わが闘争 下 国家社会主義運動 1/7~民主主義

マルクシズムと民主主義の原理

マルクシズムは国民的精神界を絶滅してやろうと決めているのだが、自己の犯罪目的のためにたとい間接的にせよ支持を受けうる限り、民主主義と一緒に進むだろう。しかし、我々の議会主義的民主主義の魔法の釜から突然多数者を沸き立たせ - そしてそれがただ正当な多数決の立法にのみによるとしても - 本気でマルクシズムを弾圧しようとしているという確信に、今日到達するならば、議会のまやかしはただちに終わりをつげるであろう。赤色インターナショナルの旗手たちは、さらに民主主義の良心に訴える代わりにプロレタリア大衆に燃えるような檄を発する。そして議会における民衆の使途の知的な要領のよさではできなかったことが、扇動されたプロレタリア大衆の鉄槌やハンマーで、ちょうど1918年秋と同様に電光石火のように達せられるだろう。すなわち、西欧民主主義のやり方でユダヤ人の世界制覇に対抗できるなどとうぬぼれることが、いかに狂気じみているかを、ブルジョア社会の人々に痛切にわからせてくれるだろう。
 規則などはいつか高飛車な態度に出る時や、あるいは自分の利益になるときにだけ存在していて、自分の得にならないとなるや否や投げ捨ててしまうような博徒を相手にして、規則に縛り付けられているなどということは、前に言ったようにまったくお人よしに他ならないのである。ブルジョア政党には、偉大な優れた視点からの信服させるにたる印象と、その印象を無条件に信頼させるにたる説得力を持って大衆をいつも従え、この印象を固守していこうとする狂言的な闘争意欲とを結合させるような偉大な磁石のような魅力が欠けているのである。

「民族主義的」という概念

「民族主義的」という概念は、「宗教的」という言葉とほぼ同じように、明確に限定されておらず、色々と違った意味に解釈できるし、また、実際に色々勝手な意味に使われているように思える。「宗教的」という言葉にしても、この言葉の働き方が一定の明瞭な形をとった時に、初めて観念の上で把握しうるのである。ある人をその性質が「内面的に非常に宗教的」であるという場合、それは結構だがおおむねまたつまらない説明である。確かに少数の人は、そうしたまったく一般的なレッテルをつけられて自分自身満足感を覚えるであろう。しかし、大部分のものは、哲学者でも聖者でもないから、こんなまったく一般的な宗教的理念では、たいてい一人一人にそれぞれ違った考えや行いを自由に与えることを意味するだけであり、なんといっても内心の宗教的渇望が、純粋の形而上的な無限の志向の世界の中から、明確な特定の信仰が形成された時に生ずるような、あの効験にいたることもないのである。この信仰なるものは確かにそれ自身目的ではなく、目的のための手段に過ぎない。だがそれは目的一般に到達しうるために不可欠の手段である。しかしこの目的は単に観念的なものではなく、究極においては優れて実践的な目的なのである。人々は一般にもっとも崇高な美の尊さが、結局ただ倫理的な合目的性の中にだけ存するとまったく同様に、最高の理想は常にもっとも深刻な生活の必要に即しているということを知らねばならない。

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ヴィトゲンシュタインの「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」調な意見だが、論理哲学論考はヒトラー読んでいたのかな? 二人は同窓だった時代もあったらしい・・・。


国家についての3つの有力の考え方 ごく大雑把にいって、3つの国家観念を区別することができる。

1)国家を単純にある政府の権力のもとに、多かれ少なかれ自発的に集った人々の総和と見るグループ。
2)第二のグループは、国家の存在の少なくとも2,3の条件をつける人々がそれに数えられなければならないだけ数からいっても少ない。彼らは同一の行政だけでなく、できるならばまた同一の言語-たとい一般行政技術上の見地からだけであっても-であることを要求する。国家権威はもはや国家の唯一の独占的な目的ではなく、臣民の福祉の増進がこれに加えられる。「自由」の思想が-しかもたいていは間違っている自由の思想が、これらの人々の国家観にこっそりはいってくる。統治形式はそれが存在しているという事実だけでは不可侵のものとは考えられず、それが目的にあっているかということが吟味される。国家が古いという尊厳だけでは、現代の批判を免れない。ともかく、これは国家からまず第一に個人の経済生活に有利な状態を期待し、それゆえに実際的観点から一般の経済上の損得の観点から判断する見方である。この観点の主要な代表者は普通のわがドイツ・ブルジョアジーの人々、特に自由主義的民主主義者である。
3)第三のグループは数字上、最も少ない。かれらは国家を、言語的に特色を持ち、統一された国家を形成している民族の、たいていは非常に不明瞭に考えられている権力政治的傾向を実現する手段と見る。統一的な国語にしようとするこの意思は、その場合、ただこの国家がそれによって対外的権力を増大させるための力ある基礎を作ろうとする希望だけでなく、それにおとらず-そのうえに根本的に間違っているが-国語統一によって、一定居の方向への国家化を実現しうるという考え方を表しているのである。


がしかし、言語や民族の分類が主観的にならざるを得ない以上、ここでヒトラーが定義している国家観念の分類もまた揺らいでしまうものに過ぎない。


民主主義国家と人種衛生

民主主義国家は人種を一般的生活の中心点に置かねばならない。民族主義国家は人種の純粋保持のために配慮しなければならない。民族主義国家は子供が民族の最も貴重な財宝であることを明らかにせねばならない。ただ健全であるものだけが子供を生むべきで、自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず子供をつくることはただ恥辱であり、むしろ子供を生むことを断念することが最高の名誉である、ということに留意しなければならない。しかし反対に国民の健全な子供を生まないことは非難されねばならない。国家は何か明らかに病気を持つものや、悪質の遺伝のあるものや、さらに負担となるものは、生殖不能と宣言し、そしてこれを実際に実施すべきである。これに対して逆に国家は、国家の財政的にだらしない経済管理のために、子沢山が両親にとってのろいとなり、健全なる女子の受胎が制限されることの無いように心がけねばならない。

肉体的にも精神的にも不健康で無価値なものはその苦悩を自分の子供の体に伝えてはならない。民族主義国家はこの点で巨大な教育活動をなすべきである。国家はこの教育によって病身であったり、虚弱であったりすることは、恥ではなくただ気の毒な不幸にすぎず、しかし、この不幸を自分のエゴイズムから何の罪も無い子供に負わすことによって汚名をかぶせるのは犯罪であり、したがって同時に恥辱であり、これに対して罪の無い病人が自分の子供を持つことを断念し、自分の民族の健全さのために、他日、力強い社会の一員になることを約束されている民族の見知らぬ貧しい幼い子孫に愛と情を注ぐのは、最高の志操や賞賛すべき人間性の尊さを証明するものであることを一人一人に教えるべきである。そして国家はこの教育活動によって、国家の実際的活動を純粋に精神的に補うようにしなければならない。国家はこの意味で、理解や無理解、賛成や不賛成を顧慮せずに行動しなければならない。


私が昔書いた妄想小説「我が競争」にも、出生制限と"生殖の分配と局在化"について書いている。当時私はヒトラーの「わが闘争」を読んでいなかったのだが、あたかも読んだことがあるかのようなパロディー小説を書いていたあたりが、天才的予言能力と言えよう。

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