ハイデガー=存在神秘の哲学

またも失敗だ。最初に読んだ、木田元氏の「ハイデガーの哲学」はまあまあ良かったのに・・・。2冊続けて失敗です。難しいテーマの本は失敗率が高い、しょうがないか・・・。

存在というくらいだから、当然、存在するものだと思って考察しようとするのだが、まるで無い。なにもかもが無い無いづくしになってしまう。色は無い、形も無い、重さも手ごたえある実体もない。終わりも初めも無い。根拠も理由も起源もむろん無い。「何も無いこと」(Nichtigkeit)だけが、その正体であるかのようだ。モノ(存在者)なら目の前に現れる。だから、物体や画像や意味概念として把握できる。保存も記録も可能。つまり様々な仕方で所有できる。


この持つという形式で接近できるモノのありようを、以下、所有モードと名づけよう。一方、存在はどうか。存在はモノ(存在者)ではない。モノではないから、現前しようがない。現前しないから、それを所有(記録・捕捉・所持・記憶・保存・把握)することができない。所有できないから、失いようも無い。財布を落としましたと警察に届け出ることはできるが、財布の「存在」を紛失しましたと届け出るわけにはいかない。なぜならそもそも財布の存在を、ぼくたちは所持などしていないからだ。つまり存在は所有の対称にならない。

Hannah-Arendt.jpg

まるで宇宙人のハイデガー。そのかれが、これまたエイリアンのような少女と、恋におちた。エキゾチックな顔立ちの美少女ハンナ・アレント。ユダヤ系の17歳の女学生。頭脳明晰にして、その存在だけでビンビンとあたりにオーラを放ったという。むろん不倫。後にゴシップのネタになるエピソードだが、この世になじめなかったもの同士のなけなしの契りあい。当時の恋文書簡集をみても、その後50年間に渡る奇妙な従来関係を見ても、地上の尺度ではとても採寸できないスケールや不条理さに満ちている。

かつて、近代の主体主義が優勢を極めた時代には「人間は自分の生や行為を明晰に認識できかつコントロールできる者」と想定されてきた。自己反省能力を備える明晰な主体性(コギト/理性)を、全ての起点におくことができたからである。だが、世界制作的であるぼくたちは、目前のものを単に眺めやるだけの、そんな無世界で静態的で観照的な生活をしていない。役者さながらに周囲世界に気を配り、共演者を気遣い、観客に配慮しながらその上で、時々物事との交渉に明け暮れる。しかも既に最初から、共同世界的な制度やシナリオに染色された公共圏を生きる。実に動的で実践的な行動圏を、しかも暗黙裡に生きてしまっている。このような実践的で動的で暗黙裡の生存様式を、ハイデガーはきづかい(Sorge)と総称する。まずはとても自足的で理知的な主体が居る。それが外の世界と関係する。することで様々な認識や行為が事後に形成。かつてならそんな明示的で生態的な主観-客観の二元論が、観念論的であれ唯物論的であれ理屈としては-なりたつこともできた。

第一次大戦後の疲弊したドイツ社会に蔓延したニヒリズム。不安と混迷の時代。それはある意味でチャンス到来だった。個人規模で起こるあの「反転の論理」が、社会規模で、あるいは地球規模で実現するかもしれない。初期ナチズム(Nβ)。反資本主義と弱者救済のポーズで登場し、颯爽と失業問題を解決し、緻密な軍事施策を打ち、それなりの社会福祉政策をも掲げた(社会主義的労働者党)であった初期ナチズムに、そんな精神革命運動(Nα)を夢見た。これがハイデガーがナチズムに参画した根本理由である。それはNβを、ニーチェの言う「ニヒリズムへの対抗運動」とみたということだ。
ハイデガーはこういっている。「ヒトラーとムッソリーニの両人は、それぞれ異なったやり方で、ニヒリズムへの対抗運動を引き起こした。両人ともニーチェから学んではいる。だがニーチェ本来の形而上学的な領域(Nα)は実現されていない」

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古東 哲明

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