中国の正体 4/5~独裁者への批判

勝敗を分けた戦略-隠された社会主義の汚点

戦略上見逃せないのは、内戦の帰趨を決定した満州の軍事状況である。満州は国境両軍の到着以前にソ連軍により占領されていた。そしてソ連軍は国民政府軍の満州進駐の速度を遅らせる挙に出たのである。さらにソ連軍は、共産党軍に満州到来を待ち、占領中の都市をその支配に委ねた。また日本軍から接収した武器を、共産党軍に提供したのである。これが共産党軍が戦略的に優位に立つ大きな要因となる。しかしながらソ連には共産党全面的に支援する意図はなかった。満州におけるソ連軍の動きは、ソ連が利権の回復をもくろむ満州内に、国民政府軍がアメリカ軍の助けを借りて進駐することへの抗議であり、最終的にはソ連は国民政府(共産党を内に含む)の中国支配を受け入れたと考えられる。事実としてソ連は日中戦争中には共産党よりも国民党を優先的に支援していたし、日本の敗戦間際には中ソ友好同盟条約を締結し、国民政府を中国を代表する政府として承認していた。この背景には、外モンゴルの独立を国民政府に承認させ、長年にわたる中国との領土問題をソ連側に有利に解決できるという外交上の利点があった。ところがソ連の思惑を超える新たな展開が発生してしまった。その結果国共内戦の帰趨が決定的になり、国民政府が南京から広州に移動した1949年4月の段階になってもソ連大使は国民政府の移動に同行することになる。

満州において共産党軍が勝利した要因として、以下の事実を考慮しなければならない。装備と数において優勢であった国民党軍の満州における展開は、大都市に集中した。これに対して劣勢の共産党軍は、大都市を結ぶ鉄道網を寸断して大都市を孤立化させた。国民党軍は航空機輸送に望みをつないだが、空輸能力には限界があり、国民党軍は食糧にも事欠く状況に陥る。一方、共産党軍は都市郊外の農村地区を厳しく管理し、物的かつ人的な補給を欠かすことはなかった。このようにして国民党軍は補給戦において敗北したのである。



土地改革の後、農民が激しい搾取にさらされた事実は、1953年9月に開かれた第27回中央人民政府委員会での梁滄溟の発言に明らかである。梁滄溟は大胆にも議長席に座る毛沢東ら共産党員の前で、生活を保障される労働者に比べ農民の生活は極端に貧しく天と地ほどの差があり、労働同盟の建前は破壊されたと述べたのである。そして、労働者と農民の収入格差を是正するため、労働者の収入の一部を農民に回すように提案した。「農民を解放した」と自負し、労農同盟を自らの政治権力の基礎とする共産党には、農民が極貧に苦しみ労農同盟は破壊されたという梁滄溟の発言は、自分たちの存在理由を否定されたも同然であった。

毛沢東は、よほど痛いところを突かれたのだろう。梁滄溟の発言に対し「中国の工業を破滅させることだ。・・・国は滅び党は滅ぶ。党が滅ぶとき共産党だけが滅ぶと考えるな。民主党派にもツケが回ってくるのだ…」と怒鳴り立てた。さらに梁滄溟が過去に行った「郷村建設」を、「地主建設であり、郷村破壊であり、国家滅亡だ」とこき下ろし、梁滄溟の提案を一蹴した。民主同盟常務委員の周鯨文は梁滄溟とともに政府委員会に出席していたが、毛沢東は「もう我慢が出来ぬという態度で、マイクロフォンを自分で手づかみにし、いきなり怒鳴った」と述べている。農民から搾取する以外に国家建設の原資を得られなかった事実に鑑みれば、毛沢東の怒りにも一理ある。お前に言われなくてもわかっている。背に腹は代えられずにやっている農民搾取に対して、したり顔をして何を言うのか というところであろう。梁滄溟はこの後批判にさらされ、社会的に葬り去られる。

言論自由化政策に秘められた思惑

知識人たちの共産党批判は自主的に出現したものではなく、共産党に促された結果であった。そしてこれを促したのは毛沢東であり、意のままにならなくなった共産党を党外から批判にさらし、これにより生じた組織の動揺に乗じて、再び自らの指導力を回復しようとする狙いを持っていた。しかし共産党に促された結果とはいえ、知識人たちの共産党批判には、社会主義化の矛盾を鋭く指摘する内実が備わっていた。

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そもそものきっかけは、ソ連でスターリン批判が発生したことである。スターリンは、レーニンの死後にロシアの社会主義革命を強引に推し進めた共産党の指導者であり、1953年に死去していた。新しく指導者となったフルシチョフは、56年のソ連共産党大会の秘密報告で、ロシア共産党内での反対派に対して行われたスターリンの大規模な粛清を告発し、スターリンの教条主義と個人独裁を否定した。フルシチョフの狙いは、個人独裁に終止符を打ち、集団指導体制を打ち立てることであった。フルシチョフのスターリン批判は3月初めの『ニューヨークタイムス』で報道され、6月にはアメリカ国務省がフルシチョフ報告の全文を公表した。

スターリン批判は、毛沢東には脅威であった。当時の毛沢東は、国家主席、中国共産党中央委員会主席、政治局主席、中央書記処主席、軍事委員会主席を兼務し、文字通りの皇帝的権力を手中にしていた。ところがスターリン批判は、このような独裁権力を否定したのである。スターリン批判が起こると、劉少奇らは毛沢東の独裁体制を改めようとした。その結果、1956年に開かれた中国共産党大会において、政治局の中に常務委員会と5名の政治局副主席が新設され、政治局主席としてすべてを単独で処理していた毛沢東の独裁体制には終止符が打たれる。このほか、中央書記処には総書記が新設され(鄧小平が就任)、毛沢東の中央書記処主席は廃止される。

スターリン批判により自らの独裁権力が掣肘されることを恐れた毛沢東は先手を打った。言論の自由化を促して共産党の支配体制を動揺させ、このダイナミズムのなかで、自分の権威を再び際立たせようとしたのである。言論の自由化には急激な社会主義化に対する国内の不満のガス抜きをしようとする思惑も働いていた。毛沢東は支配体制の動揺を恐れる劉少奇らの共産党委をしり目に、躊躇することなく言論自由化を推進した。自由化を提唱して不満分子をあぶりだし、折を見て彼らを圧して支配体制を固める方法であり、延安整風運動の全国版であった。

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