人生設計 一覧

離婚届など一生縁のない方もいらっしゃるでしょうが、縁が無いにしても一度くらいはその衝動にかられた読者は多いことだろう。裁判だ、慰謝料だ、養育費だということが頭よぎるだろうが、それらは派生に過ぎず、最低必要要件は実にシンプルで届けを役所に出すことで離婚は無事に成立する。

名前を間違える。名前が書ければ合格する学校などという表現もあるが、名前が変わる離婚届において、この名前を間違えることがありうるので、注意点を述べておこう。
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(1)に書く名前は、現在の名前である。喜び勇んで慌てて、ここに旧姓を書いてしまうと、残念ながら不受理となる。

続いて住所は、日本在住諸君はガイドライン通りであるが、海外在住諸君は、国名、そして住所を"日本語=カタカナ"で書くと良い。世帯主という概念は無いので空白でかまわない。

最も複雑なケースが
(4)結婚前の氏にもどる者の本籍 のところに書く 筆頭者の氏名 である
なので、戸籍の移動との関係も含めた入念な解説をしておこう。

ここに名前を書くのは、(2)に名前がある現在の戸籍の筆頭者の氏名とは、逆側の人物=非世帯主の配偶者に関与する氏名を記述することになる。

A)もとの戸籍にもどる にチェックを入れた場合
 A-A)非世帯主の配偶者が初婚の場合
  通常初婚では、戸籍は親の下に帰属していたはずで、元の戸籍は親・父親が戸籍筆頭者であることが多いので、一般には父親の名前を書く。
 A-B)非世帯主の配偶者が初婚でない場合
  A-B-A)前回の結婚で戸籍筆頭者の場合、戸籍筆頭者は離婚後も親の戸籍にもどることができないので、旧姓を書く。
  A-B-B)前回の結婚で戸籍筆頭者ではなかったが、離婚時に新しい戸籍を作った場合、戸籍筆頭者であるはずなので、旧姓を書く。
  A-B-C)前回の結婚で戸籍筆頭者ではなかったが、離婚時に親元の戸籍に戻った場合、初婚の場合と同じく親の名前を書く。
B)新しい戸籍をつくる にチェックを入れた場合
 B-A)元の姓にもどりたい場合は旧姓を書く。
 B-B)現在の姓を維持したい場合は、現姓を書く。

一番、重要なポイントは、A-B-A)の戸籍筆頭者の選択権が無いことである。これから結婚しようという諸君は、戸籍筆頭者になると離婚時に親の戸籍に戻るという選択肢は無くなる。そして子無しもしくは親権を取られた場合は、一人ぼっちの寂しい戸籍になる。またどうでも良い話としては、A-B-B)とB-A)は離婚後に出来上がる戸籍の仕上がりは同じになる。

(5)未成年の子の氏名、親権の設定であるが、これも現姓+子供名前で記述する。
そして最後の
(10)届出人署名押印も現姓で記す。

尚、離婚届には
◎必ず本人が署名してください
と書いてあるが、役所は本人署名を確認することもないので、本人の意思が確定している場合、本人署名の必要は無い。だが、それを良いことに勝手に配偶者の分も書いて提出すると、公文書偽造になるので、悪用しないように!

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つまらぬ人物が、精神、能力ともに矮小になればなるほど、彼に巨人のような力や独創性を求めず、むしろ尊重のずるさに甘んずる体制、ペリクレス(紀元前495-429、古代ギリシアの政治化、アテナイ民主政治の完成者といわれ、アレオパゴス会議の実権を奪って評議会を民衆際場所に移し、役人選出に抽選を用い、役人に日当を支給するなど国政の民主化につとめた)の賢明さよりもこの種の賢明さが好ましく見える体制を彼は称揚するに違いない。その際、こういうアホウは自分の行為の責任で決して苦しむ必要は無い。彼はこのような心配からはとっくに根本的に開放されている。彼は彼の「政治的不細工」の結果がどうであろうと、彼の運命がすでにとっくに定まっていることを十分知っているからである。思うに個々人の水準が低下するにしたがって大政治家の数が増すのが、こうした没落の兆候なのである。彼はしかし議会主義的多数への依存が増すとともに、だんだんと小さくならねばならない。というのは偉大な人物はバカな無能者や饒舌家の小使になるのを拒否するし、逆に大多数の代表者たちは-それはかくのごとくバカであるが-すぐれた頭脳のものを心から憎むものだからである。だがこの民主主義の発明は、最近になって真の恥辱にまで発展した特性、すなわち我々のいわゆる「指導者たち」の大部分の卑怯な特性に、最もぴったり応ずるのだ。いくつかの重要なことをすべて実際に決定する場合に、いわゆる大多数というスカートの陰に隠れることができるのは、なんと幸福なことだろう!

こういう政治の追いはぎを一度見るがよい。彼らが自分のために必要な共犯者を確保し、それとともにいつでも責任を逃れうるようにするために、大多数の賛成を心配そうに請け求めていることか。しかし、この種の政治活動は、心から上品で、同時にしかし勇気もある男は嫌がり憎むけれども、すべてのあさましい性質のものたち-自分の行動に対して個人的に責任を取ろうとせず、防御物を求めるものは卑劣なルンペンである-をひきつける主な理由がこれである。すなわち多数は決して一人の人間の代理ができない、ということである。多数はいつも愚鈍の代表であるばかりでなく、卑怯の代表でもある。100人の馬鹿者からは実に一人の賢人も生まれないが、同様に100人の卑怯者からは、一つの豪胆の決断も出てこない

国家事務を管理する内閣が選ばれるとしてもそれにもかかわらずこれはただ見せかけに過ぎない。実際にいわゆる政府は、まず事前に一般会議の承認を得なければ何も行うことができない。しかし最後の決定は政府には無く、議会の多数者にあるのだから、政府は同時にまた何も責任を問われない。どんな場合にも政府は、ただその時々の多数の意志の執行者であるにすぎない。人々は政治的能力を多数者の意思に順応するか、それとも多数者を自己にひきつけるか、という技術によって判断しうるだけである。職業とかあるいはまったく個人の能力とかにしたがっている選出された500人の民衆代表者たちの内部構成は、分裂して多くはまた哀れな像を生じている。というのは、これら国民から選ばれたものが、同様に精神や知性の点でも選ばれたものであるとはどうしても信じられないからだ! 才知あるとはいえない全ての選挙人の投票用紙からは政治家が同時に100人も生ずるなどと希望的に考えないでほしい。一般に普通選挙から天才が生まれるだろうなどというナンセンスなことにはいくら鋭く対抗してもしすぎることは無い。第一に、ある国民の中にはすべてが聖化されるぐらいの長い間に一度だけ真の政治家が生ずるのであり、、同時に100人もまたそれ以上に一度に出ることは無い。そして第二に、大衆が全ての優れた天才に対して感ずる嫌悪というものはまさしく本能的なものなのだ。選挙によって偉大な人物が「発見」される前には、らくだも針の穴を通っているだろう。

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最も重要な利害において、態度決定をするために必要な知識を持っているものが2,3人しかいないのになぜ500人も選挙するのか? しかり、まさにこれが事の真相なのだ。今日の民主主義的議会主義の目的は、おそらく賢人の会議を形成することでなく、むしろ精神的に従属しているゼロに等しい群を寄せ集めることにある。個々人の人格的偏狭さが大きければ大きいほど、一定の方向へ指導することがますます容易になる。ユダヤ的民主主義とは、正直で誠実で個人的責任をとる覚悟がある男はそれを憎まねばならないのに、このうえもない嘘つきで、同時に特に日光を恐れる潜行者だけに好まれ、価値があるものだ。一方、ゲルマン的民主主義とは、全ての責任を完全に引き受ける義務をおっている指導者を自由に選ぶ、真のゲルマン的民主主義である。そこには個々の問題に対する多数決は無く、ただ自己の決断に対して能力と生命をかけるただ一人の決定だけがある。


議会制民主主義の欠陥を痛烈に批判しておるな。この私も一票の価値はゼロであるという問題発言をしたことがあったが、偶然にもヒトラーが、「今日の民主主義的議会主義の目的は、おそらく賢人の会議を形成することでなく、むしろ精神的に従属しているゼロに等しい群を寄せ集めることにある。」と発言しているのには驚いた。500人もいる議会はその500人全てが立法機関のプロとして、成熟しているわけでもないのは明らかで、また対立する利害を調整するのは人数が多くなればなるほど難しく決定は遅くなり、革新や進化は起こりにくくなる。石破さんや小沢さんは一国会議員でありながらも(幹事長なのかもしれないが)立法家としての能力は他の国会議員の追従を許すレベルではないのは明らかであろう。そんな優れた立法家・政治家たちが国家・国民のために勇気ある政策決定を矢継ぎ早に断行するためには議会制民主主義は足枷以外の何者でもない。この民主主義に対する批判と挑戦とも思える主張は最もだし理解できなくも無い。それゆえドイツでは発禁本扱いにされているのだろうが、今の日本で読まれるべき本であると思えるので、ドイツ語に堪能な諸君はわが闘争をもう少しわかりやすく再翻訳して、日本で蔓延させることは愛国行為と言えるだろう。

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オーストリアにおける汎ドイツ主義運動は、一度次のように自ら問うてみるべきだった。すなわちオーストリアのドイツ主義の維持は、カトリック信仰の下では可能か、不可能か?と。もし可能ならばその場合政党は宗教上あるいはそのうえ宗派上のことにわずらわされてはならないし、もし不可能ならば、そのさいは宗教改革がなされねばならず、決して政党が介入してはならないのである。いつの時代にも非良心的な男が、宗教を自己の政治商売の道具にして平気でいるのだ。こういう議会の無能氏や怠け者には少なくとも後から、なお自己の政治的不正取引を合理化しうるような機会を提供されたときほど、好都合なことはありえないのである。というのは宗教やまたは宗派に彼の個人的な劣悪な言行に対する責任を負わせそのために攻撃するや否や、この嘘つき男は直ちに大声をあげて全世界に彼の今までの処置がいかに正しかったか、また宗教と協会の救済がいかに彼と彼の口先のお陰だけをこうむっているか、という証言を求めるからである。バカな忘れっぽい同時代の人々は、叫び声が大きいために、たいていはもう全闘争の真の主謀者を記憶していないか、忘れてしまっている。そこでこのルンペンは、いまや実際に本来の目的を達成するのである。

一人の敵への集中 汎ドイツ主義運動が、もし大衆の心理をもう少しよく理解していたならば、この運動はこんな失敗はしなかったであろう。人々が一般に成果を戦いとろうとするならば、純粋に心理的考慮からも決して大衆に2つまたはそれ以上の敵を示してはならない。そうでなければ、闘争力を完全に分裂に導くからだ。どんな時代でも本当に偉大な民衆の指導者の技術というものは、第一に民衆の注意を分裂させず、むしろいつもある唯一の敵に集中することにある。

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【国家権力による搾取】
2013.02.05 巨いなる企て 2/4 ~豊臣衰退の背景
2012.11.09|もっと知りたいインドネシア 1/3 ~歴史となり立ち
2012.08.23|ジャカルタに行ってきました 1/9~空港から中心部へ
2012.05.28|眞説 光クラブ事件 3/3 ~国家権力との闘争
2012.03.19: 下山事件 最後の証言 1/2 ~国鉄合理化
2012.01.10: 競争と公平感 市場経済の本当のメリット 3/3 ~規制と経済効果
2011.10.12: 日本中枢の崩壊 1/2 東電
2011.08.05: 金賢姫全告白 いま、女として2/6 ~今、君が嘘をついた
2010.10.14: 道路の権力1
2010.08.24: 中国の家計に約117兆円の隠れ収入、GDPの3割
2010.07.05: 警視庁ウラ金担当
2010.05.20: 秘録 華人財閥 ~独占権、その大いなる可能性
2008.09.24: 俺の欲しいもの
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.07.18: Olympic記念通貨に見る投資可能性






「投資・投機・ギャンブルの違いを述べよ。」と著者に問い詰めたくなる。正解はないが、どのように答えるかで、その人の考えやこだわりがわかる。私の考えでは、

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投資とは、リスク・プレミアムを受ける行為、ギャンブルとは、リスク・プレミアムを払う行為。
投資とは、資産価格で認識する取引態度、投機とは、損益だけで認識する取引態度。

リスク(Volatility)が高いほど、高い期待値を求められる証券市場・金融市場のインストルメンツは投資となり、リスクが高いほど期待値が下がる富くじ、競馬、パチンコなどはギャンブルと規定される。一方で、投資・ギャンブルの区別はインストルメンツに帰属する判別かというとそうでもないので、あえてぼかして行為と書いているのだが、金融市場のインストルメンツでプレイしていたとしても、高いレバレッジをかけて、高い金利を払いながら株・先物・FXに挑む行為はギャンブルに近い行為と言えよう。

時価総額、NAVを認識するファンドは投資だが、損益で認識するトレーディングは投機。一物多価の解消であるアービトラージも、その差額にのみ注目しているので投機的行為。差金決済の先物や、Max(S-X,0)という差が取引対象というオプションは投機的インストルメンツなのである


世界的なインフレの過程の中で発生した「石油ショック」の圧力を軽減する努力に、日本の民間企業はそれこそ総力を挙げて取り組んだのであり、それがまた、日本商品の国際競争力を一段と強め、そこから今日の世界最強の競争力が生まれたという事実をもたらしたのである。「石油ショック」の当時を振り返っても日本の企業経営者は、まず第一に「販売価格=生産コスト+適正利潤」という米国型の企業経営者に共通した認識そのものが、日本国内市場では通用しないという原点から出発せざるを得なかった。戦後の日本経済の特徴は、国内市場でのきわめて熾烈な競争である。競争相手よりも安いコストでよりよい製品を生産する体制を築き上げなければならない。生産コストとは無関係に市場での競争で決まる販売価格に、いかにして生産コストを合わせるかという課題の解決のために日本の経営者は従業員の勤労意欲を刺激する一方、徹底した技術革新の導入に、全力を挙げなければならなかった。

競争の激しさは単に価格面だけではなく、品質、性能、信頼性に加え、納期、アフターサービスなど非価格面にも及んでおり、この厳しい競争に勝ち抜くだけの実力を備えている外国の民間企業はきわめて少数で、日本国内市場に関する限り、日本企業の優位は動かない。だが、こうした変化そのもの、すなわち価値の高まる「日本円」を、是が非でも入手しようと激しい競合が展開することで、日本の国内市場の競争は、「円高」とともに急激に激しさを加え、それがまた日本の企業経営者にとってはなによりも強い不安感を抱かざるを得ない背景なのである。しかもこうした国内市場での競争の激化を一段と強める「自由化政策」が進行する中で、その大きな柱の一つ「国有企業の民営化」が、これまた伝統的に国有企業との人的な結びつきによる既得権の崩壊を作り出している。たとえば、62年4月民営化された国鉄をとっても、これまで輸送業務だけを担当してきた国鉄が、たとえば積雪地帯であれば駅前にスキー場を開設、貸しスキーを始めることで地元の観光業者と激しく競合をはじめた。地元の観光業者にして見れば、これまで国鉄はお客さんを運んでくるお得意様だった。それが一転して、スキー場あるいは貸しスキーで直接競合する状態に追い込まれたとき、お客を連れてくる国鉄が、こうした能力を持たない地元のスキー場経営者、貸しスキー店の経営者に甚大な打撃を与えることは避けられず、彼らは今になって、国鉄民営化が彼らの既得権そのものを根底から覆す新しい「経営環境」を生み出したことにいやでも気づかされている。同様のことが、あらゆる国有企業の民営化に当てはまる。

郵貯の民営化は金融機関には大きな衝撃を与えることになるだろうな。

1986年に発生し、かつ定着した「デフレ」が日本一国の問題ではなく世界経済にわたっての共通した流れであることは疑いない。

ブブー

スペキュレーション時代とは
「スペキュレーション」は人類が経済活動を始めて以来、市場の成立とともに発生した商行為である。

鉄鉱石、石炭が商品取引所に上場されていなくても、これまでの経験から同じパターンの価格変動を示す上場商品を見出して、鉄鉱石、石炭の購入契約と同時にこうしたほかの上場商品に「カラ売り」を思い切って仕掛けておく投機を経営戦略に織り込まない限り、デフレが続く間は鉄鋼会社は相対的に高い原料を仕入れて、完成鋼材を安く売る逆ザヤ現象から身を避ける手段を持ち合わせることができない。

え? 何この素人発言? 著者の長谷川慶太郎、あー、経歴見たら日本の経済評論家。だって。評論家とは、理論的な整合性が求められる法則や法律などを、一切作ることはできないが、「あるあるー」と民の共感を得ることだけが求められる「格言やコトワザ」というレベルの発言が得意な職業。と個人的に思っているので、この素人発言っぷりは、納得なのだが、このノリが本一冊分続くのは多少苦痛ではあった。

今や世界全体にわたって、あらゆる業種を問わずすべての民間企業は少しでも低い利率で多くの資金を調達し、その資金を「投機」に投入して、利ザヤを稼ぐ以外に収益を確保する見通しを持たない。「財テク」は、企業経営の中心的な役割を担う時代が来た。

これねぇ・・・、このままだと間違いなんだけど、ちょっと言葉を変えれば正しくなる。なんだろね、言葉づかいも、素人臭さを感じるな。財テクという言葉使いは時代を考慮すれば否定しない。

民間企業では最も効率がよいと期待される方法で資金調達し、その資金を「投資」し、M&Aという形で企業買収、分離などをしないと、従業員がいくら努力しても、企業成長は難しい。この投資活動こそが企業"経営"の中心的な役割を担うであろう。

だったら日本の経営者にお灸をすえる良い言葉になったと思うんだがね。


個人生活の投機化

デフレ時代の定着は個人生活の基本設計に重大な変化をもたらす。第一に長年インフレ時代とともに定着してきた土地神話が消滅し、これまで個人生活の基本であった長期ローンを組んで持ち家に住もうとする生活設計は、その有効性を急速に失いつつある。またデフレとともに金利の低下現象が著しく、かつて個人の金融資産を形成する上に、もっとも大きな役割を果たしてきた預貯金による資産形成は、これまた急速に終止符を打たれようとしている。その上、「マル優」の廃止が税制改革の柱として定着した中で、一段と「金融の自由化」が進行し、これに伴って金融市場、証券市場の「投機化」が一層個人の金融資産形成に「投機」の要素を持ち込んでくる。

「マル優」廃止の意味

昭和62年度税制改革の基本路線が決定した中で、最も重要な、かつ長期にわたって影響を与えると判断されるのは、「マル優」の廃止である。明治初年に当時の政府が日本国民に「勤倹貯蓄」の精神を植え付け、近代的な金融制度を導入する基盤としての郵便貯金制度を開始してから今日まで100年以上を経過したが、この間利子所得に対する免税という便宜を与えて、個人の金融資産の蓄積を奨励する政策を続けてきた。「マル優」の適用を受ける貯蓄残高は「マル特」と呼ばれる一人300万円までの国債保有を含めて、昭和61年9月末には、約300兆円に達したと推測される。この300兆円という金額は1ドル150円で換算して、2兆ドルに相当し、米国政府の発行した長期国債の残高2兆ドルとほぼ同水準。世界経済を撹乱する危険をはらむメキシコ、ブラジルなど発展途上国の累積債務の総額とされる約1兆ドルの2倍である。「マル優」という制度は利子所得に対する免税という鎖で、これだけ巨額の資金を日本国内金融市場に縛り付けておく制度であった。これが廃止されることで「金融の自由化」は急速に進展する。

マル優廃止しても、金融自由化、特に預金に関しては何も変わらなかったよね。その後は円高政策で、外貨に対する恐怖心を植え付け、金利0でも円で置いておけば安全という、円神話は存在しているのではないだろうか。


これからの世界はどう変化するか

すでに挙げたように、現在の世界は急速に戦争の脅威から遠ざかっている。米ソ両国をとってもそれぞれ軍備の拡張を維持することはおろか、現行の軍備それ自体を維持することももはや不可能な状態になりつつある。「米軍は弾薬を持たず、ソ連軍には兵隊がいない。」 現実に、年間3000億ドルもの軍事費を投入している米軍は、意外に弾薬の不足に苦しんでいるし、ソ連では1982年以来、在学中の大学生を現役兵に徴集している。もはや軍備を縮小する以外に、ソ連は経済を再建する機会はない。また、同時に米国にとっても軍事費の削減、それは財政赤字の縮小、したがって減税を通じての経済の再活性化を意味している。世界は今や「戦争と革命」の時代の終末を迎えつつある。また同時にそれが世界的な物価の低落、デフレ現象を推進していく最大の原動力なのである。

この本1987年の発行なのだが、アフガニスタン内戦、その後1990年にはユーゴスラビア・NATO空爆と、どうみても戦争と思えるイベント目白押しで、この人は何を見ていたのかね?

「投機(スペキュレーション)」の時代「投機(スペキュレーション)」の時代
長谷川 慶太郎

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2008.12.11: Derivativeの名訳
2008.02.26: インテリジェンスをかもし出すモノ言い
2008.01.31: ガンマ無き者はデリバティブに非ず









ある時私が市の中心部を歩き回っていると、突然長いカフタンを着た、黒い縮れ毛の人間に出くわした。これもまたユダヤ人だろうか? というのが私の最初に考えたことだった。彼はリンツではもちろんそのような外見をしていなかった。私はひそかに注意深くその人物を観察した。だがこの見知らぬ顔を見つめれば見つめるほど、そしてその特色をさぐるように調べれば調べるほど、ますます私の頭の中で最初の疑問が他の表現に変わった。 これもまたドイツ人だろうか? 私はいつものように、この疑問を本から引き出してみようとし始めた。当時私は数ヘラーほど支払って私の生涯ではじめての反ユダヤ主義のパンフレットを買った。遺憾ながらこれらのパンフレットは、すべて原則として、読者がすでにユダヤ人問題を少なくともかなりの程度まで知っているか、きわめてよく理解しているという立場から出発していた。けっきょくその論調は大部分、その主張に対する非常に浅薄で極度に非科学的な論証であったため、私はまたしても疑いを生ぜしめるようなものであった。私がこの問題に没頭し始めて、ユダヤ人に注意するようになって以来、ヴィーンについて以前と違った印象を受けたからである。いつも私が行くところで実際にユダヤ人を見た。そして私が見れば見るほど、彼らが他の人間と違っているのが、ますますはっきりと見えてきたのである。特に市の中央部とドーナウ運河の北部の区域は、外見的にもドイツ民族と似通っていない民族が密集していた

ヴィーンではかなり広範囲に彼らの間で大きな運動が行われていたが、これこそユダヤ人の民族性をこの上も無くはっきりと証明するものであった。すなわちシオン主義がそれである。この民族の道徳上の、あるいはそのほかの清潔さと言うもの自体が問題点であった。水好きでないことが問題であることは、人々がその外見を見ただけで、遺憾ながら往々にして目を閉じていてもわかる。その後私は幾度もカフタンをまとっているものの臭気で気持ちが悪くなった。その上なお、汚い衣服をつけているし、外貌も雄雄しくない。すでにこうしたものだけでも、はなはだ人をひきつけるところが無い。肉体的な不潔以上にはからずも、この選ばれた民族の道徳的汚点を発見したときは、嫌悪の情を抱かずにはおれなかった


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ヒトラーが言うところの当時のドイツにいた"ユダヤ人"とは何者だったのだろうか? 現代でも「ユダヤ人とは何者か?」という誰も答えられない難問ではあるのだが、カフタンで黒髪でトルコ系移民のことを指していたのだろうか。ここでは少なくとも見かけで判断しているので、アシュケナージかスファラディかくらいでは語れそうではあるが、アンネの日記の写真で見る限りでは、少なくともパレスチナ人をユダヤとは言っていそうも無い。


社会民主党の指導者としてのユダヤ人 彼らは同じ問題について時には数日で、往々にして数時間で、色々の立場をとるのだ。人間と言うものは一人でしゃべっておればいつも理性的な考え方を持っているのに、それが大衆の勢力圏に入ってしまうと、どうして突然失われるのか私はわからなかった。しばしば絶望的になった。私が何時間もかかって説得し、こんどこそ端緒を開いてやった。あるいは不合理を啓蒙してやったと確信して、成功を心から喜んでいると、次の日にはがっかりしてもう一度初めからやり直さなければならなかった。すべては無駄だった。永遠の振り子のように、彼らの常軌を逸しているような考え方がいつも新たにはねかえすように思えた。彼らが自分たちの宿命に不満であり、彼らをしばしばそんなにも過酷にうちのめした運命をのろい、かれらがこの運命の無情な執行人と考えている企業家を憎み、彼らの目から見れば自らの遭遇に対して無情な当局を罵倒し、食品価格に対してデモを行い、彼らの要求のために街を練り歩いたこと、これらすべてをそのとき私は理解することができた。しかし理解できなかったものは、彼らが事故の民族性を憎悪し、その偉大さを侮蔑し、そして偉大な人々をドブに引きずりこんだ果てしない憎悪の念であった。

ユダヤ的詭弁 社会民主党の新聞が圧倒的にユダヤ人によって指導されていることに私は次第に通暁した。しかし私はこの状態に、特別の意味を負わせなかった。他の新聞の状態も同じようであった。おそらくは一つだけ異様なことがあった。私の受けた教育と理解力が及ぶ限りでは真に国家主義的と称される新聞でユダヤ人が関係しているものが一つもなかった、ということである。そこで私は我慢してこの種のマルクシズムの新聞記事を読もうとしたが、それに応じて毛の間が無限に大きくなってくるので、今度はこの総括的な悪事製造者をもっと詳しく知ろうとした。発行人をはじめとして、みんなユダヤ人だった。議会の代議士を問題にしても、労働組合の初期を問題にしても、また組織の議長、街頭の先導者を問題にしてみても、そのほとんど大部分が同様に「選ばれた民族」に属しているものたちであった。アウステルリッツ、ダーヴィット、アドラー、エレンボーゲン等の名は永遠に忘れないだろう。


排他的だなー・・・。ユダヤのメディア・労働組合・政党を批判している。


オーストリアのドイツ人 オーストリアといわれる他民族組織はついに没落したが、これは決して古くからオストマルクにいるドイツ人の政治的手腕のせいとは言えず、時機を得たときにまったくしっかりした前提を与えられなければ、1千万の人間でもって種種の民族からなる5千万人の国家を永続的に維持することができない、という避けえない結果であった。ドイツ系オーストリア人は大志を抱いていた。彼らは常に大ドイツ帝国の枠内で生活することに慣れており、ドイツに関連している課題に対する感覚を決して失っていなかった。彼らはこの国家において、狭いオーストリア帝国直轄地の境界を越えて、なおドイツの領域を見ていた唯一の人間であった。そのうえ運命が彼らをついに共通の祖国から分離したとき、彼らはこの巨大な課題を解決し、祖父たちが絶え間ない闘争でかつて東部からもぎ取ったドイツ主義をいつもなお維持しようとしたのだった。最も優れたものの心と追憶は、決して共通の母国を感ずることをやめたのではなく、ただその残余だけが故郷にとどまっていたからである。
 ドイツ系オーストリア人の一般的視野は比較的広かった。技術屋や官吏という指導的人員は大部分、ドイツ系オーストリア人によって占められていた。だがかれらはまた、ユダヤ人がその固有の分野に手を伸ばさない限り、外国貿易の担い手でもあった。政治的にもドイツ系オーストリア人だけがなお国家をまとめていた。ドイツ系オーストリア人の新兵は、その連帯自体はヴィーンやガリシアはもちろんのこと、ヘルツェゴーヴィナにもおかれていた。将校団は常にドイツ人であったし、上級官吏階級も優勢だった。最後に芸術や科学もドイツ人が優勢だった。異色人種でも間違いなく無造作に作り出せるような近代芸術表現のキワ物をのぞけば、真の芸術精神の所有者や普及者は、ただドイツ人のみであった。音楽、建築、彫刻、絵画でも、ヴィーンは決して実に見えるほど枯渇しておらず、汲めども尽きぬ豊富さで、この二重王国全般をささえている源泉であった。最後にドイツ人は少数のハンガリー人をのぞけば、すべての外交の担い手であった。かれでもなお、この帝国を維持しようとするすべての試みは無駄であった。そこには本質的に前提が欠けているからである。

オーストリアと言う多民族国家のために、個々の国民の遠心力を克服する可能性はタダ一つだけであった。この国が中央集権で統治され、それでもって内政的にも組織されるか、あるいは国家が一般に考えられぬかであった。帝国をもっと連邦国家的に形成するという考えはすべて、すぐれた権力ある強力な国家的胚細胞を欠いているため必ず失敗に終わらねばならなかった。そのうえ、ビスマルクのつかんでいるドイツ帝国と反対に、オーストリア国家には別の本質的な国内的前提条件が加わっていた。ドイツでは常に文化的に共通の基盤があったから政治的伝統を克服することだけが問題であった。何よりもまずドイツ帝国は、少数の異民族の破片をのぞけば、一民族に属するものだけを包括していた。オーストリアでは状態が逆であった
 今やいろいろの地方で他民族主義の時代に入って、民族主義的勢力が発展し、その克服は王国の辺境に民族国家が形成され始めるにしたがって困難にならざるをえなくなった。その諸民族は人種的にオーストリアに散在する個々の民族と同類化類似していて、彼らの側では、逆にドイツ系オーストリア人がなしうる以上の引力を、それ以来及ぼすことができたのである。古いオーストリアは、他国以上に指導力が大きくなければならなかった。そのうえにここには-指揮そのものも非常に無能だったが-民族主義的な基礎の上にたえずその維持力をもっている国民国家の基礎が欠けていた。


オーストリアに対する懸念。そしてそこから議会主義批判へと発展していく。


議会主義 はっきりとオーストリア王国の腐食を示しうる制度の中で、その先端にあって、最も多くその力を自己のものとして持っている制度が-議会、あるいはオーストリアでいうライヒスラート(帝国評議会)である。この団体の手本は明らかに、イギリス、すなわち古典的「民主主義」の国にあった。そこからこの恵まれた機構を完全に転用し、それをできる限り変えずにヴィーンに置いたのである。衆議院と貴族院という形でイギリスの両院組織がその再生を祝った。

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 ただ「建物」」自体がいくらか違っていた。バリィ(サー・チャールズ・バリィ、1795-1860年、イギリスの建築家でロンドンの国会議事堂をつくったが、イギリス・ゴシック式を採用し、イギリスの建築彫刻の一大飛躍をなしたといわれる。)がかつてテムズの洋々たる流れから議事堂を作り上げたとき彼は世界に冠たる大英帝国の歴史の中に手を入れ、その中から彼の壮麗な建築物の1200の壁がん、腕木、柱の飾りを選び出した。そのようにして彫刻と絵画で、上院と下院は国民の名誉の殿堂になった。ヴィーンにとってはここに最初の困難があった。というのはデンマーク人ハンセンが、新しい民衆代表の大理石建築に最後の破風をつけ終わったとき、彼は装飾を古代芸術から借りてくる以外に方法が無かった。ローマやギリシアの政治家や哲学者が今ではこの「西欧的民主主義」の劇場の建物に美をそえ、そして象徴的な皮肉とも言えるものは、両院の上に四頭立ての馬車が東西南北の四方の天空に向かって引っぱりあい、これによって当時国内で行われていたことを、外部に最もよく表現していることである。「諸民族たち」はこの建物の中で、オーストリアの歴史が賛美されているのを侮辱であり挑発であるとして拒否した。


さすが建設と歴史には造詣が深い。国会議事堂の建造物から否定してきたかw

【民族意識系】
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2013.01.21|民族世界地図 1/2
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2012.04.25|美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
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2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本

人を説得しうるのは書かれた言葉によるよりも、話された言葉によるものであり、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な演説かにその進展のお陰をこうむっている、ということを私は知っている。けれども教説を規則的、統一的に代弁するためには、その原則的なものが永久に書きとどめられねばならない。それゆえ、この両巻を私が共通の事業に加える礎石たらしめんとするのである。

戦争の感激 私はいろいろな軍事問題の書物を手にしたが、その中に1870年ー71年の普仏戦争の普及版があった。これが私の愛読書になった。まもなくこの偉大な英雄的戦争が、私にとって最大の内面的な体験になった。以後私は、戦争とかあるいはとにかく軍制とかに関係するあらゆることに、ますます熱中した。はじめて まだ非常に漠然たる観念ではあったが この戦闘をするドイツ人と、他のドイツ人との間に相違があるのだろうか?それはどんな相違なのだろうか?という疑問がしつように迫ってきた。なぜオーストリアはこの戦争にいっしょに戦わなかったのだろうか?父もまた他のドイツ人たちみんなもなぜ戦わなかったのだろうか?我々もまたすべてのすべてのドイツ人と同じではないだろうか? 我々は、みんなともに一つの全体をなしているのではないのか? すべてのドイツ人がビスマルクの国家に属する幸福に浴していないのだ、という答えを聞かされて、私は内心で嫉妬を感じた。


わが闘争は、多分、ヒトラー自身のオリジナルの発言と文章が、かなりクレイジーで、その日本語訳だから、この本は常にこんな感じの"難解"な文章で書かれているが、なんとなく骨子は理解できるという次元なので、決してご推薦図書にはできない。ともあれ、数年前から読もうと思っていたドイツ発禁本扱いの「わが闘争」をじっくり時間をかけて読んでいこうと思う。


歴史教育 いわゆる中等学校での世界史の教育は、もちろん現在でもなお非常にひどいものである。歴史教育の目的が、決して歴史上の日付や事件の暗記や棒読みすることではなく、いつあれやこれやの戦争があったとか、将軍が生まれたとか、ある君主が先祖代々の王冠を頭に頂いたとかいうことを子供が正確に知っていてもいなくてもどうでもよい、ということを知っている教師はまことに少ない。

歴史を「学ぶ」ということは、歴史的な事件として我々の目に見えるものを、実際に引き起こした原因としての力を発見し、見出すことである。

ハープスブルグ王家がやったことについての歴史的認識は、日々の見聞によっていっそう固められた。北部においても南部でも異民族の肉体を蝕み、ヴィーンすらもますます非ドイツ的都市に見えてきた。「オーストリア大公の家」はいつもできるかぎりチェコ化した。そしてオーストリア・ドイツ主義の最も憎むべき敵、皇太子フランツ・フェルディナント大公を弾丸で倒したものはとりもなおさず、永遠の正義と仮借なき報復を下す神の鉄拳だった。その弾丸は大公自らが鋳造を助けたものである。だがかれこそ天下り式にオーストリアをスラブ化しようとしたパトロンだったのだ!


この本を読む前に、ドイツの歴史も復習しておこう。

1871年~1918年ドイツ帝国、1918年に第一次世界大戦の敗戦と革命で帝政は崩壊し共和制へ移行することで消滅。
1862年シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、1866年普墺戦争、1870年普仏戦争でナポレオン3世をうちやぶることでドイツ帝国が生まれた。
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1815年~1866年ドイツ連邦
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1807年~1815年ライン同盟
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~1806年の神聖ローマ帝国の崩壊
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国民的誇りの欠如 わがブルジョアジーが、みじめな浮浪者の口から、ドイツ人であろうが無かろうが同じことであり、ただ必要な収入さえあればどこでも同じように満足だ、ということを聞いて、何度道徳的憤慨を感じたことだろう。文化的、芸術的生活のすべての領域における祖国や国民の偉大さを個々無数に思い出すことが、総合的な結果として恵まれた民族の一員であるという当然の誇りを彼らに持たせているのだが、それをどれだけ多くのものが理解しているだろうか。祖国への誇りが、これらすべての領域での祖国の偉大さを知ることにかかっている、と少しでも感じているものが、どれほどいるだろうか

「他の国でもやはり事情は同じだ」しかしそこの労働者はやはり自分の国民性に立脚しているのだ、と人々は言い逃れることはできない。よしんばそうだとしても、そういうことが自分の怠慢の口実にはなりえない。だが事実はそうではない。というのは、たとえば我々がいつもフランス民族の「偏狭な愛国主義」教育と称しているものが、やはり文化の、フランス人の言葉と言えば「文明」の全分野におけるフランスの偉大さを、極度に引き立てている以外の何物でもないからだ。若いフランス人は、彼の祖国の政治的あるいは文化的偉大さの意義を問題とする限り、決して客観性を持つようには教育されず、かえって人々が考えうる限りの主観的観点に立つよう、教育されるのである


ヒトラーのおフランスに対する嫉妬心。客観性の無い偏狭な愛国主義教育だって。今でもそうだな「おフランス至上主義」。


愛すべき当代の市民たちは、この若い公民に国民的情熱が欠けていることをにまったくあきれる。彼らは演劇や映画や、また三文文学やエロ新聞で、毎日毎日、おけから水を流すように民衆の中に毒が注ぎ込まれるのを見るのだ。そしてそれについて、この民衆の大群の道徳的内容の少ないことや国民的無関心さに驚いている。あたかもインチキ映画やエロ新聞やその類似物が祖国の偉大さを認識させる基礎を与えているかのようにである。個々の人間がそれ以前に受けた教育についてはまったく度外視している。
 国民化の予備条件 ある民族を「国民化」する問題は、まず第一に各人に教育を与えうる基礎として健全な社会状態を作るということである。というのは教育と学校によって祖国の文化的、経済的な、なかんずく政治的な偉大さを十分知るものでなければ、かかる民族の一員であり、またありうるという内心の誇りを獲得することができないし、また獲得しないであろうからだ。そして私は私が愛するもののためだけ戦う。私は尊敬するものだけ愛し、少なくとも知っているものだけを尊敬するのである。


総統閣下が憂いておられる。労働者階級家庭で育てられた少年の未来を憂いておられる。金銭や経済的なことばかりに注意が行き、国民としての意識、民族を愛することを忘れている


新聞のフランス崇拝 私の神経に障ったのは、そのころすでに大新聞が書いていた実際いやらしいフランス崇拝だった。人々はこの「偉大な文化国民」に対する甘ったるい頌歌を目の当たりにして、まったくドイツ人たることを恥じねばならなかった。このあわれむべきフランスかぶれが、一度ならずしばしば、私にこの「世界的新聞」を投げ捨てさせた。私はそこでいつも繰り返し「ドイッチェ・フォルクスブラット」を読んだ。

【ヨーロッパの戦争・内戦・紛争】
2013.02.20 聖戦ヴァンデ 2/3 ~募兵と蜂起
2012.11.27 ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 2/3 ~NATO、国連
2012.07.31|マキアヴェッリと君主論1/4 ~1500年当時のイタリア
2012.04.06: 金融史がわかれば世界がわかる 4/6~ポンドからドルへ
2010.07.16: ドイツの傑作兵器・駄作兵器
2009.06.05: 現代ドイツ史入門
2009.05.05: 民族浄化を裁く ~ボスニア




祖母の歌

遥か昔の話、25年くらい前だと思うが、祖母が生きていた時代、祖母の家に行った時のことだ。その時、祖母と、そして私の妹と百人一首を興じたことがある。当然ながら祖母は百人一首の勝負に興味は無い。祖母が絵札を読み、読み終えてから、祖母は探し始め、かつ我々二人に花を持たせるため、祖母はかなり控えめに札をとる。時折、札が遠い時は、杖を使って、トンと取る。

百人一首の歌は今となっては、ほとんど覚えてないが、一つだけ覚えている

久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ

下の句は、御覧の通り、「しづこころなく」から始まる。祖母の名はしずこという。私と妹は、祖母が子供の頃の武勇伝をよく聞いていた。
「百人一首のこの句で、『はい!』と一番に取った。そして『さすが、しずちゃん、下の句は"しづ"だからなぁ』と言われた。」
つまり、この紀友則の句は、祖母の句であった。それにも関わらず、妹は「花の散るらむ」と同時に「はい!」と発声して字札をとった。寒い・・・、どこまでもサムイ妹だと思わんかね? 親の財布から金を盗むわ、俺の部屋を荒らすわ・・・。頭が悪いのかな? 百人一首の一句も覚えられない気の毒な妹なのかもしれん。血を分けた妹とは言え、これから将来の投資一族の一員として、数えようと思うかね?

女系一族家の筆頭である祖母は、一族の頂点に君臨しており、偉大なる我が母も絶対に逆らうことができなかった。祖母は特に私の体調管理にはうるさかった。

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祖母は息子(私から見ると伯父さん)、邦男さんを亡くしていた。15歳の時だったそうだ。当時の結核といえば不治の病で、感染のリスクが高いため隔離病棟に移されて死を待つばかりという重病だった。祖母は果敢にも決死の覚悟で邦男さんを何年にも及んで看病し、その間、私の母は曾祖父の家で母親以外に育てられた。だが、邦男さんは、残念ながら亡くなってしまった。祖父は戦争から帰ってきたら、息子が結核に犯されていると聞かされた。祖母はよく邦男さんの話を私にした。女系一族家で私が一族家の血を継ぐ唯一の男であったこと、理科の趣向を持っていたことが、邦男さんを彷彿とさせたようだ。「邦ちゃんも算数が好きだった。知恵の輪も得意だった。力ではなく、頭で外すんだ・・・無理なくすーっと外せるはずだ・・・」と知恵の輪でよく遊んだことを覚えている。「我々はみんな文科の家系だが、嘉一さん(私の曾祖父)と邦ちゃんは理科だった。将来は理科に進むのかね?」と祖母によく聞かれた。

祖母にはよくしてもらっていたが、祖母に言えないことがあった。風邪をひいた、怪我をした、近視であること、このような身体に関するマイナスのことは、母からの厳命で、祖母に言うことを禁止されていたからだ。このようなことが祖母にバレると母は「子供の体調をしっかりみてやるのがお前の役目・・・」から始まる厳しい叱責を受けることになる。怒鳴られたりすることは無いが、祖母の言葉は非常に重い。母にしてみれば、祖母は邦男さんにかかりきりで自分は放っておかれたという感があるのか、叱責を受けた後は「死んだ子は可愛い。頭の中で理想化されるからな。男の子が死に易いなんてのは現代の考え方ではない。」と吐き捨てるように言っていた。

邦男さんを亡くしたことが祖母にとってどのくらい大きかったのか、私はそれをリアルタイムで見ていたわけではないが、それがわかる時があった。祖母と祖父はよく口喧嘩をしていた。祖父は怒ることを忘れた一族家の婿であるから、通常は祖父の無駄遣いを祖母が指摘し、祖父は黙っているという光景である。勢い余って一度だけ祖父が「お前が邦男をXXXに連れていくから・・・」、XXXが地名だったのか施設の名前なのかは忘れてしまったが、邦男さんの結核の原因を追及しているような会話だったような記憶がある。祖父の言葉少ない指摘であったが、あの穏やかな祖父が喧嘩の勢い余って、思わず言ったというより、静かな怒りが感じられる目をしていた。その時だけは祖母が黙っており、とてもつらそうな顔をしていた。邦男さんが亡くなってから50-60年経っているはずだが、かなり深い溝があるのがわかった。

私にも、そして私の母にもわからない感覚だが、不幸にも子供を亡くしてしまった親が背負う罪悪感は、おそらくかなり重い。殺人をして、うまく逃げたりすると、一生罪悪感に悩まされるとよく言われているが、それと同じくらいの感覚であろう。不慮の事故や病気ゆえ、罪ではないので、裁判も刑期もないから余計にふっ切れない罪悪感が残るのかもしれない。


さて、そんなことを意識しながら・・・、映画「ぽっぽや 鉄道員」(1999年)、高倉健 見てみましょう。
1回目の鑑賞では「ゆっこか・・・」 で涙腺崩壊
2回目の鑑賞では「今度1年生になるの」 で来るぜ・・・。

【一族家のお家騒動】
2012.01.16 自分が父親になるのが楽しみな理由
2011.11.14: ギリシャ神話と親子対決
2011.10.06: 一族家の食卓
2011.02.10: 母がシンガポールに遊びに来ました
2010.05.24: 親父に対する息子の愛
2009.09.17: 名前をカタカナや漢字で書いてはならない 
2009.05.08: 私はカネ目当てじゃない ~怒りの代償 
2009.04.09: 金(カネ)の重み 
2009.02.13: 女系家族の掟 
2008.07.09: 妹が見た悪夢 
2008.03.17: 一族家における投資教育 ~貯金と金利



ツイッターに、「彼氏がいたらこんなことをしてみたい! してほしい!」ということをあれこれ想像してつぶやく「#彼氏いません」というハッシュタグが登場し、女性陣の豊かな想像力の秀逸さは様々な反響を呼んでいる。

このハッシュタグ(ツイッター上の“お題”)「#彼氏いません」は、2月の初めにツイッター上に登場したもの。例えば、

「家で格ゲーしてたら隣でごろごろしてた彼が私のふとももにアゴのせてきて『ひまー』だって、可愛いw」
「漫画のキャラ名をツイッターで『○○君カッコいいい』って叫んだら、彼氏が妬いて『○○って誰だよ…』ってメールしてきて…」

といった具合に“萌えるシチュエーション”をツイートし、最後に「#彼氏いません」というハッシュタグをくっつけることで、すべてが妄想だったことを明かす流儀になっており、あまりの盛り上がりぶりと内容の“キモさ”が話題となって、「NAVERまとめ」や「Togetter」などで、ツイート内容が次々とまとめられている。

そして、この盛り上がりに嫉妬(?)した男性陣から、ほどなく「#彼女いません」というハッシュタグが登場し、さらに「#弟いません」「#妹いません」といった改変バージョンまで登場。むなしくも楽しいこの“恋愛想像ごっこ”に対し、ツイッターユーザーからは「#彼女いませんと、 #彼氏いませんの人同士でなんかこう、なんとかならんのか」という声もあがっている。
(R25編集部)

「彼女がいたら」が、縁遠すぎて、想像できなくなっている。「してみたいこと、してほしいこと」、もう少し深く掘り下げて、「俺のためにしてほしいこと」は無い。自分自身のために、何かやって欲しいね。いつも言っている「自らの道を、自らの足で歩む」だ。その結果として、Cash Flow Positive、消費以外のお金の使い道を理解し、実践している と同義だが、これだと前進がないので、

今日はマズローの欲求段階説を当てはめてみることにしよう
マズローは、人間の基本的欲求を低次から
1.生理的欲求(physiological need)
2.安全の欲求(safety need)
3.所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4.承認の欲求(esteem)
5.自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。

ここで質問だ。マズローの欲求段階説の5段階で3番目より上の段階の欲求を持っている女性は、ほとんどいないという学説の真偽のほどをいかに考えるか?

物欲は2の範疇、3の所属と愛を求めている女性は、大勢いるので議論の余地はないだろうが、
承認の欲求とは、自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求 

上記のツイッターの2例にしても所詮は3番目の所属欲求にすぎない。
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「自分が夫から価値ある存在」、「自分が特定の男から価値ある存在」というのは集団ではないので3の男への所属欲求。
「夫が集団から価値のある存在」、「子供が集団から価値のある存在」というのは自分自身ではないので、3の欲求であろう。

どんな女が良いか? と問われて、「自らの道を、自らの足で歩む」だと抽象的すぎてボヤけてしまう。
「Cash Flow Positive、消費以外のお金の使い道を理解し、実践している」は主眼がカネにあり、いやらしい感じが否めない。

「良い女とは、マズローの欲求段階説の4番目の承認欲求、自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求を持っている女のこと。」

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2008.06.27: 感謝の言葉を忘れない男
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投資一族のブログ読者の妻の皆さま、こんにちは。今日は奥様に、ちょっと耳よりなお話です。男の世界、つまり会社などで、飲みのお誘い、ゴルフのお誘いなど色々あると思いますが、参加できない時、一番使われる口実は、

「ちょっと妻が・・・」

です。
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妻がなんなのか も明らかにされないので、状況はわからないのですが、問題は述語がないことではなく、"妻が"の"が"です。妻じゃなくても良いんですよ。「子供が」、「彼女が・・・」、そんな口実をしたことある男性読者諸君、貴君は民だよ。男らしく言うならば、

「ちょっと妻と・・・」だ。

「妻と」に隠されているのは、私が妻と約束があるということで、誠意を持って相手に先約があることを伝え、自分の意思を示す男らしい発言です。一方、「妻が」の場合は、「私は行きたいのですが、妻が・・・」と奥さんのせいにしているのです。本当に奥さんがうるさい人であっても、自分の意思を示さないのは、誘った相手に失礼ですし、尻に敷かれている、鬼妻に勝手にされてます。

奥さん、そんな男で、良いんですか? 「妻が、妻が・・・」と奥さんの知らないところで責任を奥さんに押しつけているような男ってことですけども、どう思いますか?

もう一個上げましょうか? 仕事や居住地に関するフレキシビリティについて、私は非常に高いものを持っています。例えば、居住国を選ぶ際の基準は「ビジネス、税制、物価」であり、他の要素は一切ない。だから、香港・シンガポール間の移動であればそれはSGDの為替レートは非常に大きな基準となりえるため、「為替レート次第で居住国を変える。これが測度変換の投資実践の一例だよ。」などというと、また

「妻が居るし・・・」

妻が、子供が、家が・・・と、責任転嫁し始める男が多いです。為替変動リスクだけでなく、転職などに伴う事業リスクを取る際に、奥さんの存在を言い訳のごとく使い、勝負から逃げている。「僕が今の会社で、低賃金なのは、能力が低いからではなく、家族を守るために我慢しているからだ。」とでも言いたいのでしょうか?

一聞すると、家族を守る立派なお父さんに思えますが、一族の長の顔をするのであれば、自らの進む道を自分の意思で即決できないことに問題はないのでしょうか? そんなお父さんを子供が見て育つと、子供もまた民になりますよ。 ま、持たざる民こそが最も自由で幸せな立場だと思うので、それはそれで良いのかもしれませんが。

自分が勝負から降りるのを、奥さんと子供のせいにするな (かっこいいって言われちゃったから調子に乗って載せてみました)

無謀な勝負を煽動しているわけでありません。降りる時は、自分の判断で降り、カッコ悪いと思われたりするという弊害や責任も自分で取るということです。自らの決断で判断し、責任を取るということを示すのが親の責任であり、民の欲望で作り上げられたどうでもいい生活費を工面してあげることは責任でも何でもありません。そんなことは顔も感情もない国家でもできる。何のために高い法人税を納める会社に勤めているのか? というのをわかりやすく、

離婚さえすれば、母子家庭は特権階級なのだから、セーフティーネットで最低限の生活はできる。(同じことなのに サイテー とよく言われるけど載せてみました)

それを知っていれば、自分が妻と子供の面倒を見てあげているなどという勘違いをすることは、まずありません。これと同様に同じ意味だけど受け取られ方が全く違う文章。

× お前など居なくても、俺の人生に1ミリも影響はない。
○ 俺は自分の行動と決断の責任をお前に押しつけたりはしない。 (いつも文句ばっかり言ってる妻にはこれも嫌味か?)

おっと、ここまで来ると、奥様向けの内容から逸脱してしまいましたね。
私も愛妻家だから、ついついくだらない私利私欲とわがままな主張を聞いてあげてしまうことがあるのですが、愛妻家として、さらに厳しく締め上げた方が彼女のためだと反省している毎日です。

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「私たちの生活を脅かさないで欲しい、どうか子供たちに関わらないで欲しい!」 女は平伏して懇願した。
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「自分の名前を漢字で書いてはならないだと? お前何年何組だ? その先生の名前は? そうか・・・。では俺は・・・お前の親として一回、先生に挨拶させてもらわないといかんなぁ・・・」 男がそう発言した直後のことだった。

男はゴッドファーザーであり、実の父だが、どうやら相当に嫌われているらしい。学校に来て欲しくないらしい。この女は何をそんなに嫌がっているのだろうか? もしかしたらこんな想像をしているのかなぁ? ちょうど良いサンプルが見つかりましたよ。 

モンスターペアレント4 哀川翔
http://www.dailymotion.com/video/xqi1qq_monster-parent-04_fun

開始1分でいきなり笑える。日本に居ないから授業参観に行けないのだが、知らぬが仏。もし気軽に授業参観に行ける立場だったとしたら、私も他人ごとではないな。 そこの教育熱心なお父さん! あなたは大丈夫ですか?


哀川「先生は教師になられて何年目ですか? あなたは担任として息子の能力最大限に伸していく授業を行う義務と責任がある。」

うーん、やっぱり詳細部分で私とは考え方が異なるようだ。
たかが、"一地方公務員"に能力を伸ばす教育など期待しておりません。ただし、子供の知的好奇心を阻害するような言動を私は許さない

哀川「それと、寺田先生、数という字。あれ書き順が違いますよ。」
平岡「あ・・・書き順くらいは・・・」
哀川「子供たちが間違って覚えたらどうするんですか?」

香港テイストな意見を述べよう。
漢字の書き順が大事な理由。それは字としての造形美を追求するだけではない。現代において、Pin-Yinで書けない場合は、携帯電話の漢字部品ボタンを組み合わせて漢字を書くことになるが、正しい書き順で書かないと検索候補にあがって来ない

哀川「図工なんて科目は英二郎には必要ないんです。医学部の受験科目に図工なんかありませんよ。」

シンガポールテイストな意見。アジア圏に住んでいると考え変わるわなぁ・・・
図工は確かに受験科目には存在しない。しかし、義務教育に図工が存在しない国家の民を見たことがあるかね? 缶の絵すら満足に書けない立体感覚で、医者として人の体を看ることができるとお思いですか?

米倉「そもそも参観日でもないのに、親が授業にいていいわけ?」
平岡「最近は開かれた学校をモットーですから、親が授業を見せてと言ったら学校は拒否できないのです。」

こういうこと聞くと、授業参観したくなるよなぁ。

もう一個の問題。親が二人いることから逃れられない問題。二人の人間の価値観の相異、教育方針の相異から生まれる衝突。壮絶に異なる価値観の間で揺れ動く子供たちの姿は、恐怖そのものかもしれない。

23分の奇跡 賀来千香子
http://www.tudou.com/listplay/UkK5Eeyf_q0/waD7ihtSCKo.html

どんな話をするの?
平等と自由と平和のお話し!
でも・・・平等ってどういうこと? どうして大事なんだろう? 意味がわからないで難しい言葉を使うのは良くないと思うな。

もしみんながこの服を気に入ってくれたら、この制服を着て良いのよ。そしたら今日は何を着て学校に行こうかなんて考えなくてすむわよね。みんな同じで・・・、それがこの平等ということじゃない?

お祈りしたから出て来たんじゃないんだ。先生が袋から出して配ったんだ!
そう・・・、誰にお祈りしたって本当は何も出てこないってこと。もし何かしてくれるひとがいるとすれば、それは神様なんかじゃなくて、先生とか誰か他の人の力なの!

今から新しい教科書と制服を配ります。みんなのはどうする? 教科書は2つも要らないよねぇ。競争、全部破くの。破き終わった人からこれを取りに前に来てください。

【一族家の教育方針】
2012.11.16 北京・ハルビンに行ってきました 11/13 ~中国の赤ちゃん
2012.04.19|真面目系クズについて 2/2
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ACAL(アジア一国一愛人構想、「エイカル」と発音してください)は、日本、中国、香港、タイと着実に南下し拡大していたが、ここ最近停滞気味である。その理由を明確な言葉で説明していたのがマハティールである。いわゆる東南アジア圏と中国文化圏の違いに私も悩まされている。

昔から温暖で豊な土地で暮らしてきたマレー人は、あまり働かなくても生きていけた。そのため経済観念などほとんどなかったといってよい。一方中国人たちは中国南部の貧しい土地から裸一貫でやってきた人たちである。誰もが一旗あげようと死に物狂いで働いた。この両者を同じスタートラインに立たせて競わせれば結果は火を見よりも明らかである。

この記事は一年以上前に書いたのだが、あまりに"くだらない妄想"のため、ボツにしようと思っていたが、今月は偶然にもアジア最重要二カ国である中国とインドネシアに潜伏中でACALを実践中であり、記事を書く時間が取れないので1年の禁を破って公開することにした。常連読者には申し訳ないくらいの"妄想系"なので今日は読み飛ばしてくれてかまわない。

契約、約束、時間の概念が希薄な彼らとの関係は極めて難しく、怒涛の南進も一時停軍するほどの苦戦である。さらに男尊女卑も強くあり、自立した女性、自らの意思を主張する女性、自らの意見をはっきり言う女性を求めるのはほとんど絶望的で、私の言うことに対して、"No"というのも憚られるくらいの勢いがある。「できること、同意することならYes、できないこと、同意しないならNoと言ってくれ」から始めなければならず、「良い女というのは自分より劣った何もできない女ではない。俺のルールはシンプル。私よりも優れ、何でもできるのが良い女。わかりやすいでしょ?」などという私の主張は通じる気配もない。(まぁ、これは日本でも「理屈はわかるけど、そんな女居ないよ」みたいなレスが多い)
人口に比例して国家の重要度は高まる傾向にあるので、アジアの二大巨頭である中国とインドネシアは重点的に拡大させたいところであったが、インドネシアは相当に苦戦しているのが現状である。貧困層の厚みは十分なので「お手当てさえもらえればずっと待っています」という愛人候補生には、事欠かないのは事実で、かつ、維持費もかなり安いのだが、砂漠にジョウロで水まいてる感覚に陥るのが、今ひとつ決断を鈍らせる。愛人であるからには関係は長期に渡る。だからこその維持費なのだ。一発勝負なら現地調達すれば良いだけの話だ。となると資金を拠出するならば、パートナーとしての資質が問題になってくる。
indonesian-lady.jpg
長期的愛人に求めるパートナーとしての資質はねぇ、うーん、そうだなー。国内テロ組織のリーダーもしくはリーダー格で、組織の資金・物資調達部分を専門とされていて、3つのパスポートを持ち、7つの言語を自在に操り、antiマネロンに非協力的な国々の銀行を飛び回りながら、麻薬組織、旧ソ連製の武器取引を行い、武器・戦闘機・戦車の操作、爆薬や麻薬の製造、武道にも精通しているという。そして、彼らの武装・闘争地域が分離独立した際には、彼女には莫大なる石油利権が転がり込むと囁かれている。

んなのいねーよ! というつっこみが聞こえてきそうなので、もう少しありそうな感じで。うーん、そうだなー。とある事業会社の個人筆頭株主兼代表取締役。農村部出身、学歴は小卒という叩き上げで、前社長死亡とともに現在の地位に就任し、以後爆発的な勢いで会社を成長させてきたという。しかし、その成長の裏側には政府との不透明な取引(公共事業の受注の際の贈収賄や受注価格の正当性)、不可解なM&A(特に目立ったのは旧国営企業の払い下げ価格が、保有不動産価格だけで評価しても不自然なまでに割安だった)などの疑いが外国報道で一時的にニュースになったことがある。

とかね。まー、なんでこんな人が俺の愛人になるんだ? というツッコミに対してはこう答えよう。ACAL(アジア一国一愛人構想)はアジア各国に愛人がいる。なのであって、俺の愛人とは言ってない。俺が愛人だ! こういう人に関しては。俺のJapan Passportと禁欲的な姿勢が彼女に貢献できるなら、協力は惜しまないと言っているんだ!

例にしても二人の女性がクロすぎるのはなぜか。俺の信条として、儲けというのはあんまり全うにやってても生まれないと思ってるからね。斬新なアイディア、素晴らしいビジネスモデル、大いに結構なんだがねぇ。儲ける、勝負に勝つっていうのはそんな甘いもんじゃないと思うんだわ。

ん? 待てよ。この発想で行くと愛人の資質を満たす女は、日本含む東アジア領域でも、見たことないってことを思い出した。おーし、わかった。もっと参入障壁を下げよう。うーんと妥協して、キャッシュフローポジティブ≧0。0含むがポイント。
ん? キャッシュフローポジティブって、俺に金くれる愛人か。随分ご都合主義だなー。ACALの根本から建て直しかな・・・続く・・・

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