わが友マキアヴェッリ 2/6 ~花の都フィレンツェ

1479年の12月も末ちかくなって、ロレンツォを乗せたガレー船はナポリに入港した。船を待ち構えていたのは、厳しい顔付の武装兵や役人の一団ではなかった。顔いっぱいに笑みをたたえたナポリ王フェランツォの次男フェデリーコだったのである。若年の王子はロレンツォとは旧知の中で、憧れに似た尊敬の念さえ抱いていた。学問や芸術に関心が深く、洗練された趣味の持ち主だった。ナポリ王フェランテは、この王子にナポリ滞在中のロレンツォの接待を命じたのである。だが、老獪なフェランテは簡単にはロレンツォに満足を与えなかった。ロレンツォも、ナポリ滞在の3ヶ月が過ぎようとする頃になると、人々の前では悠然と振舞っていても、1人になると沈んだ顔つきを隠せなかったようである。ロレンツォはもはや待ちきれないと公言して、ナポリ港を発つ。ロレンツォがリヴォオルノの港に下船した頃を見計らって彼に追いつき、ナポリ軍、対フィレンツェの戦線より離脱、という王の決心を伝える。フィレンツェの市民はロレンツォをまるで凱旋将軍のように迎えた。

だが思いもよらぬ不祥事が起こった。ナポリ王フェランテの長子でカレーブリア公と通称されたアルフォンソが、自ら指揮していたフィレンツェ攻略のナポリ軍を、父王の命に反して、フィレンツェ近郊から引き払おうとしないのである。いや、王には引き払うと伝えるのだが、実際にはトスカーナの野にとどまったままなのだ。フィレンツェ共和国領内深く入った既成事実を、簡単に放棄する気になれなかったのだろう。ロレンツォは、あくまで運の強い男である。天までロレンツォに味方するような、事件が勃発したのだった。1480年の7月、7000の兵を乗せたトルコ艦隊が、はじめて南イタリアに接近した。1453年のコンスタンティノーブル陥落以来、戦うところ敵無しの観で勢力拡張に邁進していたスルタン・マホメッド2世が、ビザンチン帝国を滅亡させたのは自分である以上、ビザンチン帝国の旧領土に対する主権も自分にあると言う理由で、400年前にさかのぼればビザンチン帝国領であった、南イタリア攻略を決意したのである。トルコ軍はオートラント近郊の海岸から上陸、8月11日、港町オートラントは、22000の住民の半分が殺されて陥落した。殺されなかったものは奴隷に売られた。これは南イタリアを領するナポリ王国にとっては一大事件だった。フィレンツェ近郊に居座り続けていたカラーブリア公も、それどころではなくなった。8月末、ナポリ軍全軍を率いて、急ぎオートラント奪回に南下したのである。ロレンツォはこの好機を逃す男ではない。ナポリ軍が引き払った後のフィレンツェ共和国を、傭兵隊を送って固めてしまったのである。トルコ軍襲来で目が覚めた想いであったのは、ナポリ王国だけではなかった。ローマの法王シスト4世も、フィレンツェ政府どころではなくなった。ロレンツォはこの好機を逃さなかった。ただちに、法王庁国家とフィレンツェ共和国の講和を法王に求めたのである。この時もロレンツォは、相手の「顔を立てる」ことを忘れなかった。異教徒のトルコの襲撃に際し、キリスト教国は団結して立ち向かわねばならず、その首領者は、ローマの法王をおいては無い、という大義名分を掲げたのである。これならば、法王も乗れる。

現代イタリアに、イタリア古文の現代語訳というものは存在しない。ために、私も日本人から500年も昔の史料を読むのは大変でしょう、と感心されるたびに、なんとも複雑な気分にさせられる。大変なのは中世風に変型したラテン語や、現代イタリア語とは相当に違うヴェネツィア方言の場合で、フィレンツェに関する限り、大変だなどと言ったらイタリアの小学生に笑われるからである。現代イタリアの標準語は、フィレンツェやシエナを中心とするトスカーナの、言ってみれば方言が、主体となってできている。ところが、このトスカーナ方言たるや、ダンテやボッカッチョやロレンツォやマキアヴェッリのおかげで、あの時代にすでに完成してしまっていて、それが今日まで引き継がれてきたというに過ぎない。もちろん、古めかしい言い回しというものは、相当にある。だが、それも、「注」をつければ解決する程度のものである。つまり、日本人が思い浮かべるたぐいの古文ではない。だから700年昔に書かれたダンテの『神曲』も現代語訳の必要は無いのである。地獄篇の冒頭の部分などは小学校4年生で暗記させられる。ロレンツォ・デ・メディチのかの有名な詩は、小学校5年で暗記なのだ。


『君主論』の中にロレンツォに言及した箇所は一箇所も無い。『君主論』は君主政を論じたものであるから、いかに事実上では君主でも共和政体をとっていたフィレンツェの「君主」では、論ずる対象になりえないというかもしれない。『政略論』は共和政を論じたものである。『政略論』の中でならば、ロレンツォの活躍場面は、あれほど『フィレンツェ史』の中で賞賛されている以上、多くあっても不思議ではないと想われる。ところが、これも違うのだ。『政略論』中、ロレンツォが登場してくるのは、5箇所だけである。それも、

第1は、ロレンツォの死の直後に教会の尖塔が雷光にうたれて落下したこと。
第2は、パッツィの陰謀の述べている箇所
第3は、これまた、パッツィの陰謀。
第4は、パッツィに関係してであり、
最後の5番目になってはじめて共和国の指導者らしいロレンツォが登場する。

なぜ君主論のモデルはロレンツォ・デ・メディチではいけなかったのか。ロレンツォの晩年に起こった少しばかりの公金横領に、マキアヴェッリが神経をとがらせたとは思えない。マキアヴェッリは君主に、モラルを求めてはいない。モラリスティックに振舞うほうが民衆操作に有効ならば、その振りをせよ、と言っているだけである。『君主論』のモデルは、チェーザレ・ボルジアであった。ロレンツォと比べれば、比較もできないくらい教養の低い、そのうえ、自己の野望実現しか考えなかった。しかし、力量(ヴイルトウ)と好運(フオルトウーナ)には恵まれていた、チェーザレ・ボルジアだったのである。なぜなのか。そしてそれさえわかれば、マキアヴェッリはわかったも同然だ。しかし、同じフィレンツェ人としてみれば、微笑なしには考えられないほど、ロレンツォとマキアヴェッリは似ていたと想う。

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