ハプスブルク家の悲劇 8/8 ~神童とハプスブルク家

7.モーツァルト変死事件

あまりにも名高い「レクイエム伝説」は、ある日灰色の服を着た男が彼を訪ねてきて、名前も告げずに「レクイエム」の作曲を依頼し、5ドゥカーテンの予約金を置いて帰ったことから始まる。そしてモーツァルトの人生はこの時から一変してしまう。それまで宮廷音楽家として活躍していたモーツァルトがまるでとりつかれたように、昼も夜もこの「レクイエム」の作曲に没頭するようになってしまったのだ。音楽的にも「レクイエム」は、彼の有数の傑作であるだけでなく、一種独特な存在である。それまで天使のような軽やかな魅力をたたえていたモーツァルトの音楽が、ここではまるで人が変わったようにゾッとするような凄みのある美を描き出しているのだ。そしてその7年、"灰色の服の男"が姿を現してから、モーツァルトの健康状態は悪化する一方だった。手足は異常にむくみ、原因不明の嘔吐に苦しめられ、死の直前の11月下旬にはもう、ベッドから起き上がることもできなくなった。それでもモーツァルトは何かにとりつかれたように、ひたすら「レクイエム」の完成を急いでいた。

シェーンブルン宮の「鏡の間」で、神童と呼ばれた幼いモーツァルトが、マリア・テレジア女帝の前でピアノを演奏したことはあまりにも有名である。1762年、6歳になったモーツァルトは、家族と共にウィーンに赴き、その楽才を認められて、ついにシェーンブルン宮に伺候することを許される。そのとき少年は、なんとマリア・テレジア女帝の膝の上に飛び乗り、首に抱きついてなれなれしくキスをしたというのだ。信じられないような話だが、作り話ではない。父親のレオポルトも手紙の中で、「とても信じてもらえないだろうが、」とことわって、わざわざこの出来事を書いている。まさに無邪気で恐れを知らぬモーツァルトそのものではないか。





1762年10月13日、シェーンブルン宮はいつになく華やいでいた。神童の誉れ高い、モーツァルト家の子弟が訪れていたからだ。姉マリアンネは11歳、ヴォルフガングは6歳。とくに無邪気なヴォルフガング・モーツァルト少年は6歳の幼子とは思えないみごとな演奏で、宮廷の人々の人気の的になった。ところが演奏が終わり、無邪気に宮廷を走り回っている時、モーツァルト少年はピカピカに磨かれた床で、つるっと滑って転んでしまったのだ。そのとき、一人のかわいい少女が駆け寄って、彼を助け起こしてくれたのである。モーツァルトは嬉しさにポッと頬を染めてお礼を言った。「ありがと。ぼくはいまに大人になったら君をお嫁さんにしてあげるね」

これを聞いて周りの人々はワッと沸いた。この少女はなんと彼よりもほんの数ヶ月年上の公女マリー・アントワネットだったのである。かのマリー・アントワネットに最初にプロポーズした男がモーツァルトだったというのも驚きだろうが、実はこの2人にはさらに深い因縁がある。モーツァルトが世を去ろうとしていた1791年、パリのマリー・アントワネットの運命をも大きく変わろうとしていた。あのかわいらしい少女がヴェルサイユ宮での安楽な生活を追われて、タンプルの牢につながれ、やがて過酷な死を宣告されようとしていたのを、瀕死の病床にいたモーツァルトは多分知らなかったに違いない。

35歳の若さでこの世を去ったモーツァルトの死因が何だったかははっきりしていない。病気が原因ということだけはわかっていても、それが何の病気だったかということは、残された記録からは推定できないとされている。記録の中にはいくつか、それぞれ相矛盾する症状が記されているからだ。まず彼を最後に診断したクロセット医師は「粟粒発疹熱」、クロセット医師から所見を求められたウィーン私立病院院長ザラーバ博士は「脳膜炎」と診断している。また、当時モーツァルトが副楽長に任ぜられていた聖ステファン寺院の死亡録では「高熱を伴った悪性のインフルエンザ」、直接診断はしなかったが、クロセット医師の友人だったローベス博士の診断では「リューマチ性の高熱」、さらにウィーン宮廷の死亡記録では「心臓水腫」と記されている。

「死因は水腫というが、先週末ウィーンで死亡した彼の体が死んだ時膨れ上がっていたので、毒殺されたのではないかとさえ噂されている」 ハプスブルク王家自身、巷に流れる毒殺説に眉をひそめていたようで、モーツァルトの死から23年後の1814年、ギュルトナーという意思にモーツァルトの死因に関する医学的調査を命じている。このときの報告書にはギュルトナー医師が、「死因が流感であることを再認識した」、とあるがこの「再認識」というのはこの諮問以前にすでにモーツァルトの死因に関する調査が行われていたことを意味する。死因の流感も、モーツァルトが死んだ年、ウィーンに大流行した病気だ。本当の死因を伏せるため、ごくありふれた病名を用いたのだと考えられなくもない。楽聖モーツァルトの死因については、いまだに色々な説が唱えられている。そのなかでも根強いのが、灰色の服の男がきっかけでその男が彼の死に関する全ての鍵を握っているという説だ。

モーツァルトがフリーメーソンによって毒殺されたという説である。灰色の服の男については、フランツ・ヴァルゼック・シュトゥパハ伯爵という貴族で彼は亡き妻のために作曲を依頼したのだという説がある。しかし、モーツァルト自身、灰色の服の男はあの世からの使者であり、自分は自分の死を弔うために「レクイエム」の作曲を依頼されたのだと思い込んでいたと、のちにコンスタンツェは語っている。フリーメーソンがオーストリアに入ってきたのは18世紀の女帝マリア・テレジアの時代。フランス生まれの夫フランツ一世は熱心なフリーメーソン員で、1731年にウィーンに最初のメーソン支部を設立した。敬虔なカトリック教徒であるマリア・テレジアは、その後フリーメーソン結社を禁止し、会員たちを迫害するようになったが、息子であるヨーゼフ2世は、母よりも進歩的な啓蒙君主で、フリーメーソン禁止令を撤廃しただけでなく、彼らに対して好意的だった。モーツァルトは1784年、29歳のときにフリーメーソンに入会しているのである。そしてウィーンの「真の調和」という支部に彼はたびたび顔を出している。1785年モーツァルトはウィーンのフリーメーソン題に階層に昇格していた。これは当時としては異例なほどの早い出世だった。

当時はフリーメーソンの儀式のために多くの音楽が作曲された。モーツァルトだけでなく、リストやハイドンをはじめ、たくさんの音楽家がフリーメーソンの儀式用の音楽やメーソン思想をもとにした作曲をしている。モーツァルトだけでも「フリーメーソンのための葬送音楽(K.477)」、「メーソンの喜び(K.471)」、フリーメーソン・カンタータ「宇宙の魂よ(K.429)」、「支部の門出に寄せて(K.483)」、「結社員の旅(K.468)」、メーソン的カンタータ「無限なる宇宙を創造したものを崇拝する我ら(K.619)」などなど・・・なかでもモーツァルトが死んだ年に発表されたオペラ「魔笛(K.620)」は彼が真実と正義と平等をテーマに、音楽とフリーメーソンの秘儀をミックスさせた超大作である。しかし困ったことにモーツァルトにしてみれば反逆精神からか、あるいは冗談半分だったのか、いずれにしても、その曲の中にはフリーメーソン内部の秘儀と象徴がふんだんに散りばめられていたのである。特に会員だけの秘密である、フリーメーソンの秘境的シンボル「8つの水銀寓意」を、この曲に織り込んでしまったのは致命的だった。魔術儀礼や秘密結社の秘儀参入のための儀式には、3回のノックという合図が重要な要素である。3回のノックは寺院や儀式場への入場の合図になったり、精霊を呼び出す呪文を象徴するもので、床や壁を手や足でノックすることを言う。「魔笛」ではメーソンの参入儀式の3回のノックをそのまま音符として使い、入場の合図にしているのだ。またストーリーについてもメーソンのエジプト的な思想を反映して、エジプト神イシスとオシリス、すなわちエジプト人の太陽崇拝への賛歌を表している。一般には分からないように暗号化されては居ても、メーソンの秘儀を公に明らかにしてしまったモーツァルトが、メーソン上部のとがめを受けないはずがない。

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毒殺説の有名なもう一つの説は、イタリア人音楽家サリエリによる、モーツァルト毒殺説だろう。サリエリは当時のウィーンで最も著名な音楽家で、主席宮廷学士長だった。そしてモーツァルトを最大のライバルと認めていた男である。映画「アマデウス」の大ヒットで一躍有名になった。が、映画アマデウスはあくまでフィクションで最後のシーンにあるように「レクイエム」をサリエリが補筆したというような事実はない。レクイエムの補筆で有名な弟子、フランツ・クサヴァー・ジュースマイヤーで、真木洋三氏は、このジュースマイヤーこそ、モーツァルトを殺した真犯人だと主張している。モーツァルトとコンスタンツェの間の六子だとされる男の子は、フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルトと名づけられている。実はその子が生まれる10ヶ月間に、モーツァルトがバーデン(コンスタンツェが居た湯治場)に行った形跡はないのだ。それがジュースマイヤーの子であることを知っていたからこそ、モーツァルトは、フランツ・クサヴァーとこの子供に名づけたのではないだろうか。ジュースマイヤーは貴族から手渡されていたアクア・トファナというイタリアで開発された毒薬をモーツァルトが飲むビールに入れたのではないかという。アクア・トファナは白砒素と酸化鉛などの混合物で、肝臓の機能を低下させ、体にむくみが出る。相手に苦痛を与えないで、約半年後に死なせることができる毒薬である。しかしジュースマイヤーのほうも師を裏切って不義の子をつくり、あげくは師を死なせた罪深さにおののいたのか、モーツァルトの葬儀の後、行方をくらましている。それをコンスタンツェはやっとのことで突き止めて、補筆を依頼したのである。モーツァルトの死から2年後、シュトパハ伯爵は自分自身の作曲と銘売って、礼拝堂で「レクイエム」を演奏させた。その後、楽譜出版社にコンスタンツェが「レクイエム」の総譜を売りつけたため、モーツァルトの作品であることが判明したのである。ジュースマイヤーは沈黙を守り続け、モーツァルトの死から9年目の1800年2月8日、突如、「レクイエム」の後半のほとんどは自分の補作であることを楽譜出版社に訴え出た。

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モーツアルト「魔笛」とフリーメーソン暗殺説(世界史レッスン第72回)

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