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「投機」と「投資」の違いとは?

正解は、投機とは「確率」にお金を投じること、投資とは「価値」にお金を投じることです。パチンコや競輪、競馬などのギャンブルへお金を投じるのは、確率に対してお金をかけている状態であり、一定の確率で勝ち、一定の確率で負けるようにできています。一方で投資とは価値にお金を投じるものです。価値には絶対的なものはなく、需要と供給にとって大きく変動します。需要が大きくなればなるほど、供給が小さくなればなるほど、価格の均衡点は高くなっていきます。

この説明でも良いですね。僕の説明では、

2013.04.04 投資・投機・ギャンブルの違いを述べよ

「投資・投機・ギャンブルの違いを述べよ。」と著者に問い詰めたくなる。正解はないが、どのように答えるかで、その人の考えやこだわりがわかる。私の考えでは、

投資とは、リスク・プレミアムを受ける行為、ギャンブルとは、リスク・プレミアムを払う行為。
投資とは、資産価格で認識する取引態度、投機とは、損益だけで認識する取引態度。

うーん、あんまり一般向けじゃないかなぁ、リスク・プレミアムって概念を当たり前に使っているあたりが…反省ですね。

残念ながら日本では職業としての社長業というものがなく、単にプロパー社員で一番出世した人や、親会社から天下ってきた人が社長になるシステムであるため、社長の能力が要求される基準に達していないことが多く見られます。このため、私は日本株に関しては社長と直接ミーティングをしない限り、その会社へ投資することは基本的にありません。これとは対照的に、米国の場合には社長業のプロがいます。会社の業績が悪化してくると、株主やその意向を受けた委員会がその状況に適したプロの社長を探し出して、組織の立て直しを図ります。プロ社長の前職は、業種業界が全く異なることもよくあることで、電子デバイスの会社の元社長が、百貨店のトップになったり、商社の社長がアパレル企業のトップになったりということが、日常的に起こっています。社長に求められるものは業界の専門的な知識では無く、イノベーティブな組織作りなどのソフト面にあるためです。

最近どうだろう。新浪さんとかソフトバンクの次期社長とか、あっ、あれインド人かw

tamatsuka.jpg

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そんな時期に、偶然に出会ったのが株式投資でした。2005年に、『ビッグマネー!~浮世の沙汰は株しだい~』(フジテレビ)という株をテーマにしてテレビドラマを観たのがきっかけで、僕は相場の世界に入りました。そのドラマを観るうちに、「世の中にはこんなに面白い世界があったのか!」と居ても立ってもいられなくなり、すぐさま証券会社に口座を開きました。その時、僕の手には、バイトで貯めた全財産の65万円が握りしめられていました。

このドラマ見た人いる? 酷いドラマでねぇ、見れば、製作スタッフに株を知っている人が一人もいないのがわかる。株価が、40円、60円、35円、16円みたいな瞬間瞬間で飛び飛びの値を取ったり・・・、一番ひどいのが衝撃のラストシーン、「1分前に筆頭株主になりました」って言って株主総会に乗り込んでくるという、あきれ果てて声も出ない。でも、それで「株やってみよう」なんて人もいたんだなぁ…。


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「コメ」という部署は、国税局資料調査課の隠語である。マルサと違い、一般人にはまだ知られていない。資料の「料」と調査課の「調」をとって「リョウチョウ」とも呼ばれているが、税理士などを含めた税務の分野ではすでに知られた言葉で、隠語としての価値はなくなった。それで「料」のヘンを指して「コメ」と呼ぶようになったのだ。コメは、マルサとは違いタマリが無くても調査を実行する。蓄積されたデータをもとに調査対象者を選定し、令状なしで(むろん、納税者による承諾の明示が必要とされるが)隅から隅まで調査する部隊である。大型事案では100人を投入することもある。

強制捜査より怖い任意調査

世間ではマルサが税務当局における最強部隊のように認識されているが、徴税に関してはコメのほうが圧倒的に怖い存在である。コメは1週間に一事案を基本に調査を企画・実施しており、増差所得(調査によって把握した所得)、調査件数ともに、職員一人当たりの効果測定はコメが圧倒している。マルサの調査事績は国税庁により公表されているが、2012年度に告発したのは117億円。人員が約300人とすると、一人当たり増差所得は3900万円にすぎない。コメの調査事績は税務署の調査事績の中に混在しており、具体的な数字はベールに包まれているが、一人当たりの増差所得は5億円は下らないだろう。追徴本税に換算すると年間2億円程度になり、マルサの5倍以上だ。マルサとコメとの大きな違いは調査の性格にある。すなわち「強制捜査」と「任意調査」の違いだ。マルサは内偵の結果、「タマリ」と呼ばれる不正計算の裏付け(過少申告した利益に対応する預金、有価証券、不動産など)があった案件しか調査できない。つまり答えがわかっている案件しか調査できないのである。

マルサの「強制」は、国税犯則取締法という法律に基づいて裁判所から令状を取るという後ろ盾があることによるが、コメは令状が無くても調査が可能。しかも「任意調査」は強制調査に対する対義語なだけで、法律上は、納税者には質問に答えたり調査に応じなければならない義務がある。コメは、国税通則法に定められている「質問検査権」という権限に基づいて調査する。質問や検査にあたって、相手方の「明示の承諾」があれば、書類やその他の物件を調査することができる。財政と治安は国の根幹であり、税収は財政にとって非常に重要なものである。調査を受けずにのらりくらりといなされては困るので、調査官が持つ質問検査権はかなり強力になっている。拒否したり、虚偽の回答をした場合には、懲役1年以下などの懲罰規定も定められている。つまり、間接的に強制しているので、「間接強制調査」といわれる場合もある。任意という言葉尻をとって軽く考えている人もいるが、その点は気を付けておくべきだ。質問検査証には、権利が及ぶ範囲が明記されている。例えば京橋税務署と明記されていれば、京橋税務署の管轄しか調査はできない。しかし、コメは、東京国税局長が質問検査証を発行するので、84すべての税務署の管轄エリアを調査できる権限を持っている。税目についても同じだ。例えば税務署の個人課税部門の場合、所得税調査が業務となるので、質問検査権は所得税法に関する調査に限定される。つまり、法人を直接調査することはできない。取引相手を調査する反面調査はできるが、その法人自体を調査対象とすることができない。ところがコメの場合には全税目に対して調査できる権限を与えられているのだ。

世に出ている節税本などに書かれていることを実践しても、大した節税にはならない。極端な利益の低調は、かなり怪しいと感じる。脱税は論外としても、過少申告の動機は限られている。来期以降の不況対策、株主対策、予算・決算を重視する企業においては、事業部の実績捜査のために行われるのが一般的だ。無理な利益調整を行うと、売り上げの伸びと申告所得の伸びに歪が生じる。歪みのある企業に行けば追徴ができ、調査官の成績に加点されるので、優先して選定されるわけである。利益を圧縮する方法は、実はいくつもない。売り上げを減らす。売上原価や経費の水増し、架空経費を作る。それに棚卸資産を減らすという大きく3つほどだ。水増し発注の場合は、協力者が必要になる。本当は1000万円の支払いなのに、3000万円支払ったことにして、2000万円戻してもらうといったように、だ。しかし、調査が入った場合、発注先に迷惑をかけてしまう。ところが棚卸の過少申告は自社だけで完結できる。しかも、棚卸を減らした伝票を入れるだけなので簡単。一度手を付けられたらやめられないわけだ。

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ナイスディール

ま、うん・・・一応読んだけど、折り目わずかに2ページだけだった。

蒔田雄一郎がCEOを務めるスパイスクルーズは、インターネット関連のいくつかのお事業に加えて、企業の独立支援をビジネスの柱にしていた。企業に出資して再生支援を行うという点では再生ファンドのような位置づけと言えるが、特徴的なのは労働組合への接点を通じて企業へアプローチする点にあった。蒔田はこれからの企業に経営者はいらないといった。株主はもはや企業経営上の需要な利害関係者ではない。彼らは結局のところ、従業員の利益を損なうことでしか存在しない。企業は従業員のためにこそ最大の貢献をするべきであり、そのために従業員の代表を取締役にすべきである。

この手の小説は読まない方がいいんだけど、冷やかし半分の気持ちで読むと毎度、違和感を覚える点をいくつか。

1.バイサイドとセルサイドの区別がついていない。

バイサイドは個人投資家と同じ、つまり、リスクを取る=株を持つこと、どんな会社かとか収益性が議論の中心だが、セルサイドの話なら、リスクを消すこと、発生したポジションは消すものであって、持ち続けることは無い。もちろん、一時的にとはいえ、保有するから、どんな会社なのかを、全く無視することは無いだろうが、それよりも、誰が売っているのか、誰に売るのか、誰が持っているのか、ということが中心のはずだ。

2.ビジネスに絡む女性が「不自然に」登場する。

そういうロマンスは無い。男しか登場しない。以上。

3.所詮は「村」の話なのに、世界の中心かのような表現

日本市場でも、株は比較的、世界展開できていると思うが、株でもエクイティのデリバティブ、JGB、そしてこの小説で扱っている社債市場に行くにしたがって強度の村社会。市場参加者が非常に限られている小さな小さな世界の話。どのくらい小さいかというと、JGBは発行総額・残高という意味での市場規模はめちゃくちゃデカいのに、誰も見てない。当座預金金利マイナス導入以前の、量的緩和以降、短期の国債はずっとマイナスだったのに、その時は誰も何も言わず、黒田さんの「マイナス金利導入」という単語にのみ、異様に反応していることからもわかるだろう?

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明るみに出た虐殺の実態

1996年10月以降に行われた殺戮及び残虐行為には、ザイール国軍(FAZ)と傭兵、旧ルワンダ政府軍(FAR)と難民キャンプ出身の民兵、そしてカビラが率いるAFDLとルワンダ政府軍(RPA)という、三つの集団がかかわっていた。殺戮や残虐行為の内容や規模は集団によって大きく異なっていた。AFDL部隊および同盟を組むRPAは、民間人や難民に対し大規模な殺戮を行った。AFDLの行った殺戮と残虐行為にRPAも関与していたことが明らかになると、アメリカ政府は立場を変えざるを得なくなった。忘れてはならないのは、アメリカはフツ系難民が多数を占めるザイールの難民キャンプに人道援助を行う一方、RPAと南キヴのツチ系バニャムレンゲの軍事訓練や軍事支援にも手を貸していたという事実である。アメリカ軍による軍事訓練がRPAとAFDLの軍事能力を高めており、もはや暗黙の政治支援や軽度の治安維持支援の域をはるかに超えていると広く思われていた。人道的な地雷除去と訓練プログラムを隠れ蓑に、より積極的な軍事支援が行われていたと考えられていた。

RPAの関与について国際的な監査が進むにつれ、アメリカの政治・経済・軍事面での支援が問題になった。アメリカはルワンダ政府を支持したが、これはカビラ率いるAFDLを支援したことになるだろうか?下院公聴会でのクリストファー・スミス下院議員の質問や、「人権のための医師団」の証言に対して、アメリカ政府はルワンダへの軍事支援の重要性を否定しようとした。人権問題調査チームがカビラによる妨害や活動の制限によって、任務遂行上の困難に直面すると、アメリカは調査に賛成し、これまでに行われた大虐殺の責任を追及する、という立場を取り始めた。

アフガン難民

1970年代末から23年間、アフガニスタンはずっと戦場であった。国際社会がこの国の平和と安定を確かなものとするためにようやく支援に乗り出したのは21世紀になってからで、アメリカを襲った同時多発テロの余波のさなかであった。アフガニスタンから膨大な数の難民が流出する事態を引き起こした様々な紛争は国内問題に起因するが、外国の介入が国内紛争を一段と激化させた。米ソ両超大国の冷戦対立はムジャヒディーン(イスラム聖戦士の意)などのイスラム抵抗勢力による熾烈な武装闘争に火をつけた。ソ連軍はムジャヒディーンの激しい抵抗にあい、撤退するとアメリカはアフガニスタンに対する関心を失っていった。タリバーン勢力の台頭は一部の地域を平定したが、厳格で抑圧的な統制を強めたため、国民生活は悪化の一途をたどった。また、タリバーンの支配はアフガニスタン周辺諸国の関与を強めることになった。なかでもとくにパキスタンはタリバーンを支援することで影響力を著しく強めていったのである。

終わりの見えない戦争の惨禍と、泥沼化したアフガン問題を解決しようとする国際社会の関心は薄れてゆき、アフガン国民は苦難の中に取り残されていった。1978年に共産党が政権を掌握するとアフガン国民は国を離れはじめ、1979年末のソ連軍の軍事侵攻後には大規模な難民流出が起きた。推定では1年間に630万人が周辺諸国へのがれ、そのうちパキスタンには330万人、イランには300万人が避難した。ソ連軍が撤退を開始した1989年2月から91年末までに、およそ30万から40万人の難民が故国に帰還した。その後、92年4月にカブールの共産主義政権が崩壊すると、最多の難民がいち早く本国に帰還、その数はパキスタンから120万人、イランからは20万人に達した。その後も期間は続いたものの人数は減少していった。96年9月にカブールが陥落し、タリバーン勢力が政権の座につくと、新たに5万人の難民が生じた。そのうち80%はカブール出身者であり、さらに30万人の国内避難民がアフガン北部と東部の戦闘から逃れていった。アフガン難民が置かれた状況はパキスタンとイランでは大きく異なっていた。パキスタンに逃れた難民の多くはパシュトゥン族で、この民族が多く住む地域を中心に非難した。難民の3/4は女性と子供で、ソ連と共産主義の信仰の犠牲者を対象にした豊富な資金源のお陰で、国際機関や数多くのNGOが提供する十分な医療・教育支援を受けていた。それとは対照的に、イランに逃れた難民は、タジク人、ウズベク人、ペルシャ語を話すシーア派のハザラ族で、そのうち60%は成人男子であり、イランの労働力を担っていた。イランに滞留した難民に対する国際援助は非常に限られたものであった。1979年のイスラム革命以降、イランの新イスラム政権と西側諸国は緊張関係にあったからである。

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第三章 アフリカ大湖地域における危機

アフリカ中部の極小国ブルンジとルワンダは、2つの大国、ザイール(現コンゴ民主共和国)とタンザニアに挟まれた内陸国である。

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> この地図上の位置だけで、海を奪われた大国の緩衝地帯。悲惨の運命が待っていそうな予感がする。

国土のほとんどは丘陵地で、人口密度は高い。人々は同じ言語を使い、文化を共有しながらも異なる部族、とりわけフツ族とツチ族の二大集団によって構成されている。旧宗主国はツチ族の長を通じて間接統治を行っていた。しかしながら、独立が近付くにつれて、多数派のフツ族は旧来の統治方法に対してますます挑戦的になり、政治的・社会的地位や権力を要求するようになっていった。1961年にフツ族が弾圧的な共和制を樹立すると、おびただしい数のツチ系住民が周辺諸国へ逃避した。1960年代初頭までに、ルワンダから15万人がザイール、ブルンジ、ウガンダ、タンザニアに流出した。1990年の時点でもなお難民だと名乗る人は、概数で60万から70万人にものぼっていた。難民に加え、多数のルワンダ人が、隣接するザイール東部のキヴ地方に移住した。

国内はフツ系とツチ系に分断され、深刻な政治的対立が続いていた。政権の座に就いたのはフツ族であったが、軍を掌握していたのツチ族であった。1993年10月21日にブルンジ政府軍がクーデターを起こし、ンダダイエ大統領が暗殺されると全土に暴動が広がり、5万人を超えるフツ系住民が殺害されたうえ、70万人を超える難民がルワンダ、タンザニア、ザイールへ流出した。

ジェノサイドと難民の避難

ルワンダでジェノサイドが起きると、フツ系住民は大部分が周辺諸国に逃れた。最初の集団は1994年4月末に国境を越えてタンザニアに流入した。その数は25万人にのぼったがUNHCRはこれには何とか対応することができた。難民の多くはキブンゴ州のフツ系農民であったが彼らは殺戮から逃れてきたのではなく、かつてルワンダ東部で起きたツチ系住民の殺害に関与していたため、ルワンダ愛国戦線(RPF)部隊が到着する前に脱出してきたのである。そのなかには、かの悪名高いムランビ市長であるジャン・バプティスト・ガテテが紛れ込んでいた。彼はかつてルワンダで起きた大量殺戮の首謀者であった。UNHCRはこの人物をベナコ難民キャンプからタンザニア警察の拘留所に移送しようとしたが、大きな抵抗にあった。5000人ほどの群衆がキャンプを取り囲み、ガテテの釈放を要求したのである。この暴動事件は難民集団の複雑な性格を示すもので、難民は大部分が、RPFの到着を阻止するために政治行動や犯罪鋼を犯した集団に属していた。この時代は、現場で活動する人道援助要員の安全を確保するにも、難民の活動を抑えるにもタンザニア警察の能力には限界があることを示すものであった。

> 虐殺加担した後で逃げた人は、果たして「難民」なのか?

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1993年2月17、私は声明文を発表、「通行妨害を受けている輸送体を基地に戻し、セルビア人勢力支配化のボスニアにおけるすべての救援活動を直ちに停止する。サラエヴォにおけるUNHCRの活動を全面的に一時停止し、包囲下にあるこの38万人都市には最小限の要員だけを残し、ほとんどの職員を引き揚げる。サラエヴォへの物資輸送及び空輸を一時停止する。UNHCRの活動が継続できるボスニアの地域ではUNHCRの救援事業を規模を縮小して維持する」「政治指導者側が援助の再開を要望し、輸送体の通行を妨害しないと保証するなら、即座に再開する」

メディアの論評は、私が決定を下す前に事務総長と協議すべきだったとするニューヨークの外交官や国連職員の批判的な見方を反映したものであった。「事務総長と事前協議せずにボスニアにおける援助活動を『現地での活動上の理由で』一時停止するという、昨日のあなたの声明を懸念している


> 安全地域を設置することによる将来の領土分割への影響

安全地域政策の矛盾

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私を最も驚かせたのは、オルブライト米国連大使が、安全地域はボスニア共和国領土の基礎となると言及した、次の発言であった。「領土が無い国家は無い。こうした安全地域の設置を通して我々が試みようとしていることは、これらの安全地域をいずれはボスニア国家となる地域として確立することである」。ボスニア紛争の人道問題に没頭していた私は、安全地域をこのような意味で見たことは無かった。領土問題は和平協議にとって重要であることは理解していた。しかし、人の命はどうなるのであろう?

安全地域政策は軍事作成上の位置づけであると同時に、対立する政治的利害の産物でもあった。戦争犠牲者を保護する人道的手段としては、政治的かつ軍事的打算と決定に左右されるものであった。ボスニア政府とその支援者にとって、安全地域は来たるべきボスニア国家の領土分割を軸とした政治解決の担保にするものであった。またボスニア政府にとっては、セルビア軍の陣地へ向けて発砲する場所でもあり、自国の軍隊が休息し、訓練し、装備する場所でもあった。セルビア側は安全地域をボスニア東部を支配下におさめるために制圧すべき軍事攻撃の対象と考えた。

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クルド難民

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UNHCR内には、難民が逃れ出た敵意に満ちたイラク国内にまで難民保護の範囲を拡大することに、深刻な懸念があった。また、庇護の代替として安全地域を設けることに強く反対する者もいた。さらにイラク国内における我々の活動拠点の存在が、周辺諸国に難民の庇護を拒否する口実に使われることが心配された。こうした前例ができてしまうと、UNHCRの基本的な難民保護のマンデート、すなわち本来の任務に弊害をもたらすかもしれない。しかも多国籍軍諸国が採択した緊急措置に異を唱えることはそもそも難民保護と援助を目的に設立されたUNHCRが、その任務を自ら否定する結果にもなりかねなかった。UNHCRは自国の外にあって、人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること、または政治的意見を理由に迫害を受けるという十分に理由のある恐怖を有するために、自国へ帰還できない人々を保護し援助する任務と権限を与えられていた。つまり、自国内で住んでいる所から追われた人々は法的に定義された、国際的な難民保護の枠組みの外にあると理解されていた。各国は迫害される恐れがある状況下に難民を送還してはならないとする義務はあるが、庇護を与えることを強制されるものではなかった。クルド難民問題は、UNHCRの難民保護の任務にとって、厳しい試金石となったのである。国境内では任務を行使しないという報的命令を守り、越境を阻止されている人々への援助を控えるべきなのか、それとも、より現実的な人道的立場から、できる限り援助の手を広げるべきなのか? 難民支援をトルコ側から行うとすれば、トルコから国境を越えて難民を平地へ移さなければならない。ところが、地形的に平地はイラク側に広がっていた。イラク北部に安全地域を設けるという構想は、犠牲となった特定の民族集団のために、紛争に介入するという先例となった

> 国連同様「国内問題」では動けず、「国際問題」である必要がある。


第二章 バルカン紛争における難民の保護

> 物資の輸送と護衛。護衛は軍事介入?

空輸機撃墜の衝撃

空輸はサラエヴォ市民に不可欠の救援物資を運んだが、食糧、多目的ビニールシート、毛布といった生活必需品の配布から次第に都市の暮らしを便利にするものやサービスの提供へと拡大していった。例えば、郵便の輸送、新聞用紙の輸入、政府要人の輸送、そして病人や負傷者の避難も請け負った。陸上輸送隊もディーゼル油、薪、石炭などの燃料を運搬した。サラエヴォ市民はUNHCRを頼りにし、特に空輸は、国際社会がサラエヴォを忘れず、見殺しにしないというメッセージであると受け取っていた。

しかしながら一方で、メンデルーチェ特使は我々が直面している本質的な問題を私に警告した。「UNHCRはボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォを統治・管理できないことをはっきりと公言すべきです…。サラエヴォの生命維持の問題は単なる救援問題ではありません。ある勢力は他の勢力の支配地域に救援物資が運び込まれるのを見たくないという理由で、輸送を阻止しているのが現実です

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1991年2月から2000年12月までの10年間、私は国連難民高等弁務官として世界の難民と救済に専念した。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に求められたのは、難民や国内避難民、さらに被災民まで網羅した人道救援活動を主導し、かつ調整する役割を担うことであった。

世界の辺境にあって難民の救済にあっていた私およびUNHCR職員一同に対する日本の支援に心からの謝意を表したい。財政的には、日本政府は任意拠出によって賄われている事業経費において、アメリカに次ぐ第二の大口拠出国(ドナー国)となっている。外務省は高等弁務官の補佐官として優れた幹部職員を次々と派遣し、密接な協力を続けた。また、環境庁は、難民キャンプの設営に伴う大規模な環境破壊の防止と復旧をはかりたいという私の要請に応え、三代にわたって有能な技官・行政官を派遣し、事務所の環境対策の確立に大きく貢献した。

とはいえ、難民支援活動の中で、今一つ積極的な進展が見られなかったのは、庇護を求めて来日する難民への対応である。インドシナ難民の受け入れに当たっては日本政府は1万人の枠を設け、東南アジアに出向いて日本への受け入れをはかったこともあったが、その後、個々に来日して庇護を求める人々に対する条約の適用に当たっては、人道的配慮に基づく制度の透明な運営がいまだに確立されておらず、まだ満足すべき成果を収めるに至っていない。UNHCRに赴任する際、「日本は『人道大国』としての地位を占めてほしい」と私が語ったことが伝えられている。グローバル化が進み、相互依存が深まる今日、自分の村、町、あるいは国から追われ、悲惨な状況にある人々を放置し続けることはできない。

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日本人の宗教意識-統計に見る奇妙な結果

1988年の日本の諸宗教の信者数である。
神道系 111,791,562
仏教系  93,109,006
キリスト教系 1,422,858
諸教 11,377,217
計 217,700,643
(文化庁「宗教年鑑」平成元年版による)

だがよく見ると、この数字はどこかおかしい。信者数の統計を見ると、2億を越している。そこでもう一つ別の統計を見ていただきたい。これは世論調査から出された数値である。

                日本 アメリカ
信仰を持っている人    33% 93%
信仰を持っていない人  65% 7%
(NHK「日本人の宗教意識」 日本放送出版協会1984)

信仰を持っている日本人は1/3にすぎず、アメリカと比べてみるとまさに無信仰の国と言ってよいほどである。

どうしてこのような奇妙な結果が出るのであろうか。どうやら最大の問題は信者数における神道系の数字にありそうだということは推測できる。神道系のうち、8639万人は神社本庁の信者ということになっているから、これは戦前の国家神道以来の氏神-氏子関係が持ち越されているのではないだろうか。本人の知らないうちに信者に組み込まれているとすれば、いささか恐ろしい気もする。仏教の場合、信者数の統計では9000万を超え、総人口の8割に迫る信者数を持ちながら自覚的な信者は27%にしか達しないところをみるとやはりその食い違いが気になる。信者数の統計には檀那寺と檀家の関係が持ち込まれていると思われる。

そもそも日本の仏教というのは学問的にはなかなか扱いにくい領域です。まず何よりも非常に多面的であり、かつ現代でも生きた宗教ということがあります。例えば、インドの仏教を考えてみますと、確かに仏教発祥の地であり、数多くの仏典もインド起源ですから、仏教の研究をする場合、つねにインドの仏教をおさえておかなければなりません。私たちの研究室では、日本の仏教の研究を専攻する人でも、まずインドのサンスクリット語の習得が義務付けられています

> インド哲学、俗に言う「印哲学科」か…。人気のない学科ということで名前だけは聞いたことがあったのだが、なかなか面白そうな学科じゃないか。

数理研究を進めていていつも行き当たるのは、日本の仏教は数理面の研究だけではごく一部しか解明できないという実態です。葬式仏教と言われるような仏教の実態、あるいは民衆の中に溶け込んだ様々な行事や風習などは、数理的な説明があったとしても建前にすぎず、むしろ日本人の生活習俗が仏教の形を取って現れたという面も少なくありません。例えば、古代の仏教の実態を知るのには、南都六宗の学問仏教も重要ですが、それはしょせん一部のエリート層の営みであり、大多数の民衆とは無関係です。民衆の間で信じられていた仏教の実態は、例えば「日本霊異記」などを読んだほうがよほど生き生きと描かれています。それゆえ、日本の仏教の実態を明らかにするためには、数理や歴史資料のみならず、文学やさらに仏像などの美術の分野も不可欠になります。

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