ロベスピエールとフランス革命 4/4~議員特権

金融界のスキャンダルによって、ジャコバン派の大義にさらに害が加えられた。このスキャンダルに、ジャコバン派の幹部級が幾人か掛かり合いになっていたからだ。カロンヌ(1787年財務総監)が創立したクラヴィエール(ジュネーブの銀行家、1792年大蔵大臣)が保護していた両インド会社が、封鎖によって破産してしまい、その清算は、ダントンおよびロベスピエールの友人で革命歴の作者であるファーブル・デグランティーヌ(劇作家、国民公会ダントン派)と、それにバジール(弁護士、ダントン派)、ジュリアン(牧師、ジャコバン派)などの保安委員会メンバーとジャコバン派議員のドローネイなどが引き受け、これらの人々は、清算で金を儲けようと陰謀した。

両インド会社事件から始まった捜査は、金融界のスキャンダルであったかもしれないものを政治的陰謀に変形してしまっていた。過激派は死に、腐敗分子は獄中にあって、互いに告発し合い、外人銀行家たちは分別深く国境のかなたに引っ込んでしまっていた。しかしなお不平分子のグループが残っており、彼らはその人気か公職のおかげで、食糧、賃金、1793年の憲法に対する勤労者の要求を代弁することができる人々であった。その指導者は陸軍省のブーショットのもとで任官を担当する書記官であったヴァンサン、革命軍の前司令官のロンサン、コルドリエ・クラブ(この一派の大本営)のモモロ、ナントの溺死の責任者であるテロリストのカリエ、そのほか数人であった。


エベール派の処刑に続く一週間の間に、公安委員会は、ダントンは排除のプランを完成した。これらの「陰謀家たち」のなかには、ダントン自身の他に、バスティーユ攻撃の創始者でジャコバン派のジャーナリスト中もっとも利口なデムーラン、1793年の憲法作成者エロー・ド・セシェル、革命暦の発明者ファーブルが含まれており、彼等は皆が皆しっかりした党派人で、その唯一の犯罪は彼ら自身の政府の政策を批判した点だけであったからである。その行為に対する責任を分散させ、全員一致の外見を付け加えるために、公安委員会は、保安委員会を相談に加わらせた。そしてダントン派の逮捕令状には今でもなお読み取れるように、彼ら18人の署名があり、後から数えて2番目に、そして一番小さく「ロベスピエール」の名前が出てくる。令状に真っ先に署名したビヨー・ヴァレンヌの証言によれば、ロベスピエールに署名を付け加えさせるまでには、大変な説得が必要であった。

公安委員会は、草月法に具体化された政策を認可しているものと信ぜられていたし、その原則については、彼らの同意ををあたえていた。公会内、政府両委員会自体内にいるロベスピエール派の敵に対する、ロベスピエールの陰謀をこの法律がひそませているのではないか、という概念が両委員会内にも公会内にも直ちに呼び起された。法文を研究してみると、一寸見ると害はないが、ひょっとしたら不吉なものとなる規定が含まれていることが分かった。その第20条によると「国民公会はこれによって、これまでの法律の規定中、この法令と矛盾するものを廃止する」とある。これは外見通り邪念のないものであろうか。それとも公会の特別の票決がなくては、いかなる議員も法的に起訴されることはないという、「議員特権」の規則及び慣習を廃止するのを意図しているのか。議員たちが選挙された際、施行されており、新憲法がこれにとって代わるまでなお存在しているとみなされる1791年の憲法は、次のように宣言していた。「国民の代表は不可侵であり、代表としての職能の行使中に、言い書き行ったいかなることに関しても、逮捕され告発され刑を宣告されることはできない」と。この不可侵性は議会自体であればこれを無効と宣言する権限をまとめた法令(1794年1月)そのものによっても認められていた。しかし数日後のダントンの裁判中に、彼はまず最初に「予防逮捕」のもとにおかれ、公会は後で相談を受けた。この法の意図は、革命裁判所をスピードアップすることだけでなく、裁判所をの注意を新しい種類の容疑者、議員自身、に向けることであったのだ、という疑念が後に残った。

ジャコバン派はジロンド派を覆すために、人民を「パンとサーカス」によって買収する-人民に食料と職業を見つけてやり、人民の抑圧者を罰し、コミューヌの暴行を容赦する。しかし彼らは間もなく、譲歩が感謝ではなく新たな要求を生むに過ぎないことを発見した。そして彼らは懲罰的な諸施策-革命軍の廃止、賃金の最高価格制、食糧退蔵者の逮捕および処刑、扇動者およびデマゴーグの粛清に追い込まれた。こうした一歩一歩が公衆の不満の範囲を広げた。

> 民に求めてはならぬ。常に不平不満を言うのが民だ。

カトリック教が強力な地方都市、そして一般に、宣誓拒否僧侶がまだ見出される農村の地区では、宗教は政治の最も巧妙な邪悪な敵であった。僧侶の居ない村、ミサのない教会、キリスト教の葬式のない死、それらの一つ一つが、ジャコバン主義に不利な論点であった。もっともカトリック的な王権の遺産相続者である国民議会は、法王権と協力することにも、法王権に取って代わることにも失敗した。国中は絶望的に新しい政教協約を待ち望んでいた。これらの宗教的面倒は、特にジャコバン派の失策ではなかった。彼らは少なくとも理論的には信仰の自由を支持し「非キリスト教化主義者」を弾圧しようと努めたのだ。

ダントン処刑後の10日以内の4月16日には政府の代理人および管理の行為を調査する権限を持つ「警察局」。5月7日には新宗教を創始する法令。6月8日には「最高存在の祝祭」。2日後には草月22日の法律。そして、5月24日のロベスピエール攻撃に連座したと称せられる58人の大量処刑-おそらく一連の大量処刑中もっともいまわしいもので、58人は皆、「国家の父」を殺害しようとしたというので親殺しの印の赤シャツを着せられていた。

コンコルド広場へ連れて行かれ、そこで彼の首はギヨッティーヌによってはねられた。彼が「最高存在」の祝祭行列に、公会の先頭に立って同じ路を通ってから、6週間しか経っていなかった。同じ群衆が今日もそこにいた。しかしその叫びは「暴君を倒せ!最高価格制を倒せ!」であった。ジャコバン派の支配、ジャコバン派のプログラムは退けられた。徳と宗教の上にフランス共和国を再建したかもしれなかったただ一人の愛国者は、彼の同胞市民たちによって死刑に処された。- 「主権をのっとるすべての個人は、自由人によって即刻死刑に処せられる」という彼自身の憲法17条に従って

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パリはいまだにロベスピエールの銅像を建てていない。ただ彼の生地アラスで、しかも猛烈な論争のただ中で、彼の胸像が市役所に建てられた。

恐怖政治については公平に次のように言えるであろう。それは突然創造されたのではなく次第に成長したもので、1792年8月10日に「愛国者」を射殺した「犯人」たちに対する報復への人民の要求により、また9月虐殺によってはじまったこと、ロベスピエールが公安委員会に加わる以前に革命裁判所はすでに50人以上もの人を処刑していたこと、そして彼が同僚の独裁者以上の直接の責任を、裁判所の仕事に持っていたわけではないこと、である。他方、公安委員会の決定への彼の署名を検討すれば、合計542の署名のうち、124は彼自身の手で作成された決定につけられたもの、さらに47は彼自身がまず第一番に署名したものであり、これらはそこで取り扱われている問題に対する彼の特別の責任か関心を示している、と思われる。このうちかなり多数は、警察事務、ことに逮捕に関するものである。

【治外法権領域】
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