人生設計 一覧

軍需会社と反プロイセンの気分

普通の小人物にとって、元来ベルリンに本社を持っている軍需会社は、ベルリンと同一であり、ベルリン自体がプロイセンと同じであることを意味したからである。この軍需会社と称する強奪財団を組織しているものはベルリン人でもプロイセン人でもなく、しかもドイツ人でさえなかったが、このことが当人各自にはほとんどわかっていなかった。ユダヤ人は既にその頃、自分が軍需会社という仮面のもとに、ドイツ民族に対して組織した恥ずべき略奪行為が抵抗を招くだろう、むしろ招くに違いない、ということがわからないほどバカではなかった。バイエルンはプロイセンに対して、プロイセンはバイエルンに対して争っておればよい。やればやるだけよいのだ! 両者のこの上もなく激しい闘争がユダヤ人のためには最も安全な平和を意味した。一般の注意はそれによって完全に国際的な民族なウジを忘れてしまったように思えた -そしてその上思慮ある分子、こういう分子がバイエルンにもたくさん居たのだが-が、見通しや内省や自制をするよう注意し、それによって強烈な闘争を和らげるように迫る危険が現れるように思えると、ベルリンのユダヤ人は新たに挑発を押し出し、その結果を待っていさえすればよかった。ユダヤ人が当時個々のドイツ種族をたえず没頭させ、注意をそらさせて、その間にますます徹底的に巻き上げるためにしたことは巧妙な狡猾な演技であった。

>ポルシェは気に入られていたはずだから、この叩かれているのはヘンシェル社かな?

国際的ユダヤ人クルト・アイスナーが、バイエルンをプロイセンと争わせる先手となり始めた。よりによって、インチキ新聞記者として絶えずドイツ中をあちこちと走り回っていたこの近東人が、バイエルンの利益を守るために最も不適任であることや、だがまさしくこの男にはバイエルンが、どうでもよいところだったぐらいのことは、わかりきっていたのである。

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オーストリアとプロイセン

我々は歴史に中に次のようなことを見る。すなわち、かつてドイツ問題の解決のために取ることができた二つの道-そしてその主な代表者であり主張者であったものは、オーストリアとプロイセン、ハープスブルグ家とホーエンツォレルン家であったが-は多くの人の考えによればもともとひとまとめにされねばならなかった。彼らの考えによれば、両方の道を一つに結合した力に託すべきだったのだ。けれどもオーストリアの意図は決してドイツ帝国を建設することにはなかったはずである。そしてこの上も無く強力なドイツ統一の帝国は、まさしく幾百万のドイツ人が断腸の思いで、我が兄弟牆にあいせめぐ最後の、この上なく恐ろしい徴表を感じたことから成立したのである。すなわちドイツ皇帝の冠は、本当はケーニヒグレッツの戦場(普墺戦争)から得られたものであって、後世考えるようなパリ全面の戦い(普仏戦争)において得られたものではないのだ。
 そのようにドイツ帝国の建設それ自体は何かある共通の意図が共通の道を進んだ結果ではなく、むしろ意識的な、しばしばまたヘゲモニーを求める無意識的な格闘の結果であり、その格闘から最後にプロイセンが勝者として登場したのだった。200年前には後日新ドイツ帝国の胚細胞となり、建設者、教師となるものはホーエンツォレルン家のプロイセンであり、ハープスルブルクではないだろうということを、ドイツ連邦のうちで誰かがはっきり本気に信じていただろうか!

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前線の兵士に対する恐怖

1918年11月7日以後に突然、革命の製造者として我々の前に現れたあの大きな犯罪者的組織を作る手助けをした。前線自体は、本来それとまったく無関係であった。もちろん前線にいるものたちはみんな平和への憧れだけは感じていた。だがこの事実こそ、革命にとっても非常な危険があったのだ。というのは、休戦後ドイツ軍が故国に近づき始めたとき、当時の革命家たちにとって心配な問題が常に唯一つあった。すなわち前線部隊は何をするだろう!野戦に居た兵士はこれを許すだろうか。ドイツの革命は、若干のドイツ混成軍団によって突然電光石火のように打ちのめされるという危険を犯したくなかったとき、この数週間に少なくとも外見的にはやわらげられたように思えたのだった。というのは、当時、ただ一人の軍団長が、自分に忠誠を尽くしている軍団でもって赤のボロぎれを引きずりおろし、「評議会」を窮地におとしいれ、万一抵抗した時には迫撃砲や手榴弾で打ち破る決心をしたならば、この混成軍団は4週間足らずに60個軍団の軍隊にふくれあがったであろうからだ。ユダヤの張本人は、他の何者にもましてそれを恐れたのだ。そしてこれを阻止するためにこそ、革命にある手心を加えねばならなかった。革命はボルシェヴィズムに堕してはならず、事態に即応して「安寧秩序」を見せかけねばならなかった。共和国を旧官吏の手から奪い、革命というハゲタカの鉤爪にあえて引き渡したのだ。そうしてのみ人々は、旧将軍や旧官吏をペテンにかけ、彼らから起こるかもしれない反抗を新しい状態の見せかけの無害さと平穏さによって、はじめから敵対心をくじくことを望みえたのだった。

1918年の11月革命の革命政府を、前線の軍部にいたヒトラーはかなり歯がゆい思いで見ていたようだ。この恨み節は、わが闘争の中で数回出てくる。革命後新政府、軍の最高司令官の変更、旧政府軍と革命新政府軍への微妙な移管時期。主戦力が前線で戦う中で、わずかな武装勢力が中央政府を打ち倒して新政府を樹立し、旧政府軍を反乱軍扱いしたとしたら、その恨み骨髄だろう

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演説は書物より影響が大きい

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書物はどのような手に落ちるかわからないのでに、一定の表現を保持しなければならない。この表現がその読者たるものの精神的水準や本質的性質にぴったり応ずれば応ずるほど、一般にその効果はますます大きいのである。だから大衆を目的として書物ははじめから文体と程度において、より高度の知識層を目的とした著作物とは異なった効果があるようにせねばならない。演説家は書物と同じテーマをかまわずに取り扱うことができる。けれども彼が偉大な天才的な民衆の演説家であるならば、同じ主題や同じ題材を二度と同じ形式で繰り返さないであろう。

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人種の純粋な辺境植民地

そこに達するための道はまず第一に国家が獲得した新しい土地の植民を放任しておかず、特別の基準にゆだねることになる。このために専門に作られた人種委員会が、個々人に移民証明書を発行すべきである。しかしこれはある人種上の純粋さを確定したものでなければならない。そのようにだんだんと最も人種的に純粋で、したがって人種的に最も有能な担い手ばかりの住民がいる辺境植民地の基礎が作られているのである。それとともに彼らは全民族の尊い国民的財宝となり、彼らの成長は民族同胞の一人一人を誇りと喜ばしい期待でみたすに違いない。とにかく彼らの中にわが民族のむしろ人類の将来の最後の大発展の萌芽が保護されて存在しているのだ。民族主義的世界観は、民族主義国家において人間がこれ以上犬や馬や猫を飼育向上させることに熱中せず、人間自身を向上させるようなより尊ぶべき時代、すなわちあるものは自覚して黙って断念し、他のものは喜んで身をささげて子供を作る、という時代に到達するに違いない。幾十万の人々が教会の戒律に縛られ、それを義務と考えて、自発的に独身に耐えているような世界でも、こういうことが可能であることは否定できないのである。そういう戒律の代わりに、絶え間なく行われる人種を毒する遺伝的罪悪を阻止すべし、そして全能の造物主のために、神が人間を創りたもうたように人間を生むべし、という警告を発するならば、子供を作ることを断念することは不可能となるに違いないだろう?


日本にはここ最近、草食系男子や童貞をこじらせているという民族が居るらしいが、日本民族の向上のために自発的に生殖を断念しているのだろうか? 生殖の制限など非現実的だと嘲笑すると、ヒトラーは次のように反論してくる w


ドイツ青年への呼びかけ もちろん、このことは今日の憐れむべき大勢の俗物どもには決して理解できないだろう。彼らはこれを嘲笑するか、斜めに肩をすぼめ、長い逃口上でうめき声を出すだろう。「それはそれ自体まことに結構だ。だが実際にできないだろう!」と。なるほどお前は唯一つだけ心配がある。つまりお前たち個人の生活だ。そしてお前たちには唯一つの神がある。つまりお前たちの金だ!だが我々はお前たちに用は無い。自分たちの個人的生活をこの世の最高の幸福と考えるためにはあまりに貧しすぎる多くの人々、自分たちの生存を支配しているものを金とは考えずに、他の神を信じている大勢の人々に向かうのだ。我々は何よりもまず、力強い大勢のわがドイツ青年に呼びかける。彼らは偉大な転換期の中で成長しており、彼らの父たちの怠惰と無関心が犯した罪に彼ら自身で挑戦するのだ。ドイツ青年はいつか新しい民主主義国家の建設主になるか、最後の目撃者として、ブルジョア社会の完全な崩壊、終末を体験するかであろう。


自信の暗示力

根本から臆病に生まれついた人間は教育によって勇気あるものになしがたいのは確かである。だが臆病な人間が、彼の受けた教育の欠陥によって、身体的な力と強靭さにおいて、もともと他のものに劣っている場合、彼の特性を伸ばしてやることができないのもまた確かである。体が丈夫だという確信があると、どんなに自己の勇気が助長され、そのうえ攻撃精神がわいてくるかは、軍隊を見れば一番よくわかる。軍隊にはももともと英雄ばかりいたわけではなく、普通の平均の人間が居たのだ。今日、崩壊して他国の人々の蹂躙にゆだねられ、横たえているわがドイツ民族こそ、自信の中にあるあの暗示力を必要とするのだ。だがこの自身は既に子供の時から若い同胞に引き入れられねばならない。すべての若い同胞の教育や訓練は全体に、自分たちが他のものより絶対に勝っているのだという確信を与えるようにはからねばならない。若い同胞は自分の身体的な力や強靭さにおいて、民族全体が無敵であるという信念を再び獲得せねばならない。というのはドイツ軍をかつて勝負に導いたものは、各々の個人は自分自身に対し、全体として彼らの指導部に対して持っていた信頼の総和であったからだ。ドイツ民族を再び高めたものは、自由を再び獲得しうるという確信である。だが、この確信は幾百万のものが一人ひとり同じように感じた結論としてのみありうるのである。

歴史教育の原則

特に従来の歴史教育の教授法の改革が企図されねばならない。ドイツ民族ほど歴史をたくさん学ぶ民族は無いかもしれない。だがわれわれほど歴史をうまく利用していない民族も無いだろう。もし政治が生成中の歴史であるならば、さらに我々の歴史教育は我々の政治活動のやり方で方向が決まるのである。最も重要なことは大きな発展の流れを認識することにある。人々は単に過去にあったことを知るために、歴史を学ぶのではなく、歴史の中に将来のため、自分の民族の存続のために指針を得るために歴史を学ぶのだからである。根本的な歴史研究は個々の日付を全て覚えることが必要でそれによってこそ大きな流れをはっきりとつかみうるからだ、といってはいけない。これを確定することは専門科学の課題である。だが普通の平凡な人間は歴史学の教授ではない。彼らにとっては歴史というものは、まず第一に自分の民族の政治事件に対して自分の態度を決定するのに必要な歴史的洞察の尺度を与えるためにあるのだ。さらに人種問題が主要な問題として取り扱われるような世界史が最後に書かれるよう配慮することは、民族主義国家の課題なのである。

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歴史教育は、自国民の自虐的歴史観の創生のためではなく、民族としての誇りと自信、国民意識の覚醒のためになされるべきである。サッチャーの教育改革もしかり、現代日本の教育がこのように改革されることによって害をこうむる国家が、その教育改革に神経を尖らせて干渉してくるのも理解できなくはない。


最良の憲法と国家形式は、民族共同体の最良の頭脳を持った人物を、最も自然に確実に、指導的重要性と指導的影響力をもった地位につけるものである。だが経済生活において有能な人間は、上から決めるべきものではなく、自ら闘って地歩を占めるべきものであるように、ここでも最小の商業から最大の企業に至るまで不断の修練を与え、さらに生活がその時々の試験を引き受けるように、もちろん政治的頭脳の持ち主もまた突然に発見されるものではない。ずば抜けた天才の場合は普通の人間と話が違う。国家はその組織において、地方自治体という最小の細胞から始まって、全ドイツ国の最高の指導部に至るまで、人格原理に根拠を持たねばならない。多数決は無く、ただ責任ある人物だけがある。そして「ラート」(助言、協議、相談)という言葉は、再びその本来の意味に戻される。もちろん全ての人々には、相談相手というものはある。だが決定は一人の人間だけが下すのである。かつてプロイセン軍をドイツ民族の最も驚嘆すべき武器たらしめた原則が意味を転用して将来我々の国家間全体を建設する根本原則であらねばならない。すなわち全指導者の権威は下へ、そして責任は上へ、である。さらにまた人々は今日議会と呼んでいるこの団体を無しで済ますこともできないだろう。だが議会の助言は実際に助言するだけになって、責任は常にただ一人の担い手だけが負うことができるし、また負わせてよい。民主主義国家は、地方自治体から始まってドイツ国指導部に至るまで、多数決によって決めるような代議制はなく、ただその時々の選ばれた指導者に助言し、指導者から仕事を分担させられるような協議会だけがあるのだ。それはその必要に応じて何か特定の領域においては、ちょうど大きな領域の場合その時々の団体自体の指導者や長が持っていると同じような絶対的責任を引き受けるためにあるのである。

世界観は不寛容たるべし キリスト教も自分の祭壇を作るだけでは満足できず、必然的に異教徒の祭壇を破壊するまでに進展せざるをえなかった。こういう狂信的な不寛容さからのみ疑いを入れぬ信仰を形成することができたのであり、しかもこの不寛容さがキリスト教のための絶対的前提なのである。世界史に見られるこういった種類の現象の場合は、大抵こうした独特のユダヤ的な考えに関係しており、実際にこの種の不寛容さや狂信はまさしくユダヤ的本質を具体化している、と異論を挟む人ももちろんたくさん居る。これは十分正しいでもあろう。これは実に悲しむべき事実である。そして人類史のこういう現象はあまりにも不愉快すぎるので、いままで注意されていなかったのである。非常に自由な古代社会において、キリスト教の出現と共に、最初の精神的テロが現れたことを知って、今日、心を痛めるかもしれない。しかしそれ以来、世界がこの圧制に侵害され、支配されており、圧制はただ圧制によってのみ、そしてテロはただテロによってのみ破ることができるという事実は、異論を唱えることができないのである。

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マルクシズムと民主主義の原理

マルクシズムは国民的精神界を絶滅してやろうと決めているのだが、自己の犯罪目的のためにたとい間接的にせよ支持を受けうる限り、民主主義と一緒に進むだろう。しかし、我々の議会主義的民主主義の魔法の釜から突然多数者を沸き立たせ - そしてそれがただ正当な多数決の立法にのみによるとしても - 本気でマルクシズムを弾圧しようとしているという確信に、今日到達するならば、議会のまやかしはただちに終わりをつげるであろう。赤色インターナショナルの旗手たちは、さらに民主主義の良心に訴える代わりにプロレタリア大衆に燃えるような檄を発する。そして議会における民衆の使途の知的な要領のよさではできなかったことが、扇動されたプロレタリア大衆の鉄槌やハンマーで、ちょうど1918年秋と同様に電光石火のように達せられるだろう。すなわち、西欧民主主義のやり方でユダヤ人の世界制覇に対抗できるなどとうぬぼれることが、いかに狂気じみているかを、ブルジョア社会の人々に痛切にわからせてくれるだろう。
 規則などはいつか高飛車な態度に出る時や、あるいは自分の利益になるときにだけ存在していて、自分の得にならないとなるや否や投げ捨ててしまうような博徒を相手にして、規則に縛り付けられているなどということは、前に言ったようにまったくお人よしに他ならないのである。ブルジョア政党には、偉大な優れた視点からの信服させるにたる印象と、その印象を無条件に信頼させるにたる説得力を持って大衆をいつも従え、この印象を固守していこうとする狂言的な闘争意欲とを結合させるような偉大な磁石のような魅力が欠けているのである。

「民族主義的」という概念

「民族主義的」という概念は、「宗教的」という言葉とほぼ同じように、明確に限定されておらず、色々と違った意味に解釈できるし、また、実際に色々勝手な意味に使われているように思える。「宗教的」という言葉にしても、この言葉の働き方が一定の明瞭な形をとった時に、初めて観念の上で把握しうるのである。ある人をその性質が「内面的に非常に宗教的」であるという場合、それは結構だがおおむねまたつまらない説明である。確かに少数の人は、そうしたまったく一般的なレッテルをつけられて自分自身満足感を覚えるであろう。しかし、大部分のものは、哲学者でも聖者でもないから、こんなまったく一般的な宗教的理念では、たいてい一人一人にそれぞれ違った考えや行いを自由に与えることを意味するだけであり、なんといっても内心の宗教的渇望が、純粋の形而上的な無限の志向の世界の中から、明確な特定の信仰が形成された時に生ずるような、あの効験にいたることもないのである。この信仰なるものは確かにそれ自身目的ではなく、目的のための手段に過ぎない。だがそれは目的一般に到達しうるために不可欠の手段である。しかしこの目的は単に観念的なものではなく、究極においては優れて実践的な目的なのである。人々は一般にもっとも崇高な美の尊さが、結局ただ倫理的な合目的性の中にだけ存するとまったく同様に、最高の理想は常にもっとも深刻な生活の必要に即しているということを知らねばならない。

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ヴィトゲンシュタインの「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」調な意見だが、論理哲学論考はヒトラー読んでいたのかな? 二人は同窓だった時代もあったらしい・・・。


国家についての3つの有力の考え方 ごく大雑把にいって、3つの国家観念を区別することができる。

1)国家を単純にある政府の権力のもとに、多かれ少なかれ自発的に集った人々の総和と見るグループ。
2)第二のグループは、国家の存在の少なくとも2,3の条件をつける人々がそれに数えられなければならないだけ数からいっても少ない。彼らは同一の行政だけでなく、できるならばまた同一の言語-たとい一般行政技術上の見地からだけであっても-であることを要求する。国家権威はもはや国家の唯一の独占的な目的ではなく、臣民の福祉の増進がこれに加えられる。「自由」の思想が-しかもたいていは間違っている自由の思想が、これらの人々の国家観にこっそりはいってくる。統治形式はそれが存在しているという事実だけでは不可侵のものとは考えられず、それが目的にあっているかということが吟味される。国家が古いという尊厳だけでは、現代の批判を免れない。ともかく、これは国家からまず第一に個人の経済生活に有利な状態を期待し、それゆえに実際的観点から一般の経済上の損得の観点から判断する見方である。この観点の主要な代表者は普通のわがドイツ・ブルジョアジーの人々、特に自由主義的民主主義者である。
3)第三のグループは数字上、最も少ない。かれらは国家を、言語的に特色を持ち、統一された国家を形成している民族の、たいていは非常に不明瞭に考えられている権力政治的傾向を実現する手段と見る。統一的な国語にしようとするこの意思は、その場合、ただこの国家がそれによって対外的権力を増大させるための力ある基礎を作ろうとする希望だけでなく、それにおとらず-そのうえに根本的に間違っているが-国語統一によって、一定居の方向への国家化を実現しうるという考え方を表しているのである。


がしかし、言語や民族の分類が主観的にならざるを得ない以上、ここでヒトラーが定義している国家観念の分類もまた揺らいでしまうものに過ぎない。


民主主義国家と人種衛生

民主主義国家は人種を一般的生活の中心点に置かねばならない。民族主義国家は人種の純粋保持のために配慮しなければならない。民族主義国家は子供が民族の最も貴重な財宝であることを明らかにせねばならない。ただ健全であるものだけが子供を生むべきで、自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず子供をつくることはただ恥辱であり、むしろ子供を生むことを断念することが最高の名誉である、ということに留意しなければならない。しかし反対に国民の健全な子供を生まないことは非難されねばならない。国家は何か明らかに病気を持つものや、悪質の遺伝のあるものや、さらに負担となるものは、生殖不能と宣言し、そしてこれを実際に実施すべきである。これに対して逆に国家は、国家の財政的にだらしない経済管理のために、子沢山が両親にとってのろいとなり、健全なる女子の受胎が制限されることの無いように心がけねばならない。

肉体的にも精神的にも不健康で無価値なものはその苦悩を自分の子供の体に伝えてはならない。民族主義国家はこの点で巨大な教育活動をなすべきである。国家はこの教育によって病身であったり、虚弱であったりすることは、恥ではなくただ気の毒な不幸にすぎず、しかし、この不幸を自分のエゴイズムから何の罪も無い子供に負わすことによって汚名をかぶせるのは犯罪であり、したがって同時に恥辱であり、これに対して罪の無い病人が自分の子供を持つことを断念し、自分の民族の健全さのために、他日、力強い社会の一員になることを約束されている民族の見知らぬ貧しい幼い子孫に愛と情を注ぐのは、最高の志操や賞賛すべき人間性の尊さを証明するものであることを一人一人に教えるべきである。そして国家はこの教育活動によって、国家の実際的活動を純粋に精神的に補うようにしなければならない。国家はこの意味で、理解や無理解、賛成や不賛成を顧慮せずに行動しなければならない。


私が昔書いた妄想小説「我が競争」にも、出生制限と"生殖の分配と局在化"について書いている。当時私はヒトラーの「わが闘争」を読んでいなかったのだが、あたかも読んだことがあるかのようなパロディー小説を書いていたあたりが、天才的予言能力と言えよう。

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【民族意識系】
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2009.02.04: 新たなる発見@日本


程度がまったく同じではない2つの生物を交配すれば、すべて結果は両方の親の程度の中間となって現れる。子供は両親の人種的に低いほうよりは、より高いかも知れぬが、しかしより高いほうの親ほど高くはならない。その結果として、彼はこのより高い方との闘争の中でやがてはまけるだろう。より強いものは支配すべきであり、より弱いものと結合して、そのために自分の優れた点を犠牲にしてはならない。種族の純血への衝動の結果は、ただ単に個々の種族を外部から鋭く区画するだけでなく、自分自身の内部でのその種族の一様な本質性を保つことでもある。自然はより弱い個々の生物が、より強いものと結合するのさえ望まなかったが、同じようにより高等な人種がより劣等な人種と混血してしまうのは、それ以上に望まないのである。
 歴史的経験はこのことについて無数の例を示している。アーリア人種がより劣等な民族と混血した場合、その結果として必ず文化の担い手であることを止めてしまったということを示している。その住民の大部分が、劣等な有色民族とはほとんど混血したことのないゲルマン的要素から成り立っている北アメリカは、主にロマン民族の移住民が幾度となく広い範囲にわたって原住民と混血した中央アメリカや南アメリカと比べて、別種の人間性と文化を持っている。この一つの例でさえも、人種混血の影響を極めて明白に認識させるのだ。アメリカ大陸の、人種的に純粋で、混血されることなくすんだゲルマン人は、その大陸の支配者にまでなった。彼らは、自分もまた血の冒涜の犠牲となって倒れない限り、支配者であり続けるだろう。


民族や人種の規定、しかもその優劣を・・・となるとかなり難しいこととは思うが、優劣がはっきりしているなら優と交配したほうがいいよな。


数十年も経ぬ中に、東部アジアの全部の国が、その基礎は結局、我々の場合と同様なヘレニズム精神とゲルマンの技術であるような文化を自分たちの国に固有のものだと呼ぶようになるだろう。ただ、外面的形式だけがアジア的存在様式の特徴を実につけるだろう。日本は多くの人々が思っているように、自分の文化にヨーロッパの技術を付け加えたのではなく、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのだ。実際生活の基礎は、日本文化が生活の色彩を限定しているにしても、もはや特に日本的な文化ではないのであって、それはヨーロッパやアメリカの、したがってアーリア民族の強力な科学・技術的労作なのである。
 今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてアーリア人の影響がそれ以上日本に及ばなくなったとしよう。その場合、短期間はなお今日の日本の科学と技術の上昇は続くことができるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくも泉は水がかれてしまい、日本的特性は強まっていくだろうが、現在の文化は硬直し、70年前にアーリア文化の大波によって破られた眠りに再び落ちていくだろう。文化領域の最初の発展に動因と素材を与えた、外からの影響が後になって欠けてしまう場合にのみ、一民族に現れうる。ある民族が文化を他人種から本質的な基礎材料として、うけとり、同化し、加工しても、それから先、外からの影響が絶えてしまうと、またしても降下するということが確実であるとすれば、このような人種は、おそらく「文化支持的」と呼ばれうるが、けっして「文化創造的」と呼ばれることはできない。この観点から個々の民族を検討するならば、存在するのはほとんど例外なしに、本来の文化創造的民族ではなく、ほとんど常に文化支持的な民族ばかりであるという事実が明らかになる。


ヒトラーにとって被差別対象の我々がこの文章を読むと、嫌悪感を抱くであろうが、アーリア人を日本人と置き換えたら、日本の民はどんな印象を受けるのだろうか? 彼の言うところのユダヤ人を自国民に置き換えるとマハティールの「マレー・ジレンマ」と同じ理由で発禁本になるだろう。


共同体の生存のために自分の生命をささげることはあらゆる犠牲的精神の中でも最高のものである。ただこれだけが、人間の手が築いたものを再び人間の手で破壊させたり、あるいは自然によって全滅したりすることを阻止する。まさしくわがドイツ語は、この意味での行為をみごとに表す言葉、義務の遂行、つまり自己自身を満足させるのではなく公衆に奉仕する行為、を所有している。そのような行為が出てくるところの根本的な志操を、我々はエゴイズムや私利と区別して、理想主義と名づける。我々はその言葉によって、ただ個人が全体社会に対する、彼の同胞に対する犠牲能力を理解するのである。


ヒトラーの差別的民族主義やユダヤ人に対する異様な嫌悪は、日本人の我々には理解が難しい。ヒトラーが繰り返し主張している、「祖国への誇り、国民的情熱、種の自己保存欲求、血の冒涜の犠牲」 というこれらの言葉が何を意味しているのか、日本人の感性に訴える絵を私は発見したので載せておこう。

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臭気漂う南蛮人が、いたいけな我が大和撫子の純血を汚しておるぞ。ゴリラのような異邦人に一般女性が犯されるようなことが頻発しない日本は平和かもしれないが、もし全土広域・歴史的にも継続的にこういうことが起こっていたらどうだ? 嫌悪感がこみ上げてくるだろう?


ユダヤ人が闘争において、彼らの隣人から強奪する場合において、団結しているという事実から彼らにある種の典型的な犠牲心が存在するのだと推論しようとするのは、根本的な誤りである。この場合でもユダヤ人を導くものは、個人のあからさまなエゴイズム以外の何者でもないのだ。したがって、ユダヤ人の国家も領域的に限られていない。なにしろ国家組織を一定の空間でもって理解するのは、つねに国家的人種という理想主義的な志操、特に労働という概念の正しい把握を前提にしなければならぬからである。この態度の欠如する程度に応じて、空間的に限られている国家を形成しようとする試みばかりか、保持しようとする試みさえもだめになる。だがそれとともに文化を成立させうる唯一の基礎もなくなってしまう。

したがってユダヤ民族はあらゆる外見上での知性的特性を持っているにもかかわらず、なお真の文化、特に自身の文化を持っていない。なぜならば、ユダヤ人が今日見せかけの文化において持っているものは、他の民族のものであったが彼らの手によってほとんどもうだめにされてしまった文化財なのである。人類文化の問題に対するその態度についてユダヤ主義の批判をする際に、注意を怠ってならないことは、けっしてユダヤ人の芸術など存在しなかったということ、だから今日でも存在していないこと、とりわけ、あらゆる芸術の中でも女王の位を占める二分野である建築と音楽はユダヤ人全体に何の独創も負うことはできないということである。


ユダヤ人は遊牧民ではない、ユダヤ人は寄生虫。

多分、アーリア人種も最初は遊牧民であり、時代の流れとともに定住するようになっただろう。だからこそ、かれらは決してユダヤ人などではなかったのだ!否、ユダヤ人は遊牧民ではない。なにしろ遊牧民でも「労働」という概念に対して一定の態度を持っていたのであり、この態度は後の発展のための基礎として、発展に対する必然的で精神的な前提条件が存在している限りで役立ちえた。遊牧民は彼らの存在様式の全体にわたってアーリア民族とはおそらく無関係であるように見えるとしても、だが性のあわぬものではないだろう。これに反して、ユダヤ人にはおよそそうした態度は存在していないのであり、それゆえかれらは遊牧民でもなく、つねに他民族の体内に住む寄生虫にすぎない。しかも彼らがしばしば今まで住んでいた生活圏を放棄してきたことは、彼らの意図によるものではなく、追い出された結果であり、彼らは時々悪用した母体民族によって追い出しを受けた。ユダヤ人はあらゆる時代を通じて他民族の国家の中に生活して、そこで自分自身の国家を形成していたが、この国家はもちろん外面的な事情がその本質をすっかり暴いて見せなかった間は「宗教共同体」の名称の元に仮装して行動するのが常であった。だが一度自分を守る覆いがなくても済ませるほどに十分に強くなったと信じたならば、いよいよそのヴェールを落として、急に非常に多数の人々が以前には信じもまた見ようとも欲しなかったもの、つまりユダヤ人になったのである。

民衆の心を獲得することは、自分の目標に対して積極的な闘争を指導してゆくことと並んで、この目標の敵対者を絶滅させる場合にのみ成功できる。民衆はどんな時代でも敵に対する容赦のない攻撃を加えることの中に自分の正義の証明を見出し、逆に他者の絶滅を断念することは、たとえそれを自分が正しくないことの証拠と感じはしないにしても、自分の正義についての不確実さを感じ取る。大衆は本能のかたまりに過ぎず、彼らの感情は敵同士であることを望んでいると主張している人々の間のお互いの握手を理解しはしない。彼らが望んでいることは、より強力なものの勝利とより弱いものの絶滅あるいは弱いものの無条件の隷属である。わが国の大衆の国民化は、わが民族の魂をとらえるためにあらゆる積極的な闘争を行うことによって、国際主義的な大衆の毒殺者を根絶することができてはじめて成功するだろう。

ユダヤ人の新聞で非難されず、したがって中傷や誹謗を受けないものは尊敬すべきドイツ人ではなく、ほんものの国家社会主義者でもない。我々の主義の価値、我々の信念の公明さ、我々の意欲の力を測る最上の測定器は、わが民族の不倶戴天の敵の側から我々に示される敵意である。朝、ユダヤ人の新聞を読んで、その中で自己が中傷されている記事を見出さないものは、前の日を有効に利用しなかったのである

【差別被差別構造】
2013.03.18 藤原氏の正体 4/4 ~藤原とお公家
2013.01.22|民族世界地図 2/2
2012.03.12 同和中毒都市
2012.01.27: 話題の大阪の地域別所得は
2011.07.15: 松本復興相、宮城県の村井知事を叱責
2011.04.22: 美智子さまと皇族たち1/4 ~天皇制と皇室
2011.02.28: アジア発展の構図 ~ASEANの発展 3/4
2010.09.27: 世界四大宗教の経済学 ~ユダヤ批判
2010.08.10: 母と差別
2010.04.02: 野中広務 差別と権力 ~被差別の成立
2009.07.15: 無差別な世界に思える国際都市
2008.01.09: どうでも良い芸能ネタも外人相手だと





前回、動画と同時にはアップできないだったので、今回改めて"大衆用プロパガンダポスター"を載せてみた。
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選挙ポスター
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珍しく笑っているヒトラー
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ロシアのもついでに
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資本の国家的意義は、資本自体は国家の大きさ、自由および力にいいかえれば国民に完全に依拠しているものであり、この依存こそ、自己保存もしくはより以上の増大という単純な衝動から、この資本の側によって国家と国民の助長に導かれるに違いない、と。このような独立の自由な国家への資本の依存状態は、このように国家の側では、国民の自由、力、強さ等のために、資本に一役かわせざるをえないことになる。国家は、資本を国家の召使にしておき、国民の支配者であると思わせないように配慮することだけだった。私は以前には、その存在と本質がもっぱら投機にもとづいている資本と、創造的労働の終局的成果としての純粋の資本との区別をねがわしくはっきりとは認識することができなかった。

国際金融資本との戦い

私が始めてゴットフリート・フェーダーの「利子奴隷の打破」についての講演を聞いた時、私はすぐ、ここでは理論的な心理が問題となっており、ドイツ民族の将来に対して計り知れぬ意義のあるものになるに違いない、と思った。国民経済から株式資本を鋭く分離することによって、資本一般に対する戦いと同時に、独立した民族的自己保存の基礎を脅かされることなく、ドイツ経済の国際化に反抗する可能性を示したのだ。


新聞の読者はその際、一般に3つのグループに分類されうる。第一は読んだものを全部信じる人々、第二はもはやまったく信じない人々、第三は読んだものを批判的に吟味し、その後で判定する頭脳を持つ人々である。第一のグループは数字の上からは、けたはずれの最大グループである。彼らは大衆からなっており、したがって国民の中では精神的に最も単純な部分を表している。自分で考えるだけの素質もなければ、またそのような教育も受けてない人々は美奈子のグループに入る。第二グループは数ではまったく決定的に少なくなる。彼らの一部は、最初は第一のグループに入っていたが、長い間苦い幻滅を経験した後いまや反対側に移って、ただ印刷されて目に映るものならばなんでも、もはやぜんぜん信じなくなってしまった分子から構成されている。彼らは新聞を憎み、おそらく読まない。なにしろ真実に対しても常に疑ってかかるだろうから、これらの人々は極めて取り扱いが難しい。彼らはそれゆえ、あらゆる積極的な仕事に対してはだめな人間である。最後に第三のグループは桁はずれて最小のグループである。彼らは生まれつきの素質と教育によって自分で考えることを教えられ、あらゆることについて彼自身の判断を形成することに努力し、また読んだものはすべてきわめて根本的にもう一度自己の吟味にかけてその先の結論を引き出すような、精神的に実に洗練された頭脳を持った人々から成り立つ。


子育ての際に、自立が原則と思っていたが、経済的な自立よりは、思想・思考の自立となると常人では達成できないほどに難しいのかもしれない。メディアや周囲に流されることなく、価値判断できるインベスターの擁立、投資一族のハードルは高いということをヒトラーは言っている・・・


今日、国家建築と私有建築の関係は、実になんとひどいものになったことであろうか。ローマの運命がベルリンを襲ったと仮定してみよう。そうすれば、子供たちは将来いつの日にか我々の時代の最も巨大な工事として、2,3のユダヤ人が持つ百貨店や、いくつかの会社が経営するホテルを挙げ、我々の時代の文化を特徴的に表すものとして、驚嘆することだろう。ベルリンのような都市にさえみられる、国家の建築物と、金融や商業のための建築物の間に支配している極端な不つりあいを比較するがよい。国家の建築に支出された金がからしてすでに多くの場合、実に笑うべきものであり、不十分なものである。工場は永遠のために行われるのではなく、目先の必要のためにのみ行われているすぎない。ベルリンの宮城はそれが建造された時代には、現代の形にはまったく新しい図書館なんかとは、違った意味を持った工事であった。一隻だけの戦艦でも、約6000万マルクの金額に達するのに永遠を目指すべきである、国家で第一に立派な建築物、国会議事堂には、ほとんどそれの半分も議会で同意されなかったのだ。現代のわが国の都市には、住民の共同社会のきわだった象徴が欠けており、したがって、住民共同社会がそれぞれの都市に自分自身の象徴を見出せない場合にも驚くことはないのだ。


確かにドイツの建造物として、彼の作ったアウトバーンは50年以上経った今現在でもドイツの象徴的公共建造物と言えるだろう。非商業施設、非宗教施設で、東京にはいっぱいあるな、東京都庁もしかり安田講堂もしぶい。元は国営の公共事業的な開発で今でこそ民営化してしまったが、東京駅なども建造物として趣もさることながら、今でも日本の中心としてしっかりと機能している点は評価したい。日本の建造物と比べるといささか軽い印象ではあるが、シンガポールもMBSのカジノばかりに注目しないで、PIE、CTEなどの高速道路やMRTの公共都市開発も見てあげてほしい。そして、MRTの周囲に立つ公共住宅がこの国の文化的程度を象徴していることがわかるだろう。

【ニュースにいちやもん】
2013.01.10 安倍氏カムバック賞、今年のアジアの受賞者一覧-ペセック
2012.08.28 「長く付き合った恋人」に、こだわってしまう理由
2012.02.23|SGP 4Q GDP -2.5%がなぜかメシウマ
2011.12.14: 今年最も読まれたニュース 2/2 海外編
2011.08.01: 九州新幹線全線開業のCM
2011.06.02: AIG株87億ドル相当を売却、1株29ドルで-米財務省
2010.12.10: {わかりやすさ}の勉強法
2010.02.26: 日本の新興企業 アジア市場が上場誘致
2009.12.21: 君は日本国憲法を読んだことがあるのかね 
2009.12.02: 金融犯罪に手を染めた元米ミス・ティーンの転落人生
2009.09.15: OptionのNewsはどうしてこうも気色悪い書き方なのか
2009.03.26: 中国人民元先物?
2008.01.02: いきなり暗い 元旦の日経トップ記事







宣伝はただ大衆に対してのみ

宣伝は誰に向けるべきか?学識あるインテリゲンツィアに対してか、あるいは教養の低い大衆に対してか? 宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである! インテリゲンツィアや今日遺憾ながら往々にしてインテリと称するものに対しては、宣伝は不要で学術的教化というものがある。しかし、宣伝はその内容上学問ではない。それはポスターがその表現自体およそ芸術でないのと同じである。ポスターの技術は、形や色によって大衆の注意をひきつける企画者の技にある。

大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、その代わり忘却力が大きい。この事実からすべての効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、その言葉によって、目的としたものが最後の一人にまで思い浮かべることができるように継続的に行わなければならない。人々がこの原則を犠牲にして、あれもこれもとりいれようとするとすぐさま効果は散漫になる。大衆は提供された素材を消化することも、記憶しておくこともできないからである。


ここでヒトラーの演説を出すと偏りがあるように思われるかもしれないかもしれないので、あえてキング牧師の演説を出そう。同時に私は、毛沢東、スターリン、チェ・ゲバラ、スティーブ・ジョブズなどのスピーチも聞いたのだが、ヒトラーのプレゼンテーションは圧倒的である。

キング牧師

ヒトラー

「大衆はなかなか理解せず、忘れやすい、それゆえ同じことを繰り返す。」と言っているヒトラーの主張は、あらゆる演説で活用されている。客観性を出すためにキング牧師を例として出しているわけではあるが、その中で、"I have a dream"と"With this faith", "Let freedom ring from the"というフレーズが何度繰り返されていることだろうか。子供を持つ諸君は、子供が言語を習得する過程を思い出して欲しい。親は何度も同じことを繰り返し言い、そして親は同じことを何度も要求され行動する。その結果として一つの言語を母国語として習得し、子供はその国家の国民として始動する。赤ちゃんだから、子供だからといってなめるんじゃない!実はいい年の民と何も変わらない! なかなか理解せず、忘れやすい、それゆえ同じことを繰り返す必要があるのだ!


ドイツ人の客観性ぐるい

大衆は外交官から成り立っているのではなく、また国法学者のみから成り立っているのでもなく、まったく純粋に理性的判断からでもなく、動揺して疑惑や不安に傾きがちな人類の子供から成り立っている。大衆は相手の不正がどこで終わり、自分の不正がどこからはじまっているか、その時判断する立場にはいない。そういう場合に彼らは不安になり、邪推したりする。特に相手が必ずしも同じように無意味なことはせず、何もかも責任をこちら側に負わせてくる場合に、団結して一元的に行われる敵の宣伝を、ついに我が民族が、しかも自国の宣伝より以上に信ずることははっきりしないだろうか? ドイツ人のようにもともと非常な客観性ぐるいになっている民族の場合にはなおさらだ! というのはドイツ人の場合は、自分の民族や国家のこの上なき重荷や、そのうえ破滅の危険をおかしてまでも、敵に対してとにかく不正なことをしないように、すべてのものが努力するからである。民衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮よりもむしろ感情的な感じで考え方や行動を決めるという女性的素質を持ち、女性的な態度をとる。しかしこの感情は複雑ではなく、非常に単純で閉鎖的である。繊細さは存在せず、肯定か否定か、愛か憎か、正か不正か、真か偽かであり、決して半分はそうで半分は違うとか、あるいは一部分がそうだがなどということは無い。


ヒトラーの女性蔑視が現れているが、大衆は女性的素質を持つと書いている。女性首相がドイツで生まれた現代に生きる私はあえて、「大衆は核家族内の妻的素質を持つ」と表現しよう。大衆の半分は男であり、その男たちも「上司が悪い、会社が悪い、政治が悪い」と不平不満を言い、自らに原因を求めることなく、すべてを責任転嫁しようとする姿勢がまさに妻的な行動といえよう。 大衆が持つ民族としての客観性については、優秀さ(お人よし)ゆえの害悪が日本も同じ状況である。

【愚民の欲】
2013.04.02 タイ全土落下傘計画 15/17 ~農家の男
2012.11.30 北京・ハルビンに行ってきました 13/13 ~必要以上に美人なタクシードライバー
2012.08.09 マキアヴェッリと君主論4/4 ~君主と臣民
2012.04.18|真面目系クズについて 1/2
2012.01.06: 競争と公平感 市場経済の本当のメリット 2/3 ~素質
2011.11.30: 利休にたずねよ3/4 ~茶の湯の極意
2011.10.13: 日本中枢の崩壊 2/2 霞が関
2011.07.22: 死刑囚 最後の一時間 2/2 ~死刑囚
2011.03.01: アジア発展の構図 ~出遅れた国々 4/4
2011.01.20: 項羽と劉邦 ~広大なる中国大陸
2010.11.25: 初等ヤクザの犯罪学教室 ~割に合わない犯罪
2009.12.29: 何のために生きるのか?ふと考えるときがある
2009.05.07: 幸福感と欲の関係





離婚したいのだけど、どのくらいお金がかかる(取れる)のだろう? と不安になる人々が多いようだ。何故か知らんが、たまに弁護士でも無い私のところに相談に来る人がいるw
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結論から先に言おう、「法律や裁判は関係ない。最終的には人間同士の闘いだ。」

特に男性諸君に申し上げよう。被害を少しでも減らしたいなどという守りの姿勢、失いたくないものがある状態で、何も失うモノが無い女に勝てると思うか? 妻という立場はヤクザと同じ、失うモノは何もない。そいつに全力で突進されて、そんな心意気で太刀打ちできると考えているのならば、甘すぎると言わざるを得ない。相手がヤクザな立場なら、迎え討つこっちも失うモノは何もない覚悟で臨まないと勝負にならないし、競った時の粘りに差が出てきてしまうものだ。例えて言うなればヘビー級のボクシングで、まともなパンチを一発でも喰らえば大ダメージで、その場で試合終了だ。

あまりに精神論を言っても伝わらないかもしれないのでそろそろ法的な話に移行しよう。

離婚時に発生する金銭問題三要素は、財産分与、養育費、慰謝料である

財産分与とは婚姻期間中に増えた資産の半分を受け取る権利を相手が持っている。三要素のうち、最も定量的に規定できる概念だ。
養育費とは、子供は夫婦のうち、恵まれた方の環境下で育てられる権利を持っている。これは不確定な将来のキャッシュフローも影響する。よくある勘違いなのでここで言及すると、子供を育てるのに必要な金額ではなく、アンタいくら稼げるの?ということが問われるもので、絶対的な金額ではなく、貴君の将来的な稼ぎによって決まる変動値である。
慰謝料とは、不貞行為や暴力などによる精神的苦痛とかなんとか建前上は言っているが、実戦においては「アンタいくら持ってるの? 持ってる分だけ全部よこせや。」が現実である。

ここで三要素を見ればわかるように、婚姻何年、子供が何人でという定量的要素はあまり関係なく、現在の総資産と将来の稼ぎが一番効いてくる従量制なのである。取られるモノがあったらその時点で非常に厳しい戦いになるということがお分かりいただけよう。

慰謝料というのは裁判・法廷上で争った時に立証するのは難しい要素ではあるのだが、取る側の視点に立てば、裁判沙汰にまで発展した時点でおいしいのは弁護士であり、裁判をせず協議離婚で相手を討ち取るのが最も効率よく金をむしり取る方法である。なぜならば、離婚裁判の勝訴によって得られるのは、カネをむしり取れる権利であり、カネそのものではないからだ。カネを取るにはもう一つ別の段階が必要で、資産差し押さえという難関が待っている。

実際にカネをむしり取るための資産差し押さえ三要素は、預金、給与、不動産である
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仮にも相手方とは夫婦関係にあるのだから、勤め先と住んでいるところくらいは確実にばれているだろう。つまり給与と不動産が最も差し押さえしやすい資産なのである。私が不動産嫌いな理由もお分かりいただけると思うが。預金は最もタチが悪く、金融機関名を指定し、裁判結果を示し、差し押さえる必要がある。どこの銀行に預金があるか、知らなければ差し押さえることが難しいのである。そして、裁判・法律というのは、あくまでその国で有効な概念に過ぎない。よって裁判した国家以外の国家にある預金に関しては、そのままでは強制執行することはできない。裁判をした国家と預金がある国家との間で、裁判結果のトランスファーが可能であれば、そのトランスファーを通じて強制執行できる可能性はあるが、裁判結果の翻訳や再裁判、そして差し押さえとなるとかなりな段階を踏まなければならず、取りたてるのは厳しい。金融資産のうちの預金は、こっちはボタン一発で世界中にトランスファーできてしまうのに対し、相手側のプロセスを考えると、この追いかけっこは取られる側に有利なのは言うまでもあるまい。

ここで全てのプロセスを振り返ってみよう。カネの流れだけに集中して考えれば、離婚問題の勃発->調停(第三者を介しての話し合い)の不調->裁判->強制差し押さえ という長い長いプロセスを経てようやく実現するという、取る側にとってはきわめて不利な状況なのである。この状況を不利にするモノは唯一つ、取られる側の事情により、一刻も早く離婚したい(愛人が離婚を心待ちにしている、というかその愛人の子供が数カ月後は誕生するなどの)状況を作ってしまった時点で、このパワーバランスが極端に悪くなるのである。

カネが法的な力で強制的に動くまでにはかなり時間がかかるはずである。したがって、時間は自分の味方か?それとも相手の見方か? 加えて法律=世間的な立場・世間体というモノに対して、どちらがセンシティブなのか? というのが持久戦において重要なファクターとなり、冒頭に申し上げた「法律や裁判は関係ない。最終的には人間同士の闘いだ。」が大きな要素を占めてくるのがお分かりいただけたであろう。

法律? 国家というある一定領域で有効な戯言に過ぎない。それがこの俺にどんな影響力を持っているのか見せてもらおうじゃねぇか? ぇえん?」 というヤクザな発言ができないならば、取られる側としては勝ち目はないってことです。駆け足で詳細を省きましたが、今日のレクチャーはこれまで! 貴君の健闘を祈る。

慰謝料と違いますが、ホラ、同じネタを書いている人がいましたよ。

売掛金回収!少額訴訟してみたよ
http://wp-d.org/2012/10/03/621/?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

「書類提出」→「口頭弁論」→「争う」→「判決」→「支払い命令」です。 はい。結構簡単ですね。 でも正直に言います。超メンドクサイ。
裁判の判決はどっちが悪いか決めるだけで強制力は無いんです。アホか日本!!!と思うでしょう。 ワタシも思います。 アホなんですたぶん。 弱者を守る気とかサラサラ無いです。

強制執行

これは「あいつら払わねぇからコレ差し押さえちゃって。」というお願いを裁判所にする事で、強制的に財産を奪取する方法です。しかし実はこれにも重要な…というかマヌケな穴があります。なぜなら「ナニを差し押さえるかは自分で調べてね」と言われるからです。 もうホントいやこの国。

最も差し押さえしやすい「銀行口座」に目を付けたワタシは、まず相手のサイトにアクセス。ここでのポイントは「銀行口座は口座番号とかはいらない」という点です。実は差し押さえの時は「銀行は支店名と口座名がわかればOK」

最初の書類は企業相手の少額訴訟と離婚訴訟とでは違いますが、裁判からは似たようなモノ。この人は企業相手で銀行口座を知っていたからいいようなものの、逆に言うと「銀行は支店名と口座名を知らないと無理」なのです。まぁ口座名は本人名義以外は取れないでしょうから、銀行と支店を特定しないとイケないんですねぇ。個人相手の場合、どうやって調べるの?

【金融ヤクザのお仕事】
2012.09.10 金融崩壊 昭和経済恐慌からのメッセージ 2/4~成金
2012.05.24|眞説 光クラブ事件 1/3 ~山崎晃嗣とは
2012.01.25: 野村證券スキャンダルの検証 1/2 ~損失補てん
2011.11.25: 米MFグローバル、破産法適用
2011.10.19: ザ・総会屋
2011.09.07: 投資詐欺 2/3 手法
2011.01.07: イトマン・住銀事件 ~イトマンをめぐる様々な疑惑
2010.10.05: マネー・ロンダリング入門 ~実際に起きた事件
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
2008.08.18: 8868 スワップ契約についての考察
2008.01.28: ソシエテ・ジェネラルの大損

ドイツ政策の4つの道 (国家が生き残るための条件)

1.フランスの手本に従って、出生の増加を人工的に制限し、それでもって人口過剰に対処することができた。
2.国土開発、土地の収益力は一定限度まで引き上げることができる。しかしただ一定の限度までであり、無限にということではない。一定の期間人々は、かくして我が国土の利用度を増すことによって、飢餓の危険なく、ドイツ民族の増加の困難を防ぐことができるであろう。しかし生活上の要求は一般に住民数よりも急速に増加するという事実が、これに対立する。衣食に関する人間の要求は、年々大きくなり、今日でもおよそ100年前の我々の祖先の要求とは比べようも無いほどの状態になっている。だから生産の増加が人口の増大のすべての前提を果たした、と考えるのは誤りである。他の人種がこの地上の大きな面積にしがみついているときに、もしある民族が国土開発にとどまっているならば、ある時期になると他の民族がたえず増加し続けるのに、自己制限することを余儀なくされるだろう。遺憾ながら、総じて最善の国民が、唯一の新の文化的人種、、あらゆる人種の進歩の担い手だけがその平和主義に幻惑されて、新しい土地獲得を断念し、「国土」開発で満足することを決意しているが、しかし劣等な諸国民が、この世界の巨大な生活圏を確保することを知っているからこれは次のような結果に導くであろう。
 文化的には劣っているが、生来より残忍な民族は、最も大きな生活圏を持っているためにその位置でなお無限に増加を続けることができるのに、文化的には優れているが英慮勝ちな人種がその制限された土地のためにいつかはその人口増加を制限せねばならないのである。そこでなお遠い将来のことではあるが、ただ2つの可能性だけが残る。世界は我が近代民主主義の観念にしたがって、すべての決定が数の上でより強い人種のために有利な結果に終わるか、あるいは世界は自然的な力の秩序の法則によって支配され、その場合、残虐な意思を持つ民族がかつことになり、自制する国民が敗れるかである、しかしこの世界がいつかこのうえも無く激しい人類の生存の闘争にされされるだろうことは、誰人も疑うことができない。最後には自己保存欲だけが、永遠に勝利を閉める。永遠の闘争において人類は大きくなった、永遠の平和において人類は破滅するのだ。
3.過剰な幾百万人を毎年移住させるために新しい土地を手に入れ、そして自給の原則でずっと国民を養っていく
4.外国の需要に応じて商工業を起こし、その売上高によって生活をまかなっていくか ← 日本、いまここ

今日ヨーロッパ諸国の多くは、ピラミッドを逆さにしたに等しい。そのヨーロッパの底面は、植民地、外国貿易等におけるほかの重荷に対して笑うべきほど小さい。ヨーロッパに尖端があり、全世界に基底があるといってもよい。規定をなお自己の大陸に持ち、そしてただ尖端のみが他の土地に触れているアメリカ合衆国とは違うのである。それゆえにこそ、この国は未曾有の国内的な力を持ち、ヨーロッパの植民地国家がたいてい脆弱なのである。イギリスもまた例外ではない。人々は大英帝国を見る場合、そもそもアングロサクソン系の世界そのものを見ることを簡単に忘れる。イギリスの地位は一人でアメリカ合衆国と言語上、文化上で共同しているためにそれでなくてさえ他のヨーロッパの国々とも比較されえないのである。それゆえドイツにとって健全な領土拡大政策を実施する唯一の可能性は、ヨーロッパ自体の中で新しい土地を獲得することだけにあった。

人々がヨーロッパで土地と領土を欲するならば、その際は大体においてロシアの犠牲でのみ行われえた。ヨーロッパには唯一つの同盟国があった。すなわちイギリスである。イギリスと結んでのみ、背面を保護されて、新しいゲルマンの行軍をはじめることができたのである。イギリスの好意を得るためには、だがどんな犠牲でも大きすぎることがあってはならなかった。植民地と海上勢力を断念し、そしてイギリス工業に対して競争をさしひかえるべきだった。この意味でイギリスがわかりがよかったならばその時期があったのだ。ドイツが時刻の人口増加のために何かある打開策を探さねばならず、そしてイギリスと結んでそれをヨーロッパに求めるか、あるいはイギリスと結ばずに世界に求めるかを、イギリス人は非常によく理解していたのだからである。


総督が、不毛の大地ヨーロッパを憂いておる。地中海に海岸線を持つ西ヨーロッパはともかくも東ヨーロッパは悲惨だな。ウクライナやカザフでは小麦が取れるらしいが、米や野菜が豊富に取れるとは思えないな。ロシアの犠牲とは、ヨーロッパをロシア東部やカザフまで含めて定義し、EU圏とロシア圏の勢力争い、つまりドイツより東にどこまで侵攻できるかということを言っている。

国際連合統計局の分類
東ヨーロッパ:ウクライナ、スロバキア、チェコ、ハンガリー、ブルガリア、ベラルーシ、ポーランド、モルドバ、ルーマニア、ロシア
アメリカ中央情報局(CIA)の分類
東ヨーロッパ(東欧):ウクライナ、エストニア、ベラルーシ、モルドバ、ラトビア、リトアニア、
南東ヨーロッパ(南東欧):アルバニア、クロアチア、コソボ、セルビア、ブルガリア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ、ルーマニア、

あら・・・東欧言うたら、ポーランド、オーストリア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアだと思ってたけど、俺の勝手な勘違いだったようで。旧ロシア圏が東欧なのか・・・


国家と経済 (ここ日本人には重要部分)

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全民衆に「経済的制覇」というナンセンスなことを実際政治の方策として、その反面「世界平和」の維持を政治の目標として全民衆に提示し、おまけに理解させることについては、我々すべての政治思想が一般に不健全であったことにかなり深い原因があった。国家は特定の経済観や経済的発展とはまったく無関係である。国家は経済的課題を実行するために、ある一定の制限された生活圏に経済的な契約者をまとめたものではなく、種の発展維持をいっそう可能ならしめ、摂理によって規定された自己存在の目標を達成するための心理的、精神的に同一な生物の共同社会組織である。国家の目的と意義はこれであって他の何者でもない。そのさい経済はこの目標を達成するためにまさしく必要な補助手段の一つに過ぎない。経済は、国家の原因でもなければ目的でもない。国家それ自体は前提条件として領土的境界を持つことを決して必要としないということは、これによってのみ明らかにされる。これは自ら種族同胞の扶養を確保しようとし、自己の労働によって生存競争を戦い抜く覚悟がある民族によってのみ必要とされる。雄バチのように他の人類の中に忍び込むことができ、あらゆる口実をもうけて人類を自己のために働かせるような民族は、独自の一定の境界を持った生活圏なしでも国家を形成することができる。このことは第一に、その寄生性のためにとりわけ今日、正直な全人類が悩んでいる民族、すなわちユダヤ民族に当てはまるのである。

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ユダヤ国家は地域的に一度も境界にあったことが無く、地域の上では普遍的で際限無く、ただ人種の集合という点に制限があっただけである。それゆえこの民族はいつもまた国家の中に一つの国家を形成していた。この国家を「宗教」として航海させ、かくしてアーリア人種が宗教上の宗派と認める心構えの寛大さによって自己を安全なものにしてきたことは、まだ見たことの無い最も天才的なトリックに属する。というのは事実上モーゼの宗教は、ユダヤ人種保存の教説に他ならないからである。それゆえこの宗教は、一般にユダヤ人種保存のためにだけ問題になりうる社会学的、政治的な、同様に、経済的な知識分野をほとんどすべて包括しているのである。
 人間が共同社会を形成した最初の動機は、種の保存の衝動である。しかしながら、それと同時に国家は民族的な有機体であって、経済的組織ではない。種の保存と維持は、各人の献身に進んでおもむく覚悟を前提としているからである。種の保存を確保するために個人の存在の献身が必要だということになる。

国家を形成したりあるいはまた国家を維持するだけの力とは現実になんであるか、と問うならばそれを2,3の言葉に要約しうる。すなわち全体のために個人を犠牲にする能力と意思である、と。この徳が経済となんら関係ないことは、次の簡単な認識から推定できる。人間は商売のために死ぬものではなく、ただ理想のために死ぬものだということである。イギリス人が民衆の心を認識する上で心理的に優れていることは彼らが戦う場合に与える動機付けを知ること以上によく示してくれるものはない。我々がパンのために戦っているのに、イギリスは「自由」のために、それも自国民のためでなく、そうだ、小国の国民のために戦ったのだ。

【戦争論・兵法】
2013.02.13 巨いなる企て 4/4 ~伏見の政治と軍事
2012.08.01|マキアヴェッリと君主論2/4 ~性悪説的君主論
2012.05.16|攻撃計画 ブッシュのイラク戦争1/2~準備
2011.07.28: 後藤田正晴と12人の総理たち1/2 ~天安門事件
2011.02.03: 賭博と国家と男と女 ~人は利己的に協調する
2010.12.16: 自作 近未来小説 我が競争 ~第三次世界大戦の勝者と人類の進化
2009.12.16: 孫子・戦略・クラウゼヴィッツ―その活用の方程式
2009.10.23: 核拡散―軍縮の風は起こせるか
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.24: 孫子の兵法
2009.01.06: ユーゴスラヴィア現代史 ~Titoという男




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