ハプスブルク家の悲劇 7/8 ~失われた軍事バランス

6.サラエボ事件

1914年6月28日、ところは"ヨーロッパの火薬庫"といわれたバルカン半島ボスニアの首都サラエボ。オーストリア=ハンガリー帝国皇帝の甥、フランツ・フェルディナント皇太子とその妃ゾフィーがセルビアの一青年の手で殺されたのである。当然ながらオーストリア政府はセルビア政府に対して強い態度をとった。7月22日の最後通牒は反オーストリア宣伝の禁止声明、反ハプスブルク的新聞の発禁、「民族防衛」の解散、事件関与の疑いのある教師・将校・官吏の解職・解任・逮捕などを要求し、25日までに回答するように迫った。結局オーストリア政府はセルビア側の回答を不満として7月28日にセルビアに宣戦布告することになる。このサラエボ事件によって三国協商(英・仏・露)と三国同盟(独・伊・墺)の対立に火がついた。各国は次々に総動員令を発令し、8月1日のドイツの対ロシア宣戦布告でついに第1次世界大戦が開始することになる。



フランツ・フェルディナント大公は1874年生まれ。9歳の時に母を失い、父カール・ルートヴィヒはポルトガルのブラガンサ家のマリア・テレジア姫を後妻に迎えた。彼女は心の広い女性で、三人の継子たちに心からの愛情を注いだ。ルドルフ亡き後、オーストリア=ハンガリー帝国継承者として、にわかに周囲の注目を浴びることになる。誰が彼の妃に選ばれるかも重要な問題となった。当のフランツ・フェルディナントは、プレスブルク(現チェコスロヴァキアのプラチスラバ)にフリードリヒ大公の城を、毎週のように訪れていた。宮廷内では彼がその娘のうちの誰かと結婚するではないかと囁かれ、大公妃イザベラも彼が自分の館をいつも訪れるのは、娘の誰かに気があるからだろうと思い込んでいた。ある日フランツ・フェルディナントは、プレスブルクの城でテニスに興じたあと、テニスコートに腕時計を忘れていった。その腕時計はさっそくイザベラ大公妃に届けられた。当時は腕時計の裏に意中の女性の写真を入れておく習慣があったから、イザベラ大公妃はどの娘の写真が入っているかしらと、期待に胸をときめかせながら時計の裏を開けてみた。

ところがなんと、そこにあったのは娘ではなく、彼女の城に仕えるボヘミア出身の女官、ゾフィー・ホテクの写真だった。大公妃は我が目を疑った。この女官はおよぼ美人でもなく若くもない。しかもたかが田舎貴族の娘ではないか! 大公妃はゾフィーをさっそく追放処分にし、同時に1件をウィーンの宮廷にも知らせたので、フランツ・フェルディナントの秘めた恋はすっかり知れわたってしまった。

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> ってコイツの娘だろ? ゾフィーのこと「美人でもない!」と言える顔じゃないと思うんだがな。女を見る時はその母親を見るとその女の将来が分かるというではないか。選ばない選ばない、お前の娘は選ばないw

やがてオーストリア=ハンガリーの皇帝に即位するはずの大公が、たかだか女官にすぎないボヘミアの下級貴族の娘と結婚しようとしている!フランツ・ヨーゼフ皇帝は怒り狂った。実は皇帝とフランツ・フェルディナントは、政治面でも激しく対立していた。特にハンガリー問題では両者の対立は決定的だった。皇帝フランツ・ヨーゼフは皇后エリザベートの影響もあった1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立を承認していた。しかしフランツ・フェルディナントは、皇帝のハンガリー政策を手ぬるいと批判し、ハンガリー人がすでに他民族より優先的な諸権利を得ているのに、さらに独立を要求するのは行き過ぎだと主張していた。そんなとき、ゾフィーとの一件が持ちあがったのである。皇帝は「帝冠を取るか、結婚を取るか」と迫ったが、彼は「帝冠も結婚も両方取る」と傲慢にも言い放つだけだった。

結婚式の当日、皇帝はゾフィーを公爵夫人に昇格させ、公式にゾフィー・フォン・ホーエンベルク公爵夫人と名乗らせる旨を発表した。だからといって別に、皇帝は彼女をハプスブルク家の嫁として認めたわけではない。貴族は死ぬまでゾフィーに謁見の許可を与えなかった。貴賎結婚をした2人を待っていたのは、屈辱に満ちた日々だった。公式行事の時は、夫婦一緒に馬車に乗ることも、椅子を並べて据わることもできない。帝位継承者の夫人でありながら、序列として最下位のゾフィは、いつも30人の大公妃たちの一番後ろを歩まねばならなかった。フランツ・フェルディナントはなんとかゾフィーの地位を高めようとやっきになったが、そんな彼の前にしたたかな強敵が立ちはだかった。ナポレオンと結婚したマリー・ルイーズ妃の血を引く、宮廷大臣モンテヌオーヴォ候である。宮廷大臣は近衛兵の総司令官で舞踏会や狩猟や王立オペラ劇場の差配から始まり、宮廷内の人事を含む一切をつかさどる絶大な権力を握っていた。宮廷大臣と皇位継承者との対立は次第に深刻なものとなり、時としてゾフィーは、あからさまな差別に激しい怒りを爆発させるようになった。

フェルディナント大公はオーストリア=ハンガリーの二重帝国の上に、さらに南スラブ人の自治を認めて、三重帝国を再編成しようと考えていた。しかし三重帝国構想に、セルビアは激しく反発した。セルビアは5世紀前からオスマントルコの圧政を覆して独立を勝ち取り、バルカンの覇者としてアドリア海進出を目論んでいたが、ハプスブルク帝国は1908年、セルビアと隣り合わせのボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合してしまったのである。しかもフランツ・フェルディナントの三重帝国案は、ハプスブルク領のクロアチア、スロベニアを主体にし、ボスニアのセルビア人をも吸収してしまうもので、セルビアにとって断じて許しがたい構想であった。こうしてオーストリア=ハンガリー帝国とセルビアは一触即発の状態になり、セルビアには反オーストリアの秘密結社が誕生した。腹心のへッツェンドルフ元帥参謀総長をはじめ、政治・軍事・経済など各界の不平分子が、大公の周囲に集まり始め、その勢力は皇帝側の人々にとってもあなどりがたいものになってきた。1913年8月、ついに皇帝はフランツ・フェルディナントに帝国の監察長官の地位を与え、陸海軍全軍の最高指揮権をゆだねた。そんな翌1914年フランツ・フェルディナントは皇帝の名代として、併合したボスニアでオーストリア=ハンガリー恒例の軍事演習を監察するためと、ボスニアの歴史を飾る1389年のコソヴォの勝利を記念するサラエボでの歓迎行事に出席するため、首都サラエボを訪問することになった。一触即発の緊迫した状況下であり、テロ組織の不穏な動きがあることを理由に側近たちは中止を説得したが、大公は耳を貸さなかった。実は閲兵の行われる6月28日は奇しくも大公夫妻の結婚記念日だったのである。

皇太子夫妻を暗殺したのは、いったい誰だったのだろうか。まず一つ目は、1902年にセルビアの学生たちを中心に結成した「プロスヴェタ(啓蒙)」という組織である。この中から、南スラブ開放のために活動する「ムラダ・ボスナ(青年ボスニア)」が生まれた。ハプスブルク支配からの独立と社会改革を主張し、組織的な合法活動より個人の直接行動を重視する組織で、1961年にノーベル文学賞を受賞するイヴォ・アンドリッチもこれに参加している。2つ目はセルビアの「ナロード・オドブラナ(民族防衛)」という団体。1908年のオーストリア=ハンガリーのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に反発して、セルビア民族意識を強化するため結成された団体である。二州に義勇軍を派遣してオーストリア軍と戦おうとしたが、セルビア政府におさえられ、その後はハプスブルク帝国内に秘密組織のネットワークを作っていた。3つ目は狂信的なセルビア民族組織「ウイェディニェーニェ・イリ・スムルト(統一か死か)」、別名「ツルナ・ルカ(黒手組)」である。この黒手組がサラエボ事件の実行犯だったと言われる。

サラエボ事件の後で、暗殺団とセルビア政府との関係が問題になり、セルビア政府が暗殺を支援していたとも言われた。セルビア政府の閣僚の中には、前もって暗殺計画を知っていた者もあり、阻止することもできたはずだといわれる。暗殺者はセルビア陸軍参謀本部の防諜機関や秘密警察から、ピストル、爆弾、資金、国境通過証などを手に入れた。暗殺計画を知ったセルビア首相は、国境警備隊から彼の越境を防ぐように命じたが、国境警備隊はこれを無視した。

【ヨーロッパの戦争・内戦・紛争】
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