派とジロンド派は明確な政党ではなく、志を同じくする個人のグループであった。議員は大臣になれなかったから、両派の指導者たちは内閣を作らなかった。ジャコバン派とジロンド派とのあいだの争いは、政治の方法についての相対立する考え方、革命生活の相対するやり方の間の真の闘争であった。右翼の数が多いほうの少数派は、その最上の雄弁家がジロンド県選出の議員であったので、ジロンド派と呼ばれた。左翼の数が少ないほうの少数派は、その指導者たちがパリ選出の議員で、ジャコバン・クラブの幹部会員であったので、ジャコバン派と呼ばれた。ジロンド派は「89年の人々」を代表し、革命の諸目的は良い法律、理性への呼びかけ、経済的自由放任によって達成できると考えていたことである。一方ジャコバン派は全体として、1791~2年にもっと経験を積んだもっと現実的な考え方を代表し、中央統制のより偉大な施策の必要を信じていた。ジロンド派は、中産階級の利益と投資とが安全で、人生が快楽に満ちている国家を望んでおり、ジャコバン派のユートピアは、計画主義的な民主政治、福祉主義的な独裁政治であるべきであった。

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