聖書の常識 5/6~律法体制

律法は現代も生きている

たとえば、食べ物についての規定などでも、外部からみると「掟の上に掟を立てる」でどんどん増えて膨大なものになっていく。だがその本を探れば律法とくに申命記の規定なのである。ときにはそれが笑い話のようになるが、イスラエルでは肉の出るレストランではバターも乳製品も出ないし、アイスクリームも食べられない。またレストランは乳製品用キッチンと肉製品用キッチンを分けねばならない。なぜこういう規定があるかというと、旧約に「子やぎをその母の乳で煮てはならない」(申命記14章21節その他)とあるからだ。これは牧畜民としてごく常識的な規定であるが、これが拡大解釈され徹底化すると、同時に食べると腹の中で煮ることになるからいけないということになる。しかし、そのアイスクリームに使われた牛乳は、ビフテキになった牛の母親のものという証拠はないではないかと質問すると、ビフテキになった牛の母のものではないという証拠もないからだめだという。こうまでいわれると、それならアルゼンチンから輸入した肉と、現地の乳製品ならいいのかと、皮肉も言いたくなる。

だが、皮肉や嘲笑を別として考えれば、どの民族にも相当に厳格な生活規範があり、振り返ってみれば日本人も例外でないということである。われわれは犬、猿、蛇、蟻の卵は食べないが「なぜか。何に基づくのか」と、それを食べるのが当たり前の民族から問われれば返事はできない。しかしユダヤ教徒やイスラム教徒が「なぜ酒を飲まないのか」「なぜ豚、貝、うなぎ、かに、えびの類を食べないのか」と問われれば明確に答えることができる。いわば彼らは規範の典拠が神との契約という形で明確になっていて、われわれのように「何となく・・・」ではないのである。


エズラの宗教改革

エズラはバビロニアから帰国するに当たって、モーセの五書をたずさえてきた。どこまでが事実か伝説かわからないが、民衆の前でこのトーラーを読んで聞かせ、この律法の通り実行することを人々に約束させた。これが、紀元前444年とされている。ユダヤの総督としてペルシアから派遣されたネヘミアが、エルサレムの城壁を再建したのも同じ頃、そしてこのときを期して、新たな律法体制をしくことになったものと思われる。その3年前の紀元前447年は、アテネにパルテノンの神殿ができた年だ。それと比べると、旧約の歴史がいかに古いかがわかる。アテネの開花期には、旧約の歴史は既に捕囚からの期間の時代だった。エズラやネヘミヤは、だいたいソクラテスと同じ頃の人である。エズラは神殿のほかに、もう1つの宗教的権威を打ちたてた。エズラは大シナゴーグと呼ばれるものがこれで、シナゴーグとは会堂のことである。こうして、神殿が絶対的権威を持っていた時代は終わり、それに代わって会堂-シナゴーグが神殿を支えかつ民族を支配し、あるいは指導する時代が始まった。もっともシナゴーグというギリシア語では書いてなくて、クネセト・ハ・グドーラというヘブライ語が書いてある。「大いなる集会」といった意味である。現代のイスラエル国でも、議会のことをクネセトというが元来は「大集会」で、律法を読み、かつその解釈について討議し、票決する集まりを指していた。シナゴーグこそ、律法の本当の継承者であるとして、宗教的権威が神殿からシナゴーグに移った。これがエズラの行った宗教改革で、これ以後は神殿とそれを支配する祭司の指導権が落ち、シナゴーグとそこの指導者ラビが民衆を支配するようになり、それを基礎にイエス時代のパリサイ派が出てくるのである。

律法体制は預言を消滅させた

トーラー体制の確立は、一つの重大な結果をもたらした。それはイスラエルの貴重な伝統であった預言の消滅ないし休止という思想がでてきたことである。トーラーが絶対化され、いっさいがトーラーに帰せられるようになると、これを超えて預言を通して神が人に語るということはなくなる。トーラー体制の下では、預言者の活動する余地はない。「預言者は今はいません」(詩篇74編9節)、「預言者が現れなくなって以来・・・」(マカバイ記上9章27節)といった言葉があり、タルムードにもヨセフスの文書にも「これとともに預言の声は絶えた」という意味のことを記している。旧約における預言という伝統が、ここで打ち切られたことになる。トーラー絶対という考え方に立てば、神のことばの体現者イエスという発想は出てこない。

旧約の中でヨブ記こそ、われわれのいう宗教書に近い著作だと私は思う。聖書は簡単に宗教書とはいえない。そのなかでヨブ記は確かに宗教書だが、見方を変えれば、劇とも劇詩とも言える。ということは、これは他の著作と違って、純然たる「創作」(フィクション)だからである。作者も年代も明らかでないがだいたい紀元前4~5世紀以降とみるのが普通である。ヨブ記の主人公は、ヨブ。箴言的な意味での神の戒め完全に守った人間、「その人となりはまったく(むきず)、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」と。さらに彼は恵まれた資産家、そのうえ多くの子女があり、仮定も幸福であった。「箴言」の発想からすれば、これは当然であり、彼は生涯にわたって報われるはずなのだが、ある日、不意に全く理由なくあらゆる苦難にあうという物語になっている。そこに箴言的世界観への痛烈な批判がこめられ、そこから神義論が展開されていく。その構成は確かに一種の劇詩で、ヨブ記の冒頭は後にゲーテがこれからヒントを得たファウストの序幕と同様に天上における神とサタン(悪魔)との問答にはじまる。奇妙な問答には興味深い点がある。ファウストのメフィストフェレスでも同じだがーサタン(悪魔)が神と対立せず、神のもとに来て、ヨブを告発しているということである。旧約、とくにその古い資料におけるサタンは決して「神と悪魔の対立」というかたちにならず、サタンは神のかたわらにあって人の罪を告発するものになっている。ではなぜそれが悪なのか。それは告発は正義を口にしながらその動機が憎悪であり、憎悪を悪の根源と見るからである。

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