投資一族のブログ: 読書アーカイブ

読書の最近のブログ記事

アフリカ外交が重要な理由

アフリカ大陸には56の国がある。そのなかの48カ国がブラックアフリカと呼ばれる国々だが、文化面、スポーツ面での能力が
きわめて高い。今は国内が混乱しているために貧困に喘いでいるが、いずれ政治が安定してくれば大きな力を発揮するだろう。
また、原油や鉄鉱石といった天然資源も豊富なので、飛躍するための材料は揃っている。アフリカは無限の可能性を秘めた
地域だ。中国や韓国、その他の東南アジアの諸国に対して、日本は、拭いきれない「負の遺産」がある。先の戦争で残した
禍根はおいそれとは消えないだろう。もちろん、これから国同士の関係はどんどん良くなっていくとは思うが、どこかに拭いきれ
ない「しこり」のようなものを残してしまう。いっぽうで、欧米の国々はアフリカに対して「負の遺産」を持っている。かつて植民地
政策でアフリカを蹂躙した歴史は、日本が東南アジアに持つ「負の遺産」同様に重い意味を持っている。日本はアフリカに対
する植民地支配や戦争による「負の遺産」がないからアフリカの人々はわだかまりなく感謝してくれる。


北方領土返還に際し、外務省が犯した6つの過失

外務省幹部による「日本政府が四島一括返還に政策変換する」という内容のリークだ。二島先行方式による段階的な
解決策はとらず、四島が日本に帰属することを一括して確認することを目指す
ということは、2001年森・プーチン両首脳
による「イルクーツク声明」の路線から日本政府が離れると言うメッセージにほかならない。

2004年9月2日に行われた小泉総理による船上からの北方領土視察だ。現職総理として初めて海上保安庁の巡視
船から北方領土を視察したこの日は、「日本がソ連に対して無条件降伏文書にサインした日」だ。旧ソ連時代、スターリ
ン首相が全国民に向けてラジオ演説を行った。内容は「我々は40年前に日本から屈辱を受けた。今日その屈辱を晴ら
すことができた」というものだ。そのような日に日本の総理大臣が北方領土を視察すれば、ロシアの人たちの目にはどううつ
るのか。

同11月14日、ラブロフ外相が「日ソ共同宣言において、我々は日本に対して2つの南の島々を与え、それで終止符を
打つことに合意した。さまざまな要因でそれはその時実現されなかった。」この時のシグナルを解釈すると「日本が要求する
四島返還に応じることはできない。しかし、日ソ共同宣言で約束した二島引渡は最低限実行する。つまり『二島+アルフ
ァ』で平和条約交渉
ができないかというものだった。ところが、小泉総理からこの件に関するメッセージは何も出なかった。総
理を支えるべき外務官僚がプーチン大統領のシグナルを受け取ることができなかったからだ。そればかりか「愛知万博では
シベリアのマンモスが話題になっています。大統領もそのとき日本に来てくれませんか」などというピントの外れた発言をさせて
いる。

2005年2月7日、外務省には、北方領土の日にもなっているこの日にプーチン大統領の訪日を実現し、北方領土問
題を劇的に動かすと言う戦略があった。東京で開かれた北方領土返還要求全国大会とは別に、全国的な国民集会を
静岡県の下田で開こうとしていた。「島を返せ」といっている大会が開かれている最中に、ロシアの大統領がのこのこ出か
けていくとでも思ったのだろうか。ところで小泉総理は日ロ修好150周年の記念日である2月7日の全国大会を欠席した。

同2月10日、小泉総理は雪祭りイベントに出席した。領土問題という国家の最重要課題が絡んだ全国大会を、小泉総理は風
邪を理由に欠席した。ところがその3日後、酷寒厳寒の地・札幌に飛び、日が暮れた後、ライトアップされた雪像を堪能したと
いうわけだ。これをロシア側がどう見るだろうか。風邪の治りが早かったなどという説明が通用するとでもいうのか。

同5月9日、モスクワで開かれた「対独戦勝60周年式典」への対応だ。ロシアでは第二次世界大戦末期にドイツが連
合軍に対して降伏文章に調印した翌日の5月9日を戦勝記念日としてきた。この式典には日本を始め、アメリカ、ドイツ
フランス、中国、イタリアなど50カ国以上の首脳とアナン国連事務総長らが出席。当初、小泉総理はこの式典への参
加を見合わせる予定だった
のだが、各国首相が一堂に会する場に日本だけ参加しないとは、いったいどういう神経なのか。
その後、事態を重く見て参加することになるのだが、すべてロシアは見ている。日本がなぜバタバタしているのかを、つぶさに
分析しているはずだ。結局、こうした失態の積み重ねが国益を損なう大きな失敗となって返ってくるのだ。

【資源獲得競争】
2010.06.01: インド対パキスタン ~インドの核開発
2010.03.02: テロ・マネー ~血に染まったダイヤモンド
2009.12.04: アジア情勢を読む地図2
2009.06.26: プーチンのロシア2
2009.03.13: 裏支配
2009.01.29: 意外に重要、イランという国
2008.11.11: ユダヤが解ると世界が見えてくる
2008.10.15: 製造業至上主義的産業構造分析
2008.09.08: いい女発見!
2008.06.19: 原油先物の取引高
2008.04.29: 世界の食糧自給率

検察が描くシナリオ

日歯連事件についての検察の不可解な捜査がある。「一億円献金隠しで政治資金規正法違反の罪を問われた派閥の会
計責任者は、橋本龍太郎氏から『はいこれ。日歯からです。』と小切手を渡されたと説明している」ことを根拠にして橋本総
理を一方的に悪いと決め付けていることだ。私が問題にしているのは会計責任者の滝川氏が、拘置所の独房の中という特
殊な状況の中で行った供述がすべて正しいとどうしていえるのかということだ。普通の神経を持った人間ならおかしくなって当
然の状況であることは437日間も勾留されていた私が一番よく知っている
。外に出るために誰もが検察のシナリオに迎合し
てしまうのだ。夏は40度近くにもなる拘置所の独房は、風もろくに入ってこない4畳の密室だ。私もその圧迫感に、当初は
精神に異常をきたすのではないかと思った。こんな状況で朝から晩まで取り調べられれば、一日も早く外に出たいと思い、検
察の狙っているシナリオ通りに供述してしまうのが普通だ。これに耐えるためには超人的な精神力が必要になる。自分が捕ま
って初めて知ったことだが、検事調書というものは裁判で万能の力を持つ。だから検事は全力をあげて自分たちに都合のいい
調書を作り、それにサインさせようとする。滝川氏もまた、その検察のシナリオに沿った供述を強要されただけだ。そんな供述を
根拠にして捜査が進む恐ろしさは、私は身に沁みて経験している。

三井物産ディーゼル発電施設疑惑

択捉、国後、色丹の各島に日本が供与したディーゼル発電施設を私が無理やり造らせたというものだった。しかも、80億円
で正式に受注した三井物産との間で密約を交わし、口利きの見返りとしてリベートを受け取ったと言うのだ。このプロジェクト
は、1998年4月の橋本・エリツィンの日露首脳会談で決まった。私が関与する余地などまったくなかった。一時期検察は
私が自民党の総務局長だった時期に、私の口利きで三井物産が党に献金したという話を作ろうとした。これも根拠がない。
そもそも自民党は大手総合商社から長年にわたって政治献金を受けている。もちろん三井物産も例外ではない。それぞれ
の企業の献金額は毎年決まっており、1994年から三井物産と三菱商事は8600万円、住友商事、丸紅、伊藤忠は
6500万円だ。疑惑をもたれた時期、私は自民党の総務局長で党の要職についているのだから何かあるだろうというわけだ。
しかし、総務局長は選挙対策を担当するポストであって、政治献金の窓口は経理局長である。私と三井物産は金銭的な
付き合いが一切ないうえに、党内のポストから考えても私と三井物産のつながりはなかった。しかも、このディーゼル発電プロ
ジェクトが始まる前も後も、まったく同額の政治献金がなされているので、「この政治献金は便宜を図ってもらった見返りだ」
というのはどう考えても無理がある。


国策捜査を阻止するために

国策捜査というと官邸から特別な指示が出て検察が動くと考えがちだが、じつはそうではない。もちろん、官邸を含めたあらゆ
る組織は、それぞれ思惑を持って動いている。そして、現実には新聞記者などを通じて自分たちの考えを相互に伝達しようと
するのだ。また、そこには検察が世論や政治の動きに過敏になっているという事情も関係している。世論や政治の動きに過敏
になっている原因は、捜査能力が低下しているからだ。操作能力が高ければ、なにも世論に迎合して流れを作る必要などな
い。しかもポピュリズムを前面に押し出す小泉政権になって、世論の意向=官邸の意向になってしまったので、よりいっそう世
論を気にするようになった
のである。私へのさまざまな圧力が頂点に達したころ、最後に検察の背中を押したのは官邸だった。
小泉政権の官房長官だった福田康夫氏は、担当記者を集めて行うオフレコの懇談会、通称「記者懇」で「鈴木宗男の捜査
はドンドンやったほうがいいな」「鈴木宗男が逮捕されても政権に影響はない」などと発言し、新聞各紙は間髪入れずこれに
同調した。この発言をきっかけにして、検察は動きを急速に早めた。検察といえども行政機関の一つだ。官房長官は事実上、
政権のナンバー2だ。その人が懇談で発するメッセージを検察が「鈴木宗男を逮捕しろという官邸のシグナル」と受け止めるの
は当然だ。こうして権力を背景に、特定の意図=「鈴木宗男の逮捕ありき」を持った捜査-国策捜査が始まったのだ。

司法記者クラブに所属する特装担当記者が検察から情報を手に入れるのは、ジャーナリストとして当然の行為だろう。いっぽ
う疑惑の渦中にある鈴木宗男に取材するのも至極まっとうなことである。ところが、私から聞いた話を一行も書かず、それを検
察に伝える記者が非常に多く居たのである。私の話を伝え、その見返りに、検察から別の情報を耳打ちさせる - こうした
一種の交換条件が成立していたことは容易に想像が付く。これでは捜査機関の手足に過ぎないではないか。これは個々の
取材記者に帰する問題ではなく、記者クラブ制度を含むシステムに根本的な原因がある

私は一つの考えを持っている。それは検察とメディアを切り離すことである。そのためには、まずメディアの側は記者クラブ制度
を手放すことだ。取材するスペースを与えられ、さまざまな便宜を受けると言うことは、いつの間にか権力の手先になることを
意味する。また検察に対しては捜査員の陣容を大きくするために予算を手厚くすべきだと考えている。30人の特装検事で
できることには限界があるし、無理にやろうとするからメディアを手足に使ってしまうのだ。メディアを捜査機関の下請けにする
ことを即刻やめなければならない。

【治外法権領域】
2010.02.22: マラッカ(マレーシア)旅行 ~マレー鉄道編
2010.02.15: 通信隊 それは陸のOff-Shore 
2010.01.28: 無法地帯は違法地帯。合法的な無法地帯とは? 
2010.01.14: 転がる香港に苔は生えない 
2008.09.19: 大使館のあり方 
2009.08.17: インド旅行 前哨戦 Visaの取得 
2008.04.15: 国境 ~統治権の狭間 
2008.01.12: Macau for Family ~香港に住む男のための同伴者と行くマカオツアー

武装ゲリラとノンキャリア

1999年8月、中央アジアのキルギス共和国で、イスラム武装勢力に日本人技師4人が拉致されるという事件が起きた。
2ヵ月後の10月25日に人質は無事解放されたが、私は小渕内閣の官房副長官として、事件の舞台裏をつぶさに知る立
場にあった。当時注目されていたのは、人質解放のために身代金が支払われたのではないか、という点だった。政府は身代金
支払いを否定していたが、現実には300万ドルを支払っていた
のだ。しかし、その金はゲリラには渡っていない。そもそも政府
は支払う必要の無い金を出していたのだが、それだけではなく。じつは外務官僚がその金の一部を使い込んでいた、という疑
いがあるのだ。では、300万ドルはどこに消えたか。2005年3月にキルギス共和国で政変があった。アカエフ大統領はロシ
アに亡命し、その後、アカエフ大統領の不正蓄財が次々と明らかになっていった。1990年にアカエフが初代大統領に就任
したとき、外務省は「民主化の優等生」「中央アジアのスイス」とキルギス共和国を宣伝した。そして円借款と無償援助で約
350億円ものODAを出してきたのだが、その金がアカエフ大統領の不正蓄財につながった。人質解放のための身代金300
万ドルもアカエフ大統領とその周辺が着服したと私は見ている。05年3月に起きたキルギスにおけるクーデターに対して、ロシ
ア政府はいち早く「キルギス内政に干渉しない」という声明を発表して静観した。ところが日本だけは異様な対応をして国際
社会から疑問の声を投げかけられた。というのもキルギスの独裁者と非難されようになったアカエフ大統領がロシアに逃げ出す
直前に、日本の角崎利夫大使だけが大統領の山荘に出向いて30分間会談していたからだ。角崎氏はカザフスタン大使
兼キルギス大使で普段はカザフスタンのアスタナに駐在しているが、このときはなぜかキルギスに出張していた。海外でクーデタ
ーがあった場合、大使が動くと言うことはその国に対する姿勢を示す。だからどの国も大使の動きには慎重になる。角崎大使
がアカエフ大統領に会った理由は2つ考えられる。一つは外務省ならびに角崎氏が国際常識を知らなかったから。もう一つは
大統領に会わなければならない理由があったから
。前者の理由ではないはずだ。外務官僚はいくらなんでもそれほどレベルが
低くはない。ということは、何らかの理由で大統領に会わなければならなかったわけだ。その理由は何か。ODAの不正蓄財や
人質事件での身代金にかかわる話をしたのか。角崎大使はこの疑問に答える義務があるだろう。

「スクール」が隠すスキャンダル

外務省にはいわゆる学閥と言うものは存在しない。その代わり、専攻した語学による「スクール」というグループが存在する
スクールには、アメリカンスクール、ロシアンスクール、チャイナスクールなどがあり、それぞれ所属する部署の壁を越えて結束し
ているのだ。外務省には学閥は無いとしたが、じつは例外がふたつだけある。一つは「如水会」という一橋大学グループだ。
そしてもう一つの学閥は創価大学閥である。より正確に言うと、このグループは創価大学出身者だけでなく、創価学会員も
含まれている。榎泰邦中インド大使が外務省内の創価学会員組織「大鳳会」の頂点に君臨している。外務省の大きな
問題点は語学スクールの存在から生まれている。スキャンダルなど何か問題が起きた時に、それぞれのスクール内でかばい
合ってしまい、「人事は公明正大」「信賞必罰」とならない仕組みになっているわけだ。
 1997年2月ある週刊誌が「外務省高官の『二億円』着服疑惑の特集記事を大きく報じた。外務省の若手課長の中
でもエース格で、将来事務次官候補とみられている総合外交政策局のS課長が外務省の外交機密費を着服した、とい
うものだった。この疑惑がその後、2001年外務省要人外国訪問支援室・松尾克俊室長による外交機密費流用事件を
引き起こし、外務省を大きく揺るがすことになるとは、誰も考えていなかった。ここで明らかにしよう。S課長とは杉山晋輔中東
アフリカ局参事官(現同局審議官)である。1953年生まれ、早稲田大学在学中に外交官試験に合格し、1977年に
外務省に入省後、駐米大使館一等書記官、経済局国際エネルギー課企画官、事務次官秘書官を経て現職についてい
る。キャリア官僚である杉山氏が外務省機密費を私的に流用していたと言われる時期は1993年8月から1995年1月
までの1年6ヶ月の間だった。当時の事務次官は斉藤邦彦元駐米大使。「外務省のドン」として今も絶大な権力を振るっ
ている人物である。杉山氏は斉藤次官に寵愛され、東大出身者が主流の外務官僚に会って「私立大学出身者初の事務
次官」
という見方も出てきた。また早稲田大学出身の小渕総理が早大出身者を重用したことや、杉山氏の父親が国際法
の権威である杉山茂雄元法政大学教授だったことも省内の力関係に大きく影響していたと考えられる。
 外務省機密費とは、正式には報償費と呼ばれる予算で、主として外交工作や情報収集活動のために使われる。予算規
模は毎年50億円以上で、財政会計法上の特例措置として会計検査院の検査がなく、請求書や領収書の提出義務も
ない。名目さえ立てば使いたい放題の資金だ。1997年度の予算は約56億円で内訳は出先の在外公館への割当が約
36億5000万円、本省分が約19億2000万円だった。このカネを使う時は、在外公館では大使決済、本省は課長枠
局長枠などが決められていて杉山氏は事務次官枠で引き出していた。外交機密日は外交を円滑に進める上で必要だと思
っている。しかし、だからこそカネを使う側の外務官僚には高いモラルが求められる。


あれ? 外務省には学閥がねぇって言ってなかったか?? モロに学閥のような・・・。

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2008.01.28: ソシエテ・ジェネラルの大損

メディアバッシング

私を取り巻く環境が一変したきっかけは、いわゆる「NGO問題」だった。私の圧力で2002年1月に行われたアフガン復興支
援東京会議に二つのNGO(非政府組織)が参加できなくなったと言う具枠だった。この2つのNGOは大西健丞氏がそれぞ
れ代表・常務理事を務める「ジャパン・プラットフォーム」と「ピースウィンズ・ジャパン」だ。NGOに対する費用は「草の根無償資
金」という予算が充てられる。しかし、これはおかしな話だ。「草の根無償資金」は「海外でかかる費用に対する予算」という条
件がついていたからである。その資金を国内で開催されるアフガン復興支援NGO国際会議に使うと言うのでは本来の趣旨に
反してしま
う。予算の流用になる。状況によっては背任で告発されるかもしれない。外務省は頭を抱えたようだ。外務省は、
すでに大西氏をはじめ、この会議に出席する予定のNGOに対して予算支出を約束していたからだ。私の指摘で約束を反故
にすると外務省は大西氏から文句をつけられることになる。ここで外務省が考えたのは、「鈴木宗男が反対しているから予算か
らカネを出せなくなった」という筋書きにして、「鈴木宗男vs大西健丞」という対立の図式をつくることだった。
外交の世界にNGOはなくてはならない存在だ。なぜなら政府や民間から独立した組織でなければ、複雑に絡み合った利害
関係のなかで有効な支援活動ができないことがあるからだ。カネの問題は重要かつデリケートである。カネは出すが口は出さな
いということはありえない。とくに政府は甘い組織ではない。カネを出すことを通じて、徐々にNGOを支配していこうとする。日本
の場合は外務省や財務省といった行政機関が絡み、一部のNGOはいわば「政府丸抱え」の状態にあるため、自由な活動が
制限されている。このようなNGOは「Non-Governmental-Organization」の態をなしていないのである。

ムネオハウスの真実

ムナオハウスの疑惑とは、北方領土に建設する「友好の家」というプレハブは北海道道東の業者を指名するように私が圧力を
かけた
というものだった。北方四島のロシア人が「ムネオハウス」などという英語名をつけるはずがない。かなり以前の話だが、
「現地には『ムネオハウス』と呼ばれる建物があり、鈴木氏の名前はかなり浸透している」という文脈で日本の新聞記者が命名
したわけだ。当時のモスクワは経済破綻の影響で北方四島に対して経済的なサポートが全くできない状況だった。地震を含め
た災害支援はおろか、日々の生活必需品すら満足に用意できなかった。「友好の家」の建物は、ビザなし訪問で滞在する日
本人が宿泊するための施設だった。しかし、あえて飯場のようなプレハブにした。北方四島についての日本の公式的な立場は、
「ロシアが不法占拠している」ということになる。したがって、基礎工事のある建築物を造ってしまうとロシアの不法占拠を助長す
ることになりかねない。いつでも撤収できるものにするというのが建前だ。ところが、日本のプレハブはかなり頑丈にできているので
ロシアの住宅などよりもよほどしっかりしている。しかし、「友好の家」は原則としてロシア人は使えないことになっている。日本から
ビザなし訪問団が訪れた時の宿泊施設という名目があるためだ。一方で、「友好の家」にはもう一つの目的があった。「北方領
土が日本に返還されると、こんな素晴らしい建物がたくさん建ちます」という地元の方々へのアナウンス効果を狙っていた。日本
基準では飯場でも、北方四島では最高の建造物だ。しかし当時そんな戦略で「友好の家」を建てているのだとロシア側に知
れたら、「ならばいりません」と門を閉められてしまう。人知れず、徐々に依存させていくというのが日本の国家戦略だった。使え
ないが、立派な建物を見ていると、早く島が日本に返還されて、このような施設を使いたいと言う気持ちがロシア人の間で広が
るという計算もあった。事実、そのような声も出てきた。
 三井物産ディーゼル発電疑惑や、「ムネオハウス」疑惑で指摘された北方領土への支援事業に対する費用は、「ロシア支援
委員会」の予算から出されていた。成り立ちは1993年、渡辺美智雄外相とコズィレフ・ロシア外相との日露外相会談での
合意だった。支援委員会は国際機関だが、委員にロシア側の人間は入っておらず、実質的には外務省欧亜局ロシア支援室
が実権を握っていた。支援委員会が使う金は全額日本政府が拠出し、100億円の予算がつくこともあった。予算は倉井高
志氏が室長の時にもっとも膨れ上がった。国後島の発電所の件では、倉井氏から「私のほうでゼーマ南クリル地区長(国後・
択捉の責任者)に根回ししておきました。ゼーマから『発電所を作ってください』といわせますので、鈴木大臣、受けてください」
支援事業でこんなことをいわれたのは初めてだったので驚いた。現地からの要望ではなく、倉井氏の意思が強く働いていたのだ。
「友好の家」の建設については、おかしなことがあった。支援室権限で日揮という会社に内密で発注を決めていたのだ。この会
社は外務省OBが天下りしている会社だった。そもそも外務省と根室市・北方領土隣接地域との間で、支援事業については
地元業者を使うという取り決めしていた。そのために「友好の家」は地元の犬飼工務店と渡辺建設工業が手がけることに決ま
ったのだ
。しかし、それは形ばかりのものだった。「友好の家」を建てる資材を地元の業者はすぐに用意できない。そこで、日揮に
やらせるように事前に仕組んでいたのである。こうした「丸投げ」は国内の公共事業なら違法だが、支援委員会には国内法が
適用されない。法の隙間を十分認識し
た上で倉井氏は仕事を進めたはずだ。このことが発覚した後も、倉井氏は日揮にきち
んとした処分をしなかった。倉井氏と日揮との間にどんな密約があったかはわからないが、彼は支援委員会を間違いなく私物
化していた。

北方領土への訪問は「ビザなし交流」という特殊な形態をとっている。パスポートやビザを持って訪れるということは、そこが外国
であることを認めることになるから日本は呑めない。妥協の産物として生まれたのが、この形態だった。しかし、そこで渡航用に
顔写真を貼ったパスポート代わりの「身分証明書」やビザ代わりの「挿入紙」というものを作った。日本側の理解ではパスポー
トやビザではないが、ロシア側の理解ではそれがパスポート・ビザに当たるという形を整えた。また、税関の記録をロシアから求め
られ提出すると、ロシアの管轄に服してしまうので、日本としては受け入れられない。そこで、税関の記録と全く同じものを「携
行品リスト」として自主的にこちら側から提出することにした。

【フィクサー・陰の存在】
2010.04.08: 野中広務 差別と権力 ~伝説の男
2010.03.03: テロ・マネー ~暗躍する死の商人
2010.01.26: 黒幕―昭和闇の支配者
2009.12.21: 君は日本国憲法を読んだことがあるのかね
2009.12.17: 俺の恋のライバルはツワモノ揃い
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
2009.03.23: 闇将軍
2009.03.13: 裏支配
2008.07.08: Richest Hedge Fund Managers

不正蓄財組織「ルーブル委員会」

大使館員は外交特権を利用して免税で高級車を安く買い、しばらくしてモスクワ駐在のアフリカや中東の外交官に売って
大量のルーブルを作る。ソ連では車は貴重品だったことから、中古車でも買値以上の値段で売ることができた。しかし、ル
ーブルはドル、クローナ、円などの外貨に交換できない。そこで、売却代金はルーブル委員会に集められ、闇レートによって
取引され、クローナに換えられる。大使館員の給料はクローナで支給されていた関係で全員ストックホルムの銀行に口座を
持っていた。そして、ルーブル委員会の手を経て、このストックホルムの口座に車の売却代金がクローナで振り込まれるという
わけだ。最大の問題点は、そこに集められた金が元を正すと旧ソ連時代の秘密警察KGB(国家保安委員会)の資金だ
ったということだ。第一の流れはKGBがモスクワでばらまくルーブルで、旧ソ連時代KGBは友好国であるアフリカや中近東の
外交官に資金援助するため、秘密裏に工作資金から大量のルーブルを渡していました。当時、ルーブルは厳重に国家管
理されていたため、金の受け渡しは基本的に外交特権のあるモスクワの日本大使館内で行われていた。第二の流れは、
KGBが外貨を入手するために西側で調達する闇ルーブルで、その舞台となったのがウィーンにあるシュテファン寺院の横に
ある銀行である。この銀行ではルーブル以外に旧東ドイツのマルクも扱っており、ここで売られていたルーブルは市価の1/4
~1/5だったのでアフリカや中東の外交官はここで安いルーブルに換えて外交行嚢に入れ、外交特権を使ってモスクワに密
した。この安いルーブルを使ってモスクワで車を買い、その車を西側に持ち出して売り飛ばして利益を懐に入れるという手
口である。このときにモスクワで車を売っていたのが日本の外交官で、日本の大使館はアフリカの外交官に免税で安く買っ
た車を売ることでルーブルを手に入れるが、この時のレートは公定レートのおよそ1/2から1/3。アフリカの外交官より儲け
は少ないが、外交官同士の取引なら不正はばれないだろうという安心感でやっていたようだ。

ここでなぜクローナなのかという疑問が生まれる。実は北欧は物価が高いために、日本に給料の申請をするときに水増しで
きる
という事情がある。しかもスウェーデンの消費税は28%である。本省から消費税込みの支給を受けるが、外交官特権
があるから非課税になり、28%はそっくり利益になるというわけだ。ところがある時期からクローナは「うま味」がなくなってきた
ようで、今は舞台をドイツのデュッセルドルフに代えている。デュッセルドルフに移したのはEUの共通通貨ユーロがスタートし
たためだろう。ユーロを使っていないスウェーデンより全般的に物価高になり、「うま味」が生まれたということに違いない。

うーん、セコイ! でも役所だけじゃなくて、世間によくいるな。こういう典型的な雇われ人。

住宅手当は290万円

2005年度の公使クラスの月額住居手当限度額は、ロシア114万455円、中国113万8500円である。平均的な
給料が1~3万円という国でなぜ110万円以上の家賃が必要なのか。在外職員に支払う年間の住居手当の予算は81
億5000万円で一人当たりの平均支給額は約290万円にものぼる。さらに驚くべきことに全ての手当てが非課税という。
問題の住居手当はもちろんのこと、在勤基本手当、子女教育手当、館長代理手当、特殊言語手当、研修員手当・・・
外務官僚が「在外公館に2-3年勤務すれば家が建つ」といわれるのはここにカラクリがあるのだ。


月20万円++だろ? シンガポールだとそれほど罪じゃないな。ま、もっと高いところだと思うがね。


在外公館派遣制度という究極の無駄

外務省の外郭団体、社団法人・国際交流サービス協会が行っている「外務省在外公館派遣員制度」、いわゆる「派遣員」
制度だ。月給でだいたい40万円くらいだという。ではこれに応募した人たちは実際にどんな仕事をするのか。要するに「汚い
仕事」である。「在外公館に出張等で来るお客様の側面支援。会議・市内視察等への随行、案内、アレンジ等が含まれま
す」というのが曲者で、買い物の案内や夜の接待に付き合うのも重要な仕事になる。
日本の闇権力は、国民の目から完全に隠されている。選挙という国民の審判がなされない人々によって形成されているから
だ。政治家ならば「闇権力」を執行し、国益を損なったという烙印を押されれば、選挙の洗礼を受けて表舞台から引きずり下
ろされる。しかしいま日本を支配している「闇権力の執行人」は決して責任を問われることがない。そこでは官僚が大きな役
割を果たしている。日本の社会が抱えるさまざまな問題の本質はこの一点に尽きるといっても過言ではないだろう。

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究極の兵器 世界制覇の野望をいだく ドイツの原子爆弾研究

自然界に存在する放射性元素のひとつであるウランをピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)の中から発見したのは、ドイツ人のクラプロ
ートという人物で時は1789年のことだった
。時は移り第二次欧州大戦直前の1938年になってウラン235の核分裂を発見し
たのはドイツ物理学会のリーダーでありカイザー・ヴィルヘルム研究所の理事で、後にノーベル賞を受賞するオットーハーン博
士と同じ著名な物理学者フリードリッヒ・シュトラスマン博士だった。大戦2年目、ドイツ軍がロシアの冬将軍にてこずり始めた
1941年になると、兵器局は原子炉の建造によってウラン爆弾の製造が可能ではないかと考え始め、各種の実験を進めること
となった。だが原子炉があったとしてもその先には未知の実験領域があり、その実現は遥か彼方のことと思われていたのであ
る。他方、実験用の原子炉についてドイツの科学者たちは、占領地ノルウェーのリュウカンで合成アンモニア製造の過程から生
産される重水が入手可能だったため、重水を中性子の減速材として用いる原子炉建造を考えた
のである。この間、5つ以上の
研究組織で、それぞれが異なる理論と方式によって原子炉プロジェクトが進展していた。だが、それぞれの組織は秘密の壁に
阻まれて進展状況や結果を知ることができず統一した研究がなされなかった。まもなく原子力研究はハイゼンベルグの
率いるヴィルヘルム・カイザー研究所と陸軍兵器局に所属する研究所に集約されていき、ハイゼンベルグは原子力開発組織
の中でもっとも指導的な役割を果たした。実験計画ではハイゼンベルグと数名の科学者が開発の方向性を決定していたが、
そのテンポは非常にゆっくりとしたものだった。これは科学者たちがヒトラーがたくらむ世界制覇の夢の実現へ、未知の恐るべ
きテクノロジーと兵器をもって手を貸すことに科学者の両親としてのためらいがあったからだといわれている。

恐るべき神経ガス ドイツの化学・生物兵器

ドイツが初めて化学戦を戦ったのは第一次大戦中の1915年2月のことで、ポーランド戦場のロシア軍に対して、15センチ砲弾に
仕込んだキシリル臭化物(窒息性の塩素ガス)を使用した時とされる。だが、厳寒のポーランドの戦場では砲弾内の塩素ガスの固
体粒子が凍結してしまうという問題に直面し、効果をあげることはできなかった。ついで、西部戦線ベルギー西北部の有名なイーブ
ルの戦場では、塩素ガスとマスタード・ガス(イペリット・ガスともいい、油性の液体で肺の損傷と失明や死を招く)が用いられた。しか
し毒ガス散布との連携作戦がうまく行かず戦術的には失敗とみなされ、ドイツは化学戦でさまざまな課題を残すこととなった。信頼
すべきデータによれば一次対戦中の戦死者8,555,290人で、負傷者21,199,467人とされ両軍の毒ガス使用量は125,000トンだっ
た。また毒ガスによる死者は91,198人で重傷者は1,205,655人であり、毒ガスによる死者は1.07%、負傷者は5.69%だった。この
データが示すとおり化学戦の開発には膨大な費用がかかり、かつ毒ガスは決定的な兵器とは言い難く、毒ガス兵器の価値はむし
ろ心理的な面にある
のだと一次大戦後、英国の調査報告書は結論づけていた。
 1930年代半ばのドイツは人口が増大し、国民の食糧供給が最重要事となり、増産のための農業用殺虫剤や除草剤の需要が
高まり、効果的な農薬の研究が行われた
。その家庭でジメチル・アミド・フォスフォロ・シアン化物が発見され、さらに研究を進める
とこれが強烈な神経ガスとなることが分かった。のちにこれはタブン(燐とエステルの化合物)となり、専用の生産工場が設けられ
た。この工場は現在のポーランドのブロツワウ付近にあって、ドイツは敗戦時までに生産された1500トンというタブンをソ連軍の
占領前に処分した。だが、後になって工場設備はそっくりソ連に運び去られている。各種の毒ガスは大別して5つに分けられる。

1.臭素ガスは刺激が強烈だが致死性は低い。
2.窒息性ガスは塩素、ホスゲンなどで肺の組織を破壊する。
3.人体の酸素吸収を妨害するアルシン、塩化シアンなどの細胞を破壊するガス。
4.マスタード・ガスのように皮膚に危険な外傷を負わせる糜爛性ガス。
5.肺と呼吸器系を侵す神経ガス、タブン、サリン、ソマン。ソマンは1-2分で昏睡、そして死に至る強烈なガスだった。

実際、ドイツでは1930年代に生物兵器の知識自体は十分蓄積していたが、使用にあたって自らの防御体制が確立できなかった
ことと、陸続きの大陸国家間で生物兵器の使用は双方にとって極めて危険で使用したさまざまなバクテリアがドイツに再び戻らな
いという保証が無かったことである。

役立たなかった秘密兵器

ドイツの兵器研究が広範囲に、そして優れた成果を上げたことはまぎれも無い事実である。だが大戦末期の秘密兵器と呼ばれ
るものがなぜ有効な兵器となりえなかったのか
、その原因について、戦後の英国のCIOS(英国知的情報委員会)の技術調
査報告書と英国の調査団だったサイモン大佐の報告書中に多くのヒントが見られる。秘密兵器の多くは無責任な発明者が組織生
産と実用面を考えずに開発を行ったもので権力闘争を兵器の保有競争に置き換えたナチ党幹部たちの下心
ある支援が無かった
ならば、このような兵器の開発が行われることはなかったであろうと述べている。陸軍は新対戦車砲を、空軍は対空砲を、海軍も
艦載対空砲をそれぞれに連携も無く3つの異なるソースから、3つの同じような兵器が多数の技術者を投入して異なるコンセプト
で開発され、3箇所に同じ設備が導入されて生産される結果となった。これがもっとも大きな原因であるが、ドイツの戦略に大き
な混乱を与えたのはほかならぬヒトラーの方針
だった。まず1940年の初期電撃戦の成功により、ヒトラーが防御用兵器は不要
だという方策を策定し、さらに向こう一年以内に実用化できる保証の無い兵器の研究・開発を中止するように命令したのである。
この命令により1941年から有効ないくつもの研究と開発が中止され特に後になって深刻な影響を受けたのがレーダー研究であ
った。指令からわずか2年後の1943年後半になると連合軍の空の優位は動かし難い事実となり、ヒトラーは自らの指令を忘れた
かのように、科学者たちを召集し、ドイツは電子戦面で技術的に連合国に迅速に追いつく必要があると述べて、資金が豊富に投
入され、挙句に研究所の活動を監視する委員会まで設置された。ドイツが失った2年間の研究ブランクは大きく、レーダー・テクノ
ロジーの優位を取り返すことはできなかった。

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宇宙時代の扉を開いたV2ロケット

1944年9月8日の夕刻6時30分頃、ロンドン郊外チズウィック・ステブレー街の静かな住宅街に、突然雷鳴のような音
が轟いて、6戸ばかりの住宅が倒壊し3名が死亡、6名が負傷した。これはV2ロケットがが初めてロンドンを攻撃した時の
様子である。ロケット研究がベルサイユ条約の禁止条項になかったために、その開発ストーリーはかなり遡ることになる。
1927年に宇宙旅行境界(VfR)が設立されて小型ロケットの研究が始まり、1931年までに液体燃料小型ロケット
を飛翔させるまでになった。発射部隊はグルッペ・ノルト(北方部隊)とグルッペ・サド(南方部隊)の二つが編成され、北
方部隊は1944年9月8日にロンドンに初発射を行い、南方部隊もフランスとベルギーの連合軍をターゲットとしたが、パ
リに向けたV2は到達しなかった。V2は1359発が発射され、うち57発がロンドンへ落下し、27発がノーウイックへ達し
た。死者合計2754人で負傷者は6523人だった。

駄作兵器シリーズ

風と音の威力
 圧搾空気の塊を噴射する「風力砲」、炭塵爆発で人工的に旋風を発生させる「旋風砲」、音波を放射する「音波砲」

Ba349ナッタァー
 有人対空砲 発射台から打ち上げ実用上昇高度は16000メートル、パイロットは目標敵機に24基のR4Mロケット
 弾をいっせいに発射するが、ロケットの射程は短く70-100メートル
だった。ロケットで上昇する急加速度と急激な気圧
 の変化に起因する人体への影響の克服研究がなされず、また敗戦間際となりパイロットの訓練計画もままならず、発射
 場が限定されることや、ロケットの動力は一回限りの作動であり、かつ機は高速すぎて制御や機動性が悪く、さらに短時
 間での迎撃では会敵する機会が極めて少ない
といった点があげられていた。

ナイキミサイルの出発点 対空誘導弾C2ヴァッサーファール
 戦争が長引いてヒトラーの防御兵器不要論は消え、連合軍爆撃機はしだいに高々度を飛行するようになり、ドイツ爆撃
 の脅威が増し、現実に従来型高射砲の射程の限界を超えるようになっていった。ヴァッサーファールは理論としては完成し
 自動計算機と自動追尾装置による誘導がすでに実験されていて、今日のミサイル発展への揺藍期であった点にむしろ注
 目すべきだろう。だが、大戦末期になって膨大な資材を必要とする発射基地の建設は行われなかったが、もし発射基地の
 建設が開始されたとしても連合軍の航空偵察の眼により発見されて空からの攻撃により、早期に破壊されてしまったことで
 あろう

爆撃機を二機つないだハインケルHe111Z1
28トンの重量に耐えられる積貨量を持つ輸送手段は無く、出撃のチャンスはなかった

鼠という名の超重戦車 180トン戦車モイゼ
 1944年に188トンと言う空前絶後な戦車が製作されたが、このような巨大な戦車の出現は"大きな兵器が好き"という
 ヒトラーの好みから生まれたとされるがその背景にはもう少し奥行きがあった。100トン戦車の設計を国民者フォルクスワーゲ
 ンが生みの親として知られ、また兵器局の戦車委員長でもあったフェリディナルド・ポルシェ博士に命じたのが1942年3月
 21日で、以降プロジェクトはポルシェ・モイゼと呼ばれることとなった。速度が落ちても重装甲、強装備とするようヒトラーは念
 を押している。

Uボートの元になった潜水戦車 タオホパンツァー
 1941年、ドイツ軍はいっせいにロシアの国境を越えて大草原に進撃を開始した。バルバロッサ(赤髭)作戦の開始である。
 ポーランドのブレスト・リトブスク北西にあるブーグ川の渡河に成功。戦車が一両、また一両と河中に突入して姿を消し、後の
 水面上には鉄パイプを突出させてエンジンの排気の泡を残して水中を行く。やがて対岸につぎつぎと戦車が姿を現し、周囲の
 将兵が驚く中を全身から河水を滴らせながら黒い怪物のように斜面を駆け上り、砲口のゴムの防水蓋を吹き飛ばし前面の
 操縦用観測窓を開く。80両の潜水戦車はミンスクとスモレンスクめざして進撃していった。英本土上陸"あしか作戦"用に
 用意されたものであったが、ドイツ空軍は英本土上空の制空権を取ることができず、あしか作戦は無期延期
となってしまった。

変り種戦闘車両 爆薬運搬車から対空戦車まで

第二次大戦中にドイツが生産(1938~45年)した装甲戦闘車両の総数は89,254両であるが、回転砲台を搭載した
純戦車は26,925両で全体の30%に過ぎない。これは大戦に途中で参加した米国のM4シャーマン戦車の単一車種
48,000両にも及ばず、旧ソビエト一国でも戦闘車両は125,000両といわれ、さらに英国の生産分も加えた膨大な戦闘
車両群を相手に、ドイツ戦車は質と戦術をもって善戦敢闘したといわねばならない。
一方、戦車の車台を用いた箱型の装甲砲塔に戦車砲を搭載した生産の容易な突撃砲と駆逐戦車が15,670両で
17.6%、同じく戦車の車台に火砲を搭載した自走砲、そして制空権を連合軍に握られてしまい、空からの脅威に対抗する
ため、対空砲を搭載した対空戦車などが4,954両で5.6%であり、戦車と戦車の車台を用いた改造車の合計は62.6%
だった。残りは偵察用の装甲車4525両、半装軌装甲兵員輸送車と爆薬運搬車は35,277両である。純粋な戦車も
1~6号戦車とその派生型が多種多岐に渉っていて、M4シャーマン戦車一種で戦った米国と好対照をなす
ものであるが、そう
した多くの派生型や試作車両の一部には今日見ても驚くほどの斬新性や先見性を持ったものも多かった。

海戦兵器

第一次大戦以降、英海軍に対して劣勢なドイツ海軍がとった戦略は、Uボートによる英国補給線を絶つ、いわゆる通商破壊戦
だった。一方第二次大戦でドイツが就航させたUボートは1150隻でうち781隻を喪失し、215隻はドイツ敗戦時に自沈、
154隻は連合軍に降伏した。そして戦闘全期間中、大西洋、カリブ海などで2603隻、1357万トンを撃沈したこのUボート
の戦いは1936年~41年の高潮期、1942-43年の最盛期、1944-45年の退潮期とに分けることができるだろう。
大戦前半の高潮期に活躍したUボートも1942年の後半に入るとレーダーの発達により夜間浮上中の潜水艦多数が撃沈
される状況
となり、水中速力の増大と潜行時間を伸ばすことにより攻撃と脱出の機会が付与できるとしてヴァルター教授が提案
して検討された。

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貧しい国々が豊かな国々に貸している

開発途上国の成長が、世界的な低金利やバブルの発生に結びついたとする発想を、2005年に先鋭な形で提示したのが、
減連銀議長のベン・バーナンキである。彼の論点を要約するとこうだ。GDP比で6%台に上ったアメリカの経常収支赤字、つ
まりアメリカによる対外資本輸入は、その当時重大な問題とみなされていた。しかるに、一方で経常収支赤字(対外資本輸
入)を持つ国があれば、他方には必ず経常収支黒字(資本輸出)を持つ国が居る。それではアメリカの経常収支赤字の増加
に見合って、経常収支黒字を増やしている国はどこか。統計を見回すと、新興国、とくにアジアの新興国が大幅に経常収支
黒字を増やしていることが判明する。このいびつな構造は豊かな国々の側の事情によって、つまり豊かな国々が過剰な支
出をして、それをファイナンスするために借り入れまで必要な状態に陥ったのか、それとも貧しい国々の側の事情によって、
つまり貧しい国々が、国内投資をファイナンスしてもまだ余るほどの国内貯蓄をするようになったために対外資本輸出を行っ
ているのか。この点を確認するためには世界金利の変化を見ればよい、とバーナンキは言う。なぜなら豊かな国々の借り入
れの増加が、グローバル・インバランスの原因である場合には、国際資本市場で資金供給が逼迫するだろうから、それを反
映して、世界金利は上昇するだろう。他方で、貧しい国々の貸し出し上昇がグローバル・インバランスの原因である場合には、
国際資本市場で資金供給は緩慢になるだろうから、金利は低下するだろう。しかるに、近年の世界金利は低下傾向にある。
これは新興国、開発途上国側の過剰貯蓄がグローバル・インバランスの原因である事実を示唆する
。そうバーナンキは指摘
する。

アジア通貨危機後に資金が逆流

世界経済は、なぜ貯蓄過剰の状態に陥ったのか。この点については豊かな国々と貧しい国々との間の経常収支パターンの
変化が起こったのが1997年であるという事実が鍵になる。1997年に何が起こったのかといえば、すぐに思い浮かぶのがアジ
ア通貨危機である。この危機をきっかけにして、アジアの新興国は資本輸入に依存した経済発展を嫌い、むしろ国内投資を
抑制してまでも国内貯蓄の余剰を創出して、それを海外に輸出するようになった。その資本がますますアメリカに向かうように
なった結果、アメリカの計上収支赤字が膨張した。グローバル・インバランス発生のメカニズムをバーナンキはそのように推測
する。

なぜ新興国で投資対象が不足するのか

グリーンスパン前連銀議長はこの問題について次のように述べている。
「開発途上国の家計や企業は、先進国に比べて所得が低いにもかかわらず、所得のうち貯蓄に回す割合が高い、先進国で
は、たいてい担保を裏づけとして貸し付ける膨大な金融ネットワークのおかげで、家計や企業のうちのかなりの部分が、現在
の所得を大幅に上回る支出が可能になっている。途上国ではこうした金融ネットワークが圧倒的に不足しており、所得を上回
って支出するように誘導されることが無い。さらに、大半の途上国はいまだ生活するのがやっとの状態にあるため、万が一の
場合に備える必要がある。家計は頼れるものを求めているが、政府のセーフティ・ネットが十分に整備されていない国が多い
ため、家計が身を守る唯一の方法が貯蓄になる
。」
「IMFによれば、1980年代、90年代の名目GDPに対する貯蓄比率は、先進国が21~22%で、開発途上国では23~24%だった。
開発途上国は過去5年間、先進国の2倍のスピードで成長した。貯蓄比率は中国が牽引役となり、2001年の24%から2006年
には32%に上昇した。貯蓄比率が高まったのは、文化が保守的で消費が出遅れたうえ、貯蓄の伸びに投資が追いつかなかっ
たからである。先進国の貯蓄比率は2002年以降20%を下回っている。
IMFの調査報告をもとにして、新興国の経常収支のパターンを、地域別に観察してみることにしよう。これまでは貯蓄過剰の状
態にあるのは、アジアの新興国であるとして議論を進めてきたが、現在はラテンアメリカの新興国の経常収支も黒字なのであ
る。経常収支の黒字がどのような形で資本収支の赤字(つまり資本輸出)に実現しているかを確認するとアジアの場合には、
外貨準備の増加が顕著に見られる。為替レートの急激な自国通貨高が生まれないように行っている為替介入がアジア新興国
の資本輸出の重要な部分を構成するわけである。アジアばかりか、ラテンアメリカまでもが近年はむしろ、国外に資本を輸出す
るような行動をとっている中で、現在でも一つの地域だけは例外的に、経常収支の赤字を記録し、国外から資本を輸入し続けて
いる。この地域だけは経済学の教科書どおりに、資本輸入に依存した成長戦略を選択しているわけである。その地域とはヨーロ
ッパの新興国、つまり東欧である。直接投資のフローについてはアジア新興国も受け入れ側に回っている。もちろんこの点では
東欧も同様である。しかし、対内直接投資のGDPに対する比率を見ると、東欧は4-5%であるのに対し、アジアは2%ぐらいに過ぎ
ない。東欧の資本輸入で際立っているのが、株式投資以外、つまり借り入れである。東欧の政府はEUへの加盟を視野に入れて
為替介入をさほどしていないため、外貨準備も小さい。


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「市場」において、企業家は確率予想のできない危険、すなわち「不確実性」の領域に踏み込むことによってのみ「利潤」
が得られる。なぜなら、事業に関わる危険が、確率予想のできる「リスク」だけであるならば、事業についての収入と生産
費の期待値を上回り、平均的には「利潤」がその事業に見込まれるという場合には、企業間の熾烈な競争が継続するだ
ろう。その結果、収入の期待値は生産費の期待値にまで下がって、平均的には「利潤」は消滅せざるをえないのである。
それに対して、危険についての確率予想のできない「不確実性」の領域に踏み込むなら、企業家は時に「利潤」を得られ
る。なぜなら、「不確実性」の領域では「利潤」についての確率予想は成り立たないから、いかに強力な競争の力をもって
しても「利潤」がゼロまで下がるとは断言できないからだ。経済学者ナイトはあくまでも自分の直感に過ぎないと断った上
で、「企業家は平均的には利潤を得る代わりに損失を被っている」という推測を述べるのである。彼がそう主張する理由は
単純明快だ。「企業家とは、本来、自惚れの強い人間がなる職業だから」

今回のサブプライム危機に際して、日本の経験を欧米の政治家に教訓として伝えたらどうかという意見があるが、その
ようなことはまだ実行されていない。当然である。日本の場合、もともとそれほど大変ではない問題を、政府と金融機関
が隠蔽に走ったために大変な問題にしてしまったのである。その「経験」を欧米の政治家に伝授するなど、恥ずかしくて
とてもできたものではなかろう。今回の場合、シティグループ、メリルリンチ、UBSなど欧米の金融機関のトップは、サブ
プライム関係の損失の責任を取って退任している。その後を継いだ経営者は、前任者の作った損失を引き継いではたま
らないので、前任者の判断で生まれたバランスシートの損失を積極的に公表する。それで損害の規模がわかり、増資
など何らかの手段が取れる
のだ。これに対して、バブル崩壊後の日本では、金融機関トップの交代がなかなか行われず
組織ぐるみで損失が隠蔽された。欧米で確立している「株主重視」の経営基準が、日本ではその当時確立していなかった
ために、経営者の失敗に甘い判断が日本では取られたのだ。

フランス王立銀行総裁にして「大ペテン師」

ミシシッピー・バブル
の舞台になったのは1716年フランスで設立されたミシシッピー会社である。この会社は当初、アメリカ
にある仏領「ルイジアナ」の通商権と開発権を与えられて設立されたが、やがて様々な事業を統合し、今日までも比較する
もののない史上最大の企業に成長する。この会社の実質的支配権を握っていたのがスコットランド人のジョン・ロウである。
2008年6月のフィナンシャルタイムズ紙にジュームズ・マクドナルドという評論家が面白い論説を載せている。サブプライム
は1719年にフランスが発明した」というのである。与信審査もろくにしない、本来価値の低い住宅ローンであるサブプライム
を、トリプルAの証券に仕立て上げるアメリカの金融機関の手法が、無価値な証券を人気のある証券に転換する錬金術を
初めて開発したということではミシシッピー会社がそのさきがけだという主張である。ここで無価値な債券というのはずばり
フランス国債である。ルイ14世が乱費をしたせいで、1714年の公債残高は国民生産の100%を超えていたのである。1715年
ルイ14世の死後、政府は800万ルーブルの借り入れをするために3200万ルーブルの額面の手形を発行しなければならな
かった事実も、それを裏書する。それを人気の証券に転換する。人気の証券とは、ミシシッピー会社の株式であった。人気
株を大量に発行して事業券の買収を繰り返し、やがては中国・インド・アフリカ貿易の権利も買い占めた。煙草の専売権、
貨幣鋳造権、さらにジョン・ロウは、フランス国債残高の全てをミシシッピー会社が買収するという壮大な計画まで発表して
いた
。ミシシッピー会社とはフランスという強大な帝国そのものをM&Aによって丸ごと乗っ取るプロジェクトの「コードネーム」
だった考えていただければ話が早い。一般大衆はミシシッピー会社の株を買い、ミシシッピー会社はそれで得た金を使って
フランス国債を買う。人々が望むならば、フランス国債を使って直接、ミシシッピー株を買うことも認められた。なるほど、この
ほうが手っ取り早い。

強国フランスの買収という気宇壮大な計画を打ち出すことのほかに、ミシシッピー株を人気株にするための絶対の切り札が
ロウにはもう一枚あった。彼はバンク・ロワイヤル(王立銀行)という彼自ら創設した当時のフランスの中央銀行の総裁でもあ
ったので、紙幣の発行を意のままにできたのである。王立銀行総裁としてのロウは、緩和的な金融政策を実行した。つまり
紙幣をどんどん発行して、自分が支配人であるミシシッピー会社の株式が市場で順調に消化されることを援護したのである。
ロウの壮大な計画もミシシッピー・バブルの崩壊とともに崩れ去る。当時の通商はリスクの割りに利益の少ない事業だったし
ロウが残高を全て買い取ると発表したフランス国債は、所詮ジャンク・ボンド以下だった。

金融システムの発展を生かすインセンティブを

問題の根本は金融機関の報酬体系がアップサイドに感応的である一方で、ダウンサイドに対して非感応な点にある。そのために
リスク・テーキングが過剰になされるのである。報酬体系の改め方として、ある金融機関のファンドマネージャーが基準金利を上回
る利益を上げた場合にはその成果に対する報酬をすぐに現金で渡す代わりに、その金融機関の株式の形で渡し、さらにその株式
は金融機関が設ける基金に委託されて一定期間はファンドマネージャー本人による株式の売却が不可能なようにする。そうすれば
もしそのファンドマネージャーの取ったテールリスクが実現して、金融機関が損失を被った場合、その金融機関の株価は下落し、
ファンドマネージャーが自動的に制裁を受ける。

経済学への教訓 価格シグナルは信頼できない

時価会計についての議論は経済学における革命といってよいかもしれない。なぜならこれまでは価格のシグナルに対する信頼が、
経済学にとって、いわば中核的な思想だったからである。その信頼に基づいて時価会計の提唱もなされてきた。もちろん、資産の
時価がファンダメンタルズをそのまま反映したものなら、そのシグナルを送ることは、金融取引を正常にする効果を持つだろう。だが
ファンダメンタルズがどのような値をとるかは誰にもわからず、時価はむしろ、ファンダメンタルズではなくその時点での流動性を反映
したものとなるので、そのようなシグナルの発信は流動性のスパイラルを生む危険性があるわけである。流動性、つまりその経済の
投資意欲に応じて決まる価格シグナルの場合、経済における主体間の行動の調整に役立つものの、その調整の仕方は過度に積
極的、もしくは過度に消極的に傾く傾向がある。なぜならば一部のものが積極的に動く状態では、その積極性が価格シグナルを通
じて他の者にも伝播されるからである。資産価格は、ファンダメンタルズなどという、誰も見たことも触ったこともないものに煩わされず
に、勝手に一人歩きをする
。つまり、資産価格の上昇する局面では、資産価格の上昇がバランスシートの改善や証拠金の減少を通
じて、市場の流動性の拡大を生み、それがさらに資産価格上昇につながる。他方で、資産価格の下落する局面では、資産価格の下
落がバランスシートの悪化や証拠金の増加を通じて、市場の流動性の縮小を生み、それがさらに資産価格の下落につながる。要す
るに上がる時も下がる時も、資産価格はファンダメンタルズとは関わり無く変動するわけである。

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【金と金融の意義】
2010.04.22: 東証アローヘッド導入のインパクト
2010.02.09: デリバティブ理論講座のお題
2009.12.30: 金融vs国家 ~金・金融の意義
2009.10.22: お金と人の行動の法則
2009.08.28: インド独立史 ~ガンディー登場
2009.04.09: 金(カネ)の重み
2008.10.10: あなたが信じているのはお金だけなの?
2008.07.18: Olympic記念通貨に見る投資可能性
2008.02.20: アジア通貨 ~HKD 通貨発行差益(シニョレッジ)

黒木昭雄氏:元警視庁警察官だったジャーナリストで、警察を愛するが故に、その腐敗を嘆きつつ追求している。徹底
追求に及び腰な私に彼が言った。
「現場で本当に汗水たらしてがんばっている警察官がバカを見ないように組織を変えて行こうじゃありませんか。僕らが
やらなきゃ警視庁は中から変わりませんよ」私はこの一言で意を強くした。

機動隊の部隊出勤などに対して国から機動隊本人に支払われる旅費を、隊員がその根拠法令をまったく知らないことに
乗じて、警備部が隊員には何も知らせずに隊員の名前で請求受領し、組織でプール
しており、その手法を継続させるた
めに発足したプロジェクトチームに私が入ったということなのだ。最初に専従のプロジェクトチームが必要な理由を警備第
一課長や警備部長に説明するための資料があった。そしてこれを読んだだけで、警備部にはカネがあるという噂がなぜ
警視庁内で囁かれているのか、そして極秘にプロジェクトチームを作る必要があるのかという疑問が氷解したと同時に、
15年間会計処理のさまざまな裏技に携わってきた私でも驚愕する事実を知ってしまったのである。

大蔵省が現在開発中の国費会計システム(通称アダムス)が1998年度から運用開始となり、それに伴って国の債務の
支払方法が、従来の小切手に替わって債権者の口座に振り込む方法となるから、機動隊旅費についても隊員個人の
口座に直接振り込まれるようになることが判明した。この制度が始まることは、警備部にとって大きな問題である。
第一に、個人の口座に毎月2万円から5万円の旅費が振り込まれるからには、事前に隊員にその金は旅費であるという
説明をせざるを得ず、説明如何によっては、隊員に、今まではどうなっていたんだという疑念を抱かせる恐れがあること。
第二に、集中再配分方式とは言いながらも、現状では隊員に還元している金額は総額の1~3割であり、残りはいわゆる
運営資金として警備部がさまざまな用途に使用しているのが現実であることから、個人口座振込後は、この運営資金が
調達できなくなることである。
この制度は国費全体に関わる大蔵省の方針であるから、機動隊旅費だけが例外となることは考えられず、早急に前期二
つの問題点をクリアーするため、これに専従してあたるプロジェクトチームの結成が必要である。

捜査に使われない捜査費

まず、その月が終わってから、その月の捜査費使いきり計画を立てる。署内の協力者により集まった居酒屋や喫茶店など
の領収書からシナリオを組み立てるのである。警察の伝家の宝刀である「捜査上の秘密」を振りかざせるから、このシナリオ
そのものについては監査検査やましてや情報公開などまったく怖くはない
。ただし、書類上のミスは追求される恐れがある
から油断はできない。

領収書の住所・氏名、情報提供者本人の領収書を捜査員に書かせるわけだが、領収書に使う架空の住所・氏名の選定が
ある。ひとつは、基本的には手持ちの印鑑がある姓でなければならないということである。警察署の各課に限らず、捜査費
を扱う全ての部署には何故か数百本という数の印鑑が保管されている。転勤や退職をした人が置いていったものや、必要
に迫られて購入したものなどがたまったものだと思われるが、いずれにしても領収書には当然印鑑が必要だから、姓は何
でも良いというわけではない。ふたつめはまったくデタラメな住所・氏名は使えないということである。6丁目までしかない街
なのに7丁目などと書いてしまうとたまたま監査員がその町にすんでいてうそが発覚してしまうなどの危険があるからであ
る。この二つの問題をクリアーして、信憑性に疑問を抱かせない領収書を偽造するために使われるもっともポピュラーなもの
が電話帳である。

ウラ金になった捜査費は拳銃の購入代金としても使われる。ここで言っているのは、押収するための拳銃を暴力団員など
から買うということであり、警察官が所持している正規の拳銃の意味ではもちろんない。捜査費は本来情報料だから、暴力
団員からの拳銃密売情報に捜査費を払って取引現場をおさえて摘発できたとしたら立派な捜査費の使途と言うことができ
るが、それは所詮ドラマの世界の話であり、現実には実績のノルマを課せられた捜査員が、子飼いのスパイなどに「○○駅
のコインロッカーに一丁頼む」などと声をかけ、あたかも密告があったかのような演出でコインロッカーにガサを入れて摘発

となる。これがいわゆる「首無し銃」と呼ばれるもので、ブツだけあってその背後にいる人間の顔はわからないということだ。

資金前渡
官庁における公費の支出手続きは、相手の債務の履行を確認してから請求書を徴して支払いをするという原則で安易な前
払い支出を防ぎ、出納機関という独立の部署から末端の債権者に直接金を振り込むという原則で現金が動くという危険を防
いでいるが、この例外が資金前渡である。この制度は、主に相手方の都合で即時決済を必要とする場合の支払方法である。
事務用品一つ買う場合であっても原則どおり契約手続きによらねばならない。領収書を支払い担当部署に提出しなければな
らない。そしてその際現金が余った場合は支払い担当部署に返さなければならない。外務省の外交機密費には、この領収
書による清算を必要としない。現実における資金前渡の運用は、機密費的な使われ方が件数でも金額でも最も大きな割合
を占めており、特に外交・防衛・公安・捜査を担う組織ではこれが顕著である。

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【民の欲と国家】
2010.05.20: 秘録 華人財閥 ~独占権、その大いなる可能性
2009.12.29: 何のために生きるのか?ふと考えるときがある
2009.10.07: 物欲の定義
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.07: 幸福感と欲の関係
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.04.15: 貯蓄率にみる人々の自信度合い
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道
2008.09.24: 俺の欲しいもの
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.07.18: Olympic記念通貨に見る投資可能性

おれにゃあ品とか社会的道徳とかいっさい関係ねぇ

田中角栄は小佐野賢治に頭を下げて
「頼む、日本電建を再建できるのはあんたしかいない。あの会社をそっくり引き受けてもらいたい。」

日本電建労組は田中角栄の刎頚の友、入内島金一社長に退陣要求を突きつけていた。赤坂の山王ホテルで、小佐野はま
ず話を聞こうと労組幹部をあつめた。経営者側から出席したのは小佐野ただ一人である。労組からは18人が出席した。
組幹部たちが一室に入るとすでに小佐野が正面の席にすわっていた
。背広は着ていなかった。白いワイシャツ、ノーネク
タイであった。小佐野が切り出した。

「組合が社長に辞めろ、というのは常識外だ。しかし、まあ、とりあえず話を聞こうじゃないか。」

労組委員から事情が話された。小佐野はそのたびに「ふむふむ」とうなずいたり、「そりゃわかるが無理だな」という。話をした
相手に対し、大きな体をやや斜めに向けている。答えるとき、相手の目を見ない。口数は少ない。そんな小佐野がふいにこう
いった。

いっとくがね。おれにゃあ、品とか道徳とか社会的善悪とかいっさい関係ねぇ

ぞっとするような迫力があった。そうして始めから決めていたように突然こう宣言した。
「よしわかった。社長を辞めさせる。一時金も全額だそう。ただし、条件がひとつある。本部専従の組合執行委員は全員一人
ずつ、私に最敬礼して、会長ありがとうございます、とお礼を言え。それがいやなら会社を潰す。もともとボロ会社なんだ。田
中が泣きついてきたから、手を貸してやったまでだ。いつ辞めたっていいんだ。会社の一つや二つ、私には関係ない。」

小佐野は日本電建の経営に本格的に乗り出すや、それまでの会社経営の要職にいた役員40-50人の首を1年もたたぬうちに
あっという間に切った。それらの役員たちに代わって、遠方の支店長を本社の役職につけた。本社の役職についた者はほぼ
全員小佐野信奉者となった。労働組合に対しても小佐野はアメとムチを使った。組合員などは地方の支店長などに大抜擢し
た。地方に行かせる前に自宅に呼び、大盤ぶるまいし、洗脳した。こういうものたちは小佐野のすごさを地方の社員に自然に
PRして歩く
ので一石二鳥だった。小佐野はさらに田中角栄によって3つに分裂していた組合の統一を命じた。このときも小佐
野は組合執行部を脅した。「組合同士でもめたら会社を潰す」

現場を離れてはものは見えない。

国際興業の始業時間は8時45分である。小佐野は朝の8時にはかならず会社に来ていた。高給取りであればあるほど、それに
見合うだけ働けというのが小佐野の鉄則なのである。
一般の社員は決められた時間に来て、決められた時間に帰ればいい。うちは今日は専務に会いたいと思ったら朝早い時間に
くれば会える
ような体制になっている。」
国際興業は上場会社ではない。あくまでも小佐野個人がオーナーである。つまり誰にも文句を言われる筋合いはないのである。
小佐野の印鑑へのこだわりは国際興業が大きくなっても続いた。小佐野の側近だった一人も語る。
「小佐野社長はどんな小さな書類、どんな細かい伝票にいたるまで、すべて自分が印鑑を押していた。小切手類の1枚でも、自
分が納得しないものは出さない
。机の引き出しに印鑑類をしまい、鍵をかけている。我々は社長がいない時には決済ができない。
ふつうは、会社がおおきくなるにつれ、社員などは他人に管理させるものですよ。ところが小佐野社長は他人に任せない。これ
は徹底していた。私はこの男は只者じゃない、というよりも、すごく用心深い男だという気持ちの方が強かった」
 小佐野は暇な時間ができると国際興業の役員たちを呼んで花札のオイチョカブを楽しんだ。彼が博打に熱中したのはなにより
気が紛れるからである。小佐野は趣味をほとんど持たない。小佐野は役員たちを無理矢理誘って、花札を始める。ダメだとは言わ
せない。そして負けのカネは負けとしてその場で現金で取る
。その場でなければ、つぎの給料から差し引く。これが小佐野の手
なのである。彼は常々言っていた。「カネを持たすとロクなことがない」

小佐野の賭博好きは徹底していた。小佐野はラスベガスにある古代ローマ風の建物で有名なカジノホテル「シーザースパレス」
に40人ほど取り巻きをつれて一大博打旅行に行った。その40人の中には自民党代議士であった浜田幸一や関東大組織のヤクザ
の幹部がいた。かれらは小佐野のツケでコインに替えて博打に興じた。結局このとき小佐野一行は「シーザースパレス」に借りを
つくって帰国した。カジノホテルの支配人ワインバーガーはわざわざ日本にまで取り立てにやってきた。小佐野と交渉したが、小佐
野はのらりくらりと逃げた。博打のカネだから証文でもとってない限りいくらでも逃げられる。小佐野は「明日来い」といって要領よく
逃げた。が最終的には払うことになった。いざ支払う段になって小佐野は値切った。
その後、ワインバーガーは、ツケで遊ぶのは日本人が多いというのでわざわざ日本に取立て会社をつくった。その代表に奥田
喜久丸という東宝のプロデューサーを据えた。
が、その会社は、のちに外為法違反であげられてしまう。なお昭和55年、浜田幸一代議士のラスベガス賭博事件が発覚した。
浜田が負けた150万ドルの穴埋めはロッキード社からのカネであったという疑惑が持たれた。


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堤康次郎との山梨交通紛争勃発

昭和34年(1959年)、小佐野は40万株の山梨交通の株式を買い集めた。小佐野の役員就任は1960年の5月の株主総
会で決定することが申し合わされた。ところが不思議な事件が起こった。山梨交通、二代目の河西坊ちゃん社長の姿
が掻き消えていたのである。河西は、恐るべき人物のところへ助けを求めて走っていった
のである。なんと西武の堤康
次郎であった。小佐野が恩人と仰ぐ「強盗慶太」と「ピストル堤」は伊豆箱根の観光事業をめぐり「箱根山合戦」と呼ばれ
るすさまじい戦いを展開している真っ最中であった。堤にも断れない理由がある。河西の父親である初代山梨交通社長の
河西豊太郎に恩があった。河西豊太郎は東武鉄道の根津嘉一郎の大番頭をつとめ、政財界に顔が広かった。武蔵野鉄
道創業に向けての悪戦苦闘を支えたのが根津であり、根津と堤のパイプ役となったのが河西豊太郎だったのである。河
西社長が堤のもとに走ったのも、父親が死ぬとき、「困ったことがあったら堤君に頼め」と遺言していたからである。堤はさ
っそく行動を起こした。まず「駿河観光」という会社を資本金2億円で設立した。が、これは実体のないペーパーカンパニー
であった。駿河観光と山梨交通を合併させようというのである。さらに河西一族と河西系役員はひそかに山交株を買い占め
始めた。その資金は堤が出した。昭和35年に入ると4月はじめから山交株が急上昇し始めた。1株50円であった株価がなん
と200円を突破し、300円に近づこうという勢いにまでなった。小佐野はなにがどうなっているのかまったくわからなかった。
自分では買占めなどやっていないのに、株価が急上昇している。

「山交株は河西一派が買い占めています。」
「何のためだ!」
「会長を追い出すためです」
「誰か金を出しているやつがいるのか」
「はい、西武の堤康次郎です」
「なんだと!」小佐野は我が耳を疑った。
「そんなことはありえない。俺は堤さんとは付き合いがあるんだ。山交に俺が関係していることも知っている。
堤さんが、俺がやっていることに手を出してくることはありえん!」

小佐野対堤のすさまじい株争奪戦となった。山交株は暴騰につぐ暴騰を続けた。ピーク時には850円までいった。小佐野が
3割、河西派が3割、西武側が3割で、河西は5月8日役員会で堤康次郎がつくった駿河観光との合併を持ち出し、一気に議
決してしまった。これを5月23日の株主総会で議決し、一挙に小佐野を葬り去ろうという作戦であった。

「謀略だ!役員にすら資産内容を知らされていない会社と合併して、俺の持ち株の比率を下げようという陰謀だ!」
小佐野は甲府地裁へ先の役員会での議決無効を提出した。同時に駿河観光との合併の案件を総会に上程せぬよう仮処分
の申請をした。小佐野は委任状を手に一族郎党を引き連れ会場の山梨県民会館に乗り込んだ。小佐野は「異議あり!」を連発
したが議長の河西俊夫は馬耳東風。それにくわえて前列にずらりとならぶ河西が頼んだ強面の総会屋たちが「進行!進行!」と
小佐野の叫びをかき消した
。駿河観光との合併は9月20日に実施することがあっけなく決議された。小佐野はむろん黙って
はいなかった。甲府地裁に「山梨交通株主総会決議執行停止の仮処分」を紳士した。6月28日、判決は総会決議の執行停
止を認めた。小佐野の主張が全面的に受け入れられたのである。
ついに陰の主役、堤康次郎が表舞台に登場してきたのは7月26日のことであった。「私も小佐野君も持ち株を河西君に譲ると
いうことにする。お互いに武器を捨てるということだ。」これには小佐野が怒った。7月27日に、堤は小佐野にそれまでとは違
った提案をした。

「小佐野君、わしの全株を君に渡そうじゃないか。そのかわりといってはなんだが、きみ、京浜急行の株を持っているね。
あれと交換してくれないか。」

堤は山梨には何の未練もない。ましてや山梨交通は万年赤字会社のようなもので、自分が経営に乗り出したところで、20年は
黒字に転換できないと考えはじめていた。小佐野は堤の申し出を即座に受けた。河西俊夫は堤が全株を小佐野に譲ったこと
を知り、東京の堤のもとに駆け込んだ。「どういうことですか!」が堤の言葉は恩人の息子に対する言葉とは思えぬほど、冷た
いものであった。「きみは事業には向かないから美術館の館長でもやったらどうだろうか」最後の土壇場で堤は河西を裏切った
のである。翌36年、河西は全株を手放し、社長を辞任した。

横井から株を巻きあげていただきたい

小佐野と横井、児玉の3人は、「富士屋ホテル事件」につづき、「西武鉄道買占め事件」でも奇妙な絡み合いを見せる。この事件
の発端は、横井が1969年から西武鉄道の株を買占めにかかったことに始まる。当時の西武鉄道の社長は康次郎の大番頭で
あった小島正治郎である。堤清二と堤義明はともに副社長であった。まだ西武グループのうち鉄道グループを義明、流通グルー
プを清二と分割統治することは決められていなかった。そこで内紛好きの横井が清二と義明の異母兄弟間に必ず近いうちに骨
肉の凄まじい争いが起きると予測し、約180万株買い占めた
。そして何故か義明のところではなく清二のところにでかけ、買取を
要求した。
横井は当時400円前後だった株を3,4倍もふっかけ、「大阪の仲間もおたくの株を買い漁っている」とグループ買いをほのめかした。
清二は横井の態度にさすが頭に血を上らせた。横井を張り倒してやろうかというくらいに怒ったという。横井は交渉決裂後もい
っこうに怯むことはなかった。持ち前の粘り強さで異常なほどの執念をみせて買い進んだ。執念深い横井は昭和46年の5月まで
に360万株も買い集めてしまった。あわてたのは西武側である。なにしろ360万株といえば、国土計画、安田信託、三井信託に
次ぐ、第4位の大株主に躍り出ることになる。もし横井が個人名義にでもすれば、個人筆頭株主横井秀樹という名が出てしまう

社長の小島ですら132万株しかもっていない。うろたえた西武幹部が小佐野のところに駆け込み訴えた。
「横井のことだ、株を持っているのをいいことにこれからどんな難癖をつけてくるかわからない。富士屋ホテルのときのように、
横井からなんとか株を巻きあげていただきたい。」
小佐野は東急だけでなく西武の堤義明とも深いつながりがあった。「それでは児玉さんに頼んでみましょう」
西武側は社長の児島正治郎、専務の宮内厳、岡野関治の3人の幹部で堤義明、清二は出席しなかった。立会人として、小佐野
児玉が出席した。360万株を横井が西武側に渡した。その代金の25億円は、横井の要求によって、そのうちの元で15億円を
現金、後の10億が小切手で支払われた。じつは小佐野は堤義明に借りがあった。小佐野が4千坪もの土地を芝の増上寺から買
った。そのとき、増上寺の檀徒総代の一人である堤義明の世話になっている。藤田観光の故小川栄一会長が『民族と政治』(昭和
51年4月号)で、その件について触れている。「たまたま児玉誉士夫氏が小佐野賢治氏の代理として私を訪問され、(中略)買い
取ることを申し出たので(中略)プリンスホテルの所有者である西武鉄道を通じて取引するべきことを要求したところ、すべての
話がまとまって、増上寺は西武鉄道に売却し、西武鉄道が小佐野賢治氏に転売する手段が成功し、同時にまもなく一切の立ち
退きも完了した。」


【株にまつわる事件】
2010.05.18: 秘録 華人財閥 ~李嘉誠と包玉剛 「英資財閥への挑戦」
2009.11.13: 7736企業乗っ取り 300億円強奪を示す財務諸表
2009.10.15: BNP作為的相場形成の疑義についての見解
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
2008.10.14: 日経225オプションの誤発注
2008.09.25: 世界一のお金持ちの楽しいShopping@GS PPS+Warrant
2008.08.18: 8868 スワップ契約についての考察
2008.03.20: 一族家における投資教育 ~新発CBとIPO
2008.02.02: 信用取引 証券会社の儲けと投資家(顧客)のうまみ
2008.01.28: ソシエテ・ジェネラルの大損



上級華族のお嬢さんとしか結婚したくないんです

小佐野は1950年、結婚した。相手は旧伯爵家の堀田英子であった。「田舎の貧乏百姓のせがれのわたしは、華族のお
嬢さんとしか結婚したくないんです。その辺のお嬢さんでは、いやなんです。それも普通の華族ではなく、上級華族でなければ
嫌なんです
。それでいて美人でなければいやなんです。」
華族にも上から、公、候、伯、子、男の5つの位があった。小佐野は伯爵以上の位のお嬢さんを望んだのである。堀田英子
はのちに「学習院戦後最高の美女」といわれるほど美しかった。英子は上野毛の小佐野邸に行ってみたいと言い出した。
自分が嫁いでいく家である。それに富豪の家はどんなものだろうという興味もあった。英子はいってみた。確かに立派な家だっ
た。玄関で声をかけた。小佐野がもっそり出てきた。その姿--英子は、内心で驚いた。<お金持ちだって言うのに・・・>
小佐野は木賃宿で着るようなよれよれの絣のような着物をいかにもだるそうに羽織っている
のだった。英子は富豪ということと目
の前の小佐野の姿の落差にとまどっていた。小佐野はカネは儲けていても、趣味や生活ぶりについてはまったく無頓着であった。

「刺身なんて薄く切ってちょうどいい」

結婚してからさらに英子は驚いた。家には花瓶が一つもない。小佐野はパーティーなどで花束を持ち帰ってきても、バケツに投げ
込んでおくだけである。「花瓶を買っても良いかしら」と小佐野に言っても小佐野はとりあわぬ。「そんなもの買う必要はない」
仕方なく英子は実家から大きな花瓶を持ってきて玄関に置くしかなかった。小佐野としては、いかに家庭の中のことだといえ、い
や、かえってそれだけに、無駄なカネは使いたくなかった。英子は料理が得意だった。ある日、小佐野においしい刺身を食べさせ
ようと思い、食卓に盛って小佐野の帰りを待った。帰ってきた小佐野が食卓につくと刺身を見るなり英子に言った。
「どうしてこんなに分厚く切るんだ。刺身なんていうのは薄く切ってちょうどいい。こんなに分厚く切っちゃ、カネなんか貯まらないよ」
外においてケチというばかりでなく、家庭にあってもケチを通していた。猛烈な守銭奴である。小佐野は家計についてもいっさい英
子には任せず、自分で仕切った。英子には、小遣いをほとんど出さなかった


ちょっと・・・これ・・・どこの家庭の話??
なんかかなり近い話を聞いたことがあるような気がする。
おさけん~♪ もし同い年だったら俺と仲良くなれそうだな。これを読む限りではよぉ。


引き裂かれた夫婦の信頼関係

小佐野は妻にカネを渡さないため、英子は小遣いに不自由をした。小佐野は英子にカネのないのを知っていて、夜寝る前にカネ
を抜かれないようにそっと自分の財布の中身を数えて寝ていた
と言われる。

あっ、あれ? これも似たような話が・・・
2008.07.09: 妹が見た悪夢

彼女はカネのために結婚したのに、カネが使えないことで、夫を憎みはじめたとさえ言われている。なぜ英子と小佐野の間
がこのように冷え切ってしまったのか。それにはわけがあった。英子の弟、正治の引き起こした事件であった。ロッキード事件
の後。小佐野は上野毛の自宅にこもり、一歩も外に出なかった。ストレスもたまる。もともと猜疑心は強いのだがそれに輪をか
けて疑い深くなった。ねたみ嫉妬も異常なほどであった。そんな小佐野を尻目に英子の実弟である正治はとんでもないことを
吹いて回っていた。「小佐野が死んだら俺が社長になるんだ。死ねば財産の大半は姉が受け継ぐけれでもどうせ女だから俺
にその大半は回ってくる」そういっては小佐野の名を借りて銀行に金を駆りまくっていた。小佐野の禿頭からは湯気どころか
火が吹き出そうだったという。

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田中角栄と刎頚の友とまでいわれたいわゆる政商である国際興業グループのオーナーであった小佐野賢治
1941年、太平洋戦争のはじまる年に第一自動車商会を創立するやそれから軍に食い込み、左官待遇で軍需省の民
間嘱託となった
。戦争の拡大に合わせ儲けていった。
1945年、8月の敗戦と同時に進駐軍が入ってくるや、米軍の指定商となった。軍にかわって米軍に食い込み、稼ぎまくる。
日本とアメリカの蜜月時代にピタリと歩調を合わせている。以後ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコのホテルを買収
するなどして、アメリカを背景に儲けていく。
1950年、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮半島に進出し、米軍基地内でバスを運行させた。
1965年、ベトナム戦争が全面拡大した。国際興業は、南ベトナム最大の米軍基地、ロンビン基地内で、米軍将兵輸
送用バスの貸付と、バスの修理事業を始めた。

幻の千円札で買った3つのホテル

千円札は昭和25年(1950年)に初めて発行されたことになっている。表には聖徳太子の肖像が刷り込まれ、裏には法
隆寺の夢殿が刷り込まれている。その千円札が日本発の千円札-と、日本人の誰もが、今はそう信じている。ところが実は
それ以前に千円札は存在したのである。その「幻の千円札」はごく一部の者たちの間で流通し、わずか半年の後に姿を消す

表には日本武尊(やまとたけるのみこと)の肖像画、左に武部神社の風景が刷り込まれている。裏には風景などの絵は無く
大きく右側に「千」、左側に「圓」と刷られている。正式名称を「日本銀行兌換券甲千円券」、通称「日本武尊千円券」と
いう。が、幻の千円札は縦が10センチ、横が17.2センチと片手で持つというよりは両手で持たねばならないような大判の
ものであった。この千円札は終戦直後の昭和20年8月17日に発行された。新円きりかえ前の昭和20年の銀行員の初
任給が80円、巡査の初任給が60円の時代である。いかに超高額紙幣であるかがわかる。昭和16年、日本銀行が大
蔵省印刷局に発注した。総印刷製造高は81億円分で、発行日は昭和17年4月16日とされたが、実際に流布したの
は昭和20年8月17日~翌21年3月2日までであった。発行日と流通を開始した時期に約3年間のブランクがあるのは
昭和17年5月1日付けで、日本銀行法が公布されたためである。この法律は札と金が交換できる兌換券の発行を禁ず
るというものである
。既に印刷済みの千円札は兌換券であるため、日銀法の公布前に発行してしまおうという手続きが踏
まれたのであった。超高額の千円札は、非常時の緊急準備として製造された。敗戦に及んで膨大に膨れ上がった臨時軍
事費の未払いや、恩給の支払いに当てられた。そのほかには使われることが無かった。

小佐野はその千円札をホテルの買収に当てたのである。
「千円札に関して、小佐野はこれらのホテル(熱海、強羅、山中湖)に払ったという以外には、なにもいってません。そのほか
にそれらは古い札でかなり汚れていたという証言があります。長い間流通していなかったように思われます。このお金がどこに
預けられていたかを明らかにし、銀行がその千円札の番号を知っていたかどうかを知るために、横浜地方検察庁渉外部の
蓑山保男が調査しようとしています。彼は政府の印刷局を調べ、また、満州の関東軍に対して千円札が発行されたかどう
を調べようともしていました。小佐野は終戦後に陸軍省あるいは参謀本部に商品を納めてこのお金を手に入れたとみられ
ています。」
結局、裁判でも千円札については米軍将校が加わっていることから不起訴となっている。そのため小佐野裁判で表面化し
なかったのである。いずれにせよ、小佐野は誰もが手にできるわけではない千円札を大量に持っていたことは事実である。

1947年、小佐野は横浜刑務所に入れられた。小佐野の塀の中の姿を当時の仲間が語る。
「小佐野は、年が若いのに頭が禿げていたので、おれたちは、彼のことをオジサン、オジサンと読んでいた。本来、学歴も無く、
教育らしい教育を受けていないのだから、いわゆる通称モタ工場といって、紙張り、袋張りの工場に回されるところだ。が、
IQテストで案外良い結果だったらしく、普通なら中学卒くらいの学歴がないと回されない印刷工場に配属された。しかし、
漢字がよくわかるわけでもないので、印刷では文選とか植字とか技術のいる仕事をさせるわけにはいかない。解版といって、
刷り終わった版をばらす仕事をやらされたり、工場の中をホウキを持って掃除したりしていた。やつの唯一の取り柄はもともと
育ちの悪い男なので物事にこだわらないことだ。刑務所の酷い食事にもあまりぐちをこぼさないでいた
。が、何気ない風で自
分がいかに金持ちかということをそれとなく人に分からせるような話をする。

田中角栄は1948年第二次吉田内閣発足で法務政務次官に就任。がその年、いわゆる炭管事件で逮捕。東京高検
に出頭。史上初の社会党内閣である片山哲内閣が、社会主義政策として石炭を国家管理下に置こうと炭鉱国家管理
法案を閣議に提出した。業者たちは黒いダイヤと呼ばれた金のタマゴを社会主義者たちに渡すまいと田中角栄に陳情した。
田中は業者から100万円を受け取った。田中土建工業専務の入内島金一を介して政界にカネをばらまかせた。それが罪
に問われたのである。ところが小菅刑務所に入っていた12月23日に衆院が解散されてしまった。田中は獄中から立候補
た。昭和24年1月13日保釈。総選挙で二位当選、昭和26年炭管事件控訴審判決で無罪となる。


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どうやら彼はアメリカ人のようだった。私とそう変わらない年齢だと思えるのに、眉間には深い皺が走っている。私は陽と風と
雨に長い間さらされてきたらしい彼の顔を見ているうちに、唐突に彼がベトナムからの帰還兵であるように思えてきた。船乗
りが陸に上がったとか、ヒッピーが流れついたとか考えるより、ベトナムでの休暇のたびにバンコクの女の元へ通っていたが
、やがて子供が生まれてしまい、除隊後もアメリカではなくタイに居ついてしまったと考えるほうが彼のどこか人生を投げたよ
うな雰囲気
に合っているような気がした。

この宿には3人の年配の男のほかに6人の若者がいた。ひとりは帳簿づけのような仕事をしているのだが、ほかの連中は、
ちょっとした走りづかいや掃除をするだけで、日がな一日ぶらぶらしている。することといえば、昼寝かマレー風のハサミ将棋
くらいしかない
。よく観察してみるとヒモに違いなかった。深夜に客が途絶えると、それまで外にいた若い衆はそれぞれ自分
の女の部屋に入っていく。女の仕事部屋が彼らの巣でもあるらしかった。ウィークエンドは書き入れ時で、客も夜遅くまで
いるし、場合によっては泊まりということもある。運悪くいつまでたっても女の部屋にもぐりこめないヒモたちは、部屋の前の
廊下のハンモックまがいのベッドを組み立て、そこに寝なくてはならないのだ。自分の女が別の男と一緒に寝ている前で、
いったい眠ることなどできるのだろうか・・・。


居るよね・・・アジアって。そういう何してるか良くわからない人・・・。


そこはアラブ・ストリートという名にふさわしく、通りには金色屋根のモスクが建ち、またインドから中近東にかけての雰囲気を
持つ店が並んでいる。それらの店が扱っている品物はほとんどが布地か衣料品で、しかもとてつもなく安かった。タイよりも
マレーシアよりも香港と比べてさえ安い
。値段を訊ねると、ワイシャツが300円、白い無地のTシャツが180円という答
えが返ってきた。

シンガポールは大きく変貌を遂げようとダイナミックに動いている都市だった。到るところで古い建物が壊され、新しく高層
ビルディングが作られている。すでに完成している建物には高級輸入品店やレストランが入り、辺りにきらびやかさをふりま
いている。しかし物にほとんど興味のない私にとっては、フランスやイタリアの洋服や革製品がいくら安くても関係なかった。


そうなんだ。偉くなったもんよのぅ。シンガポールも。


<そうだ、シンガポールは香港ではなかったのだ> 気がついたあることとは、言葉にすればそのような陳腐な表現にならざる
をえないものだった。シンガポールは香港とは違う。私はそれに気づいたことで初めて、なぜシンガポールが自分にとって退
屈でつまらないのかの原因がわかったように思えた。私はこのシンガポールに香港のコピーを求めていたらしいのだ。香港が
あまりにもすばらしく、一日として心が震えない日はなかったほど興奮し続けていたため、その熱狂の日々をもう一度味わ
いたいものと思い込んでしまった。しかし、私がシンガポールにもう一つの香港を求めていたとすれば、たとえそれがどれほ
ど魅力的な街であったとしても本物以上のものを見出せるはずがなかった。
シンガポールばかりではない。タイやマレーシアのどんな街にいても、無意識のうちに香港を探し求めていた。そして、違う、
違うと思っていたのだ。これらの国が中国の文化に深く影響されていたということも、街には華僑が多かったということも、私
にそのような錯覚をもたらす大きな原因であっただろう。しかし、当然のことながら、シンガポールはシンガポールであって香
港ではなく、東南アジアの他のどんな街にしても香港ではありえない
のだ。

物ってふえますよね。もちろん家事とかそういうことがあって、一瞬にして消えてしまうでしょうけど、そういうことがない限り、
人の関係とか、物とかが増えていくにしたがって不自由になっていきますよね。僕はそういう風に物をふやして、関係をふ
やして、そして不自由になって、安定した感じで生きていくようにはなりたくないと思うんですよね。


物は、きちんと、捨てれば増えません。


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もうキャット・ストリート(ラスカー・ロウ、またの名を泥棒街)などどうでもよくなってしまった。香港は、おそらくあらゆる通りが
キャット・ストリートのようなものなのだろう。あらゆるところに店があり、品物があって、人がいる。そのとてつもない氾濫が、
見ているだけの者も興奮させてしまうほどのエネルギーを発散している
のだ。<香港って街は、なんて刺激的なんだ> 私
は九龍に戻るフェリーの上で、歩きつかれた脚を投げ出しながら、胸のウチで何度もそう呟いていた。


う~む、良い表現だ。俺の香港の第一印象もこんな感じだった。


右手を後ろに隠すようにして戻ってくる。そして恥ずかしそうに右手を突き出すと、「スイクァ」と言った。彼女の手には西瓜
が一切れあった。みんなが食べろ食べろと勧めるので、ひとりだけだったがありがたくご馳走になることにした。


これもわかる。日本語と中国語の同音同義。日本人なら誰しも嬉しくなる瞬間だ。


マカオ、香港から連絡線で2時間半、水中翼船ならその半分でしかないが、その二つの都市は明らかに異なる国に属
している。香港から船に乗る時は出国カードに記入しなければならず、マカオの桟橋に降り立てば入国カードを提出し
なければならない。しかし同時にその二つがどれほど密接に結びついているかは、入国の手続きをひとつするだけでわか
ってくる。桟橋で簡単に発給してくれる観光ビザは25パタカであると共に25香港ドルでもあるのだ。つまり、マカオの通
貨であるパタカは、香港のドルに連動しほとんど等価なのだ。マカオの市中では香港のドルがそのまま使用できるという。
もっとも両者は等価ではあっても対等ではなくその力関係は香港ドルがマカオで流通しているのに対し、パタカが香港で
は使えないところにはっきり現われている。


時代が違うね~。今は40分で着く。ビザも必要だったんだ・・・。当時はポルトガル領だったのかな?
今となっては、二つの都市は属している国は中国で同じだが、行政が異なるだけ。
パタカと香港ドルは等価ではなく、1MOP=0.97HKDの固定である


賽の踊り

大小の勝負のアヤはゾロ目にあるのだ。大小におけるゾロ目は、ルーレット言えば0や00に相当する。象牙の球が0や
00に落ちれば赤黒どちらに張っていても親に取られてしまう。大小のゾロ目もそれとまったく同じで、合計数がいくつであ
っても大小に賭けられた金はディーラーに没収
されてしまう。私がカジノ側の人間だとすれば、そのゾロ目を最も有効に利
用したいと考えるだろう。ゾロ目が出る時に大と小に大きく賭けられていればいるほど、カジノにとってはありがたい。ディー
ラーはゾロ目を思うところで出せるのだ。場の雰囲気を煽り、客を興奮させ、大と小に賭け金が集中するようにしてゾロ目
を出す
。私はこの推測に誤りがあるとは思えなかった。


沢木君、残念ですが、誤りです。
このような事象がなぜ起こるかは、ディーラーの"腕"によってではなく、民の振る舞いそのものによるものです
民は全てを失うまで賭け金を大きくする傾向がある。必然の偶然性によって大きくなったに過ぎない富に、不合理な理由
をつけて正当化し、自らに才能があると思い込むものなのである。大大大大大と出てるから、次も大、次こそは小などと
いう宗教じみた不合理な理由で偶然を神格化し、調子に乗って大きく張っていく。そして、ついに訪れた必然のゾロ目が
出たら、カジノ側のイカサマを疑い始める
。これは大衆ギャンブルだけでなく、株でもKnock-In Put Shortでも言える民
のBehaviorなのです。


ダイスという単語の綴りが不意に曖昧になってきた。DICEだと思うのだが、確信が持てない。バックの中に放り込んでおい
た辞書を取り出し、調べてみた。綴りはやはりDICEだった。しかし意外だったのはそれが複数形で、賽の単数はDIE
であると記されていたことだった。DIE、つまり死だ。賽と死がまったく同じ綴りを持っていることに驚かされた。辞書にはこ
んな例文も載っていた。賽は投げられた。ルビコン河を前にしての、ジュリアス・シーザーの有名な台詞である。それを英語
にすると次のようになるという。The die is cast.
だが、この文章をじっと見つめていると、投げられたのは賽ではなく、死であったかのように思えてくる。

沢木 国境線というのは厳密に引かれているもののようでいて、ひどく杜撰なところがあるものだからね。
山口 そう。戦後の日本人にとっては、海岸線が即国境だったわけで、沢木さんや私は明治このかた、一番コンパクトで
国境のはっきりした日本で育った世代でしょ。だから、戦前世代と違って、国境なんて杜撰なものなんだという常識に欠
けるところがある(笑)

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純度3%に濃縮されたウラン燃料を使って発電したり、実験や核兵器製造の原料となるプルトニウムを生産するた
めの原子炉で燃やした後の使用済み核燃料の組成は、ウラン238が95%、ウラン235が1%、プルトニウム1%、核分
裂性廃棄物3%
となる。プルトニウムは自然界には存在せず、以上のようにウランを燃焼させることによってのみ得
られる。原子力発電所での燃焼の場合、軽水炉型と黒鉛減速型の二つのタイプの発電炉があり、現在世界の主
流となっている。軽水炉型での発電後に生成される1%プルトニウムの組成は、プルトニウム239が58%、これに対
し、黒鉛減速型では90%とかなり純度が高い
。このプルトニウム239はプルトニウム型原爆の材料として使われる
ことから、黒鉛減速型発電炉は軽水炉型に比べて核兵器開発に限りなく近いところに位置するものと見られる。
核兵器疑惑を受けて締結された94年の「米朝枠組み合意」で、北朝鮮の黒鉛減速型発電炉を廃棄する代わりに
韓国と日本が軽水炉型2基を新規に建設することにしたのは、以上の理由からだった。

インドもパキスタンも発表された核爆発装置の破壊力の数値と実際に地震波でモニターされた数値とのあまりの
開きはどう説明すればよいのだろうか。地下核実験を行う場合、地中深くに大きな穴を掘り、実験用原爆をセット
して起爆の信管につながる装置を地上に連結したうえで、穴そのものは分厚いコンクリートの蓋で厳重に密閉さ
れる。これは爆発によって物凄いエネルギーが地上に噴出し、有害な放射性物質が空中に吹き上げられるのを
防ぐためだ。インドもパキスタンも発表された破壊力数値より実際のモニターされた数値の方が大幅に低かた
ということは、セットされた爆発装置(インドは3つ、パキスタンは5つ)が全て予定通り爆発しなかった可能性が高
いと考えられる。複雑な構造を持った現代タイプの核兵器は通常、①概念設計、②概念設計に基づいて作った
部品をテストする部品群テスト、③テストで不具合を直した上での本格設計、④開発、⑤爆発実験、⑥生産、
⑦配備、の7つのプロセスを経て初めて正真正銘の核保有国となる。問題は、今後インドが「生産」「配備」とい
う「核兵器保有国」のプロセス完結まで進むかどうか
に移ってくる。

パキスタンを通じ、イスラムへの波及の可能性は薄い。リビア、イランといった中東のイスラム国家が核保有を
虎視眈々とうかがっていることから、同じイスラム国家のパキスタンが今回獲得した核兵器技術を流すのではな
いかと懸念されている。いわゆる「イスラムの核」だ。パキスタンはインドと同様これまで一度も核兵器技術を海
外に輸出した疑惑を引き起こしたことは無い。「イスラム世界の中でも穏健派を代表していく。イスラム原理主義
などの急進派とは一線を画している」。これはイスラムの穏健派にとどまることで、日本や米国、さらにはサウジ
アラビアなどのイスラム穏健諸国からの経済支援を獲得できるという冷静な計算があるからだ。

95年9月には米上院外交委員会中東南アジア小委でロビン・ラフェル国務次官補が証言し、「米政府は対パキ
スタン政策について議会と次のことで合意したことを明らかにした。

1.パキスタンは米国にとって、不安定なイスラム圏の中にあって穏健で民主的なイスラム国家、国際テロ対策を
支援している国家、世界のPKO活動で米国のパートナー国家、麻薬取引と民族紛争の脅威に直面している国
家、建設的協力的関係を維持していく。
2.核開発を凍結させ地域の緊張を高めることは避ける観点からF-16の供与と政府間の軍事支援再開は慎む。
3.パキスタンが支払った金も装備品も両方渡さないという不公正な態度を取り続けることはしない。

これを受けて、米国は対パキスタン武器禁輸を5年ぶりに一次解除することを決定し、F-16戦闘機の本体を除く
艦対艦ミサイル、空対空ミサイルなど総計3億6800万ドル分の武器がパキスタンに売却された
。凍結されてい
るF-16戦闘機28機については、第三国(フィリピン、タイ、台湾は除かれる見込み)に売却し、その代金をパキス
タンに返還するとクリントン大統領は表明した。

レス・アスピン米国防長官は、核戦力見直し作業をリードしていたが、米国内のタカ派の猛烈な反対にあって
挫折した。アスピン長官が推進した劇的核削減案実現の障害になったのは、皮肉にも唯一の被爆国、日本の
存在だった。米国による核の傘の提供だ。日米安保条約に基づいて米国は日本に対し、核を含むあらゆる攻
撃に対する防衛を約束している
。「米国は日本などの同盟国に核の傘を提供しているのだから米本土を守るに
足るだけの核では不足する」というのが核兵器の劇的削減を回避する論理であり、口実をひとつでもあった。
筆者がインド・パキスタンを訪れて「核実験をしないよう」求めたところ、異口同音に「米国の核の傘に守られて
いる日本が、我々にそんなことを言えた義理か」
と反撃された。96年の中国による駆け込み核実験を日本が
唯一の被爆国の立場から厳しく非難した時、中仏両国から同じ反論を受けて、返す言葉を見つけられなかった。

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「パキスタン原爆の父」アブドル・カディール・カーン博士

1936年、インド中部のボパールにイスラム教徒の子として生まれ、パキスタン独立の後、52年にカラチに移住。ベル
ギーのルーベン大学で博士号を受けたあと、濃縮ウラン製造技術では世界的に有名なURENCO社(英、独、蘭3カ国
合併)の系列会社、FDO社(オランダのアムステルダム)に冶金学専門家として72年4月に就職
した。ここでの勤務を
通じてカーン博士は、濃縮ウラン型原爆の製造に必要な高度なウラン濃縮技術を身につけた。

インドが98年の核実験再開まで一貫して「核兵器製造能力は保有しているがそれは万一の場合の選択肢であって、
現実には核兵器を保有していない」とするオプション・オープン政策
を堅持してきたのと同様、パキスタンもまた今回
の核実験実施までは「核兵器製造能力はあるが、実際には持っていない」とする政策を堅持してきた。パキスタン
が「経済援助」と「事実上の核抑止」を両立させる「あいまい戦略」をとり続けることができた最大の理由は、米国が
パキスタンの核兵器開発を知っていながら、これを事実上黙認してきたためだ。米国が早い段階でパキスタンの核
兵器開発を知っていたという証拠は二つある。74年9月にCIAは「核兵器の将来の見通し」と題した報告書を発表し
(これは74年5月のインドによる初の核実験を受けて、急遽まとめられたもの)、「パキスタンが核兵器開発を完了する
には少なくとも10年かかるが、外国の支援を得ればもっと早くできるだろう」と指摘したことが第一。第二はフランス
国営原子力関連メーカー、SGNがパキスタン政府との間で契約したプルトニウム濃縮のための再処理施設(イスラマ
バード南西180kmの砂漠の町、チャシュマに建設を予定していた)建設プロジェクトについてフランス政府に圧力をか
けて78年6月に破棄させていたことだ。これは当時のジミー・カーター政権がパキスタンの核兵器開発疑惑をはっき
り認識していたことによる。ところが79年12月に事態は一変する。ソ連軍が突如としてアフガニスタンに侵攻したた
めだ。米ソ緊張緩和の最中に起きたソ連の軍事行動は、米国を驚愕させるとともに、アフガニスタンがソ連によるイ
ンド洋進出の回廊にあたるところから、米国は一気に緊張の度を深めた。アフガニスタンの隣国パキスタンはまさに、
このソ連によるインド洋なんかを阻止しうる格好の地理的位置にあるため、米国は急遽、膨大な量の軍事・経済支
援をパキスタンに注ぎ込み、パキスタンをソ連のインド洋進出を阻む防壁として利用した
のだ。こうしてそれまで神経
を尖らせていた「パキスタンの核開発疑惑」は、脇に押しやられ、カーン博士は心置きなく核兵器開発に専念。87年
にはウラン型の原爆の最初の構成要素が完成した。しかし、89年に入ってソ連軍がアフガニスタンから完全撤退す
るや、状況は再び一転する。ソ連によるインド洋南下の脅威が去り、その防壁としてのパキスタンの戦略的価値が
低下するや、前述の通り米国は手の平を返したように10年間にわたって事実上不問に付されていた「パキスタンの
核兵器疑惑」を持ち出し、「核開発を中止しなければ援助を打ち切る」と猛烈な圧力をかけた。ソ連のアフガン内戦
介入時代の10年間に米国からの巨額の援助が国家財政の不可欠の部分を占めるに至っていたパキスタンはこれ
に屈し、核兵器開発は凍結された。

パキスタンは自国内にウラン埋蔵は無く、重水の製造装置を持たず、核兵器の組み立てのための関連部品に使わ
れる資材のほとんどを外国に依存している
、きわめて脆弱な基盤に成り立っているのが大きな特徴となっている。
インドのような自己完結性を持たないがゆえの脆弱の基盤に加え、パキスタンの核兵器開発にはもうひとつ大きな
弱点がある。ウラン型の原爆は構造が簡単で製造が容易である代わりに、プルトニウム型に比べて重量が重く小
型化が難しい
ことだ。プルトニウム型原爆は改良を重ねることで小型・軽量化を進めて比較的早くミサイル搭載タイ
プを開発することができるのに対し、ウラン型は小型・軽量化が容易ではないため、どうしても航空機搭載に頼らざ
るをえない。その結果、ウラン型原爆はミサイル搭載タイプのプルトニウム型に比べて、相手に対する核兵器として
抑止効果が大幅に落ちる。パキスタンは、広島型の原爆6~10個分の兵器級高濃縮ウラン・部品を保有している
とみられる。その全体構成要素は87年ごろ最初のものが完成し、89年に開発が凍結されたものの、90年にカシミ
ールをめぐる対インド関係緊張激化を受けて再開され、その後91年以降は濃縮ウラン型原爆の開発は凍結されて
いるとみられる。現在は、小型・軽量化が容易な長崎型のプルトニウム型原爆の開発を目指していると推測される。

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インド原爆の父 ホミ・バーバー博士

バーバー博士は、イギリスのケンブリッジ大学で核物理学を学んだあと1944年にインドに帰国、翌45年に設立された
「タタ基礎研究所」の所長に就任して、インドの原子力研究をスタートさせた。インドの核兵器開発は中国の核実験成
功がきっかけだったが、バーバー博士自信の核兵器開発への決意は、それよりはるか前に形作られていた。インドが
独立を果たしたわずか11日後の48年8月26日、インドの主だったリーダーが秘密裏に集まって独立後のインドの基本
政策を討議した。席上、バーバー博士は一同に向かって「力を使わない者に、力は形成されない」と述べ、「強いイン
ド」作りを執拗に主張したという。「58年までには核実験を実施したい」。その後62年の中印国境紛争でインド軍が大
敗するや、バーバー博士は原爆製造の必要性を公言するようになり、64年10月の中国による核実験成功の直後に
は「インドは18ヶ月以内に核実験を行うことができる」と言明するに至った。バーバー博士の最大の功績は、その広範
な交友関係を通じて、イギリス、カナダ、フランス、米国から原子炉建設や燃料、重水の提供に至るまで、様々な支援
と協力を取り付けたことだった。

米国の失政

宿命の対立関係にある隣国パキスタンとインドの核実験に使われたもともとのプルトニウムを抽出したシーラス原子
炉の輸出国であるカナダは激しく反発したが、ソ連は「インドが核爆発の平和的利用技術において世界水準に達す
る道を開いた」と、事実上支持する態度を取ったほか、フランス原子力委員会に至っては祝意を表した。中国はコメ
ントなしに速報。米国は「インドの核実験に使われた物質は米国が提供したものではない」ことを強調するとともに、
「米国は引き続き核兵器の拡散には反対していく」ことを表明したにとどまり、国際社会の対応は大きく分かれた。
インド核実験成功のカギを与えた、トロンベイの再処理工場の基礎技術は、米国が初期の原爆を開発するのに成功
したビューレックス法と呼ばれるプルトニウム濃縮方法で、米国はこの技術をトロンベイ工場に全面供与し、24人の
インド人技術者の訓練にもあたった。米国はなぜ、危険な各関連技術・施設を気前よくインドに提供してしまったの
だろうか。その理由はアイゼンハワー政権が打ち出した「平和のための原子力」構想にあった。その基本的考え方
は、核兵器の拡散を阻止する最善の方法は、原子力研究で最先端を走っている米国が、友好国の平和利用研究を
積極的に支援することによって、これら友好国が軍事利用への道を自制するようになること
だというものだった。この
ようなきわめて楽観的な考え方に基づいて米国は、インドの原子力研究を育てるために、保証金付の借款、研究費、
訓練などの大盤振る舞いをし、1300人ものインド人科学者やエンジニアが米国内で教育・訓練を受けた。このように
みてくると、米国の場当たり的な政策の責任はきわめて重いといわざるをえない。

インドが開発したとみられる核兵器は、長崎に落とされたのと同じプルトニウム型であるということだ。またパキスタン
が核兵器開発に必要な多くのものを外国から輸入に依存しているのに対し、インドの核兵器開発は基本的には「自
己完結性」を有していると言える。インドは自国にウランを埋蔵しており、IAEAの推計によれば1キロのウラン抽出に
80ドル未満という比較的低いコストで済むものが35000トンもある
ことだ。自国産の天然ウランを使って、マドラス、ナ
ロラ、カクラパルの原発、さらにはシーラス、ドゥルーヴァ、FBTRのプルトニウム生産炉でプルトニウムを生産し、これ
をトロンベイ、タラプールのプルトニウム再処理施設で兵器級プルトニウム(純度93%以上)に精製するという、一連の
サイクルを自国内で行っていることだ。第三は原発炉、プルトニウム生産炉いずれにも必要不可欠な重水をインドは
大量に国産する能力を持っている
点だ。第4は1958年に設立された「国防研究開発機構」傘下に、47の研究所、8つ
の国有製造企業、科学者・技術者約6000人、専門技能工10000人を抱え、裾野の広い技術基盤を保有しているこ
とだ。第五は、36万9000トンに及ぶトリウムを自国内に埋蔵しており、万一自国産の天然ウランを掘り尽くしても、ウ
ランに変わるプルトニウム生産手段を確保していることだ。トリウムはウランと一緒に高温ガス冷却炉で燃やすことで、
ウラン233を生産でき、これを燃料に高速炉でプルトニウムを生産することが可能だ。インドはこの、トリウム燃料サイ
クルに取り組んでいる。インドの核兵器開発の特色は、インドの各関連施設はパキスタンに比べて膨大であり、大量
の兵器級プルトニウムを生産できる点にある。また熱核兵器である水爆を製造するための設備を持っている点も見
逃すことはできない。インドは計画中のものも含めて8つもの重水製造工場を持っているために、水爆製造に必要な
三重水素(別名トリチウム)を多量に生産できるうえに、もうひとつ水爆製造に不可欠なリチウム6の生産・精製も行っ
ている。唯一ともいえる弱点は、純度の高いベリリウム金属を国内調達できないことだ。核物質のコアを取り巻く反
射材にベリリウムを使えば、爆縮圧縮を2倍を高められる。こうすれば原爆製造は最少量のプルトニウムで済む(臨
界量を最小化できる)ので、原爆を小型化・軽量化できるのだ。そのため、インドは80年代に大量の高純度ベリリウ
ム金属を輸入している。

【資源獲得競争】
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NPTの無期限延長決定、CTBTの圧倒的多数で採択という、日本をはじめ国際社会がこぞって歓迎した事柄が皮肉
にも結果的にインドを追い詰め、この時期に核実験をやらざるをえない状況を作り出したことを、インド側の証言を通じ
て明らかにするとともに、軍事的には受け身の実験であったことを示し、今回の核実験の本当の狙いがどこにあった
のかを改名する。イラン・リビアの中東地域への核兵器開発が波及していくかなどの点について、米国、ロシア、中
国といった周辺大国の思惑をからめて、21世紀のパワーゲームの行方を展望した。
インド洋に突き出た南アジア地域は、日本がその大部分を依存している中東石油の輸送ルートにあたるだけでなく、
隣の大国中国を背後からけん制し得る地政学的位置を占めている
。21世紀のアジア・太平洋地域の戦略バランスを
考えるうえで、絶対に無視できない重要な地域であることに気付いている日本人は、意外に少ない。

攻撃的防御へ転換したパキスタン

宿命的対決関係にあるインドとパキスタンだが、双方の長大な国境線(およそ2000kmにおよぶ)は、①カシミールを抱
えた北部山岳地帯、②パンジャーブ平原をはさんだ中部平原地帯、③98年5月にインドが核実験を行ったタール砂漠
上に引かれた南部砂漠地帯、④最南部のカッチ湿地地帯のほぼ4つの部分からなっている。
このうち、カシミールの峻険な山岳地帯は他の地域とは地理的に隔絶された独立の単位となっており、ここで相手を
打ち負かした軍隊がそのままインド、パキスタンどちらかの首都になだれ込むという展開にならない。最南部の湿地
帯も、深いぬかるみに足を取られるために双方とも大規模作戦を実施するには困難を極める。ということで残るパンジ
ャーブ平原と、タール砂漠をはさんだ乾燥地帯が、インド・パキスタンの雌雄を決する戦略正面となってくる
。インド軍
が侵攻した中部国境地帯のパンジャーブ平原は、見渡すかぎり平坦な地形であるため、敵がひとたび全力で進撃を
始めると後方の砲兵部隊を温存するいとまもなく防御線は突破されてしまう。このときのインド軍はまるで無人の野を
行くがごとく電撃的に進撃してパキスタンの重要都市、ラホールに迫り、パキスタンは敗戦という形で停戦を受け入
れたのだ。

インド陸軍2000構想

インドはパキスタンに対して軍事的に圧倒的優位に立っている。それなのになぜ、パキスタンを直接的脅威とみなして
いるのか。それはインドが圧倒的優位にあるのは軍事力の量の分野であって、兵器の性能などの質の面ではパキス
タンをあなどれない状況にあるためだ。財政的に豊かではないはずのパキスタンがなぜ兵器の質が良いのか。その
理由は米国の支援にある
。79年12月にソ連軍が突如としてアフガニスタンに侵攻した。米ソ冷戦のただ中にあったた
め、米国はこのソ連軍侵攻を「ソ連が暖かいインド洋に進出するための戦略的行動である」と危機感を強め、アフガニ
スタンの東隣にあってソ連なんかを阻止する防御駅を果たす地理的位置にあったパキスタンに膨大な量の高性能兵
器を注ぎ込んでテコ入れをした。こうして貧しい国であるにもかかわらずパキスタン軍は米国製の高性能兵器で武装
することになった。

中国の主張「わが核は米国向け」

98年5月インドは24年ぶりに核実験を行った。パジパイ首相は、インドが核実験に踏み切らざるえなかった理由として
次の3点をあげた。
①インドは公然たる核保有国に国境を接しており、その国は1962年にインドに軍事侵攻した。(中国を指す)
②この国(すなわち中国)とインドの関係はここ10年間、改善が進んでいるが、国境線問題のために不信感が続いて
 いるうえに、わが国のもう一つの隣国(パキスタン)による秘密裏の核兵器開発を物理的に支援したことで、この不
 信感は増幅された。
③インドはこの隣国(パキスタン)との間では過去50年間に3度も侵略をこうむっており、ここ10年間でもパンジャーブと
 カシミールなど数ヶ所でこの隣国に支援されたテロと軍事行動の被害を受けている。

インドが核実験を合理化する理由としてあげている3点のうち、2点までも「中国の核の脅威」に言及しているのだ。
中国はこれまで45回の核実験を行っている。核戦力の中核であるミサイル搭載核兵器として、中国は長射程の大陸
間弾道ミサイル(ICBM)を約30基、中射程のIRBMを約130基、潜水艦から発射する中射程の弾道ミサイルを約24基
保有している。以上のように中国の核ミサイルは、中射程のIRBMが圧倒的な割合を占めていることがわかる。では
中国はこれら核ミサイルをどのような考え方に基づいて配備・運用しているのか、中国の核戦略を検討してみる。中
国の安全保障戦略は「冷戦期」と「ポスト冷戦期」で大きく異なってきている。
①米ソからの核による威嚇を抑止する。②ソ連による核攻撃に対する報復能力を維持する。③大国の威信としての
核兵器を維持する。91年にソ連が崩壊したことで中国にとっての北の脅威は大幅に減少した。この結果、現在では
中国の核ミサイルの多くは米国を指向しているとみられている。以上が中国の核戦略の外観だが、インドは中国の
核ミサイルが中射程ミサイル(すなわちインド全土を射程内にいれることができる)に重点が置かれ続けていることを
挙げ、あくまで「中国の核はインドに向けられている」と主張しているのだ。62年の 中印国境紛争の遠因は、59年3月
に中国のチベット地区で起きた大規模な反中国暴動にある。この暴動は中国軍によって鎮圧されたが、チベット仏教
の指導者でチベット独立運動の中心人物であったダライ・ラマがインドに亡命を図り、中国の激しい抗議にもかかわら
ずインド政府が亡命を受け入れた
。中印国境はネパール、ブータンの二つの小国を左右から挟みこむ形で、東側国境
のアッサム地方と、西側国境のカシミール東部のラダク地域と、二つの部分から成り、その総延長は約4500kmにお
よぶ。チベット地区内の反中国・独立運動は武力でなんとか押さえ込めたものの、ダライ・ラマのインド亡命はこの運
動の長期化を意味し、そこでチベットとインド領内を結ぶ唯一の幹線道路が通るラダク地域の戦略的価値が急上昇し
た。チベット独立運動支援のインド側からの補給ルートとなり得るからだ。キューバにソ連のミサイル基地が建設され
つつあることが発覚して、世界中がキューバ・ミサイル危機に目を奪われている最中の62年10月、中国軍の大部隊
が中印国境の東部地域マクラホン・ライン(インドが長年主張している国境線)を南下、あわせて西部国境ラダク地域
でも武力衝突が発生した
。戦闘は中国の圧倒的勝利のもとに一ヶ月で終わり、インド側損害は戦死1400人、行方不
明1700人、捕虜4000人にのぼった。この戦闘によって中国はラダク地区のうちチベットに通じる幹線道路を含む地域
を占領、その実効支配は今日まで続いている。

インド対パキスタン―核戦略で読む国際関係 (講談社現代新書)
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ヘンリーフォック 戦争とビジネス

1945年8月に第二次世界大戦が終わり、日本軍の香港占領も終わる。沖縄やフィリピンなど、アジア各地の戦地で廃棄された大
砲や装甲車などの大量の軍需品は当時、港湾都市である香港に集まったようだ。香港政庁は当時それを民間に払い下げたのだが
それを官報で目ざとく見つけたのがフォックだった。大量の軍需品を安く買い入れて知人に転売すると約30万円以上の金になった。
それは当時、普通のサラリーマンの年収分に相当するが下ったようだ。だが、それはその後大々的に展開する戦争ビジネスの始ま
りに過ぎなかった。1950年に朝鮮戦争が勃発するのである。国連は中国への輸出を一部禁止する経済制裁を実施。だが英国占領
下にある香港に集められた欧米からの軍需品や物資を中国側に密輸したのがフォックだった。戦時中香港は中国にとって重要な補
給の命綱となった。
60年代には、現在マカオのカジノ王と呼ばれるスタンレー・ホー氏らと組んで、マカオの独占的カジノ経営権取得に成功し、マカオ
娯楽有限公司(STDM)を設立
。カジノ「リスボア」の創業者に名を連ねた。それから2003年に独占的経営権が失効するまで、マカ
オでは実に40年間もSTDMによるカジノ王国が君臨することになる。

ニーナ・ワン(2007年69歳の若さで病死)
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ニーナ・ワンが世界的に知られているのは、アジアで一番の女性富豪だったということである。香港にある如心広場(ニーナタワー)を
はじめ、香港だけで約300件も不動産を保有し、その時価総額は42億米ドルに膨れ上がるといわれる。チャイナケムの本社のロ
ビーに入れば、おさげ髪の大きなキャラクター人形がマリリン・モンローのように舞い上がったスカートをおどけながら押さえた姿
で現われて、始めてきたものならど肝を抜かれるだろう。高齢にそぐわぬおさげ髪とミニスカートの奇抜な格好がトレードマーク
だったニーナが作らせたものである。また「キャンディ・キャンディ」でおなじみの漫画家いがらしゆみこ氏に、自分のキャラクター
漫画を作らせて話題になったこともある。
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李嘉誠は、地元テレビのインタビューでこんなことを話していたことがある。ある日彼が自宅から出て車に乗るために鍵を出そう
とポケットをまさぐっていたところ、2香港ドル(約30円)硬貨がポケットから落ちて道に転がり、暗渠に入り込んでしまった。李嘉誠
をそれを拾いあげようと四苦八苦していたところ、通りがかった自宅の使用人が「旦那様、私が取りましょう」と拾ってくれた。李嘉
誠は彼に100香港ドル紙幣(約1500円)のチップをあげて礼を言った、という話である。李嘉誠は「その話を人にすると結局損をし
たことになったではないかと笑われる」と言いながらも
自分の損得が問題ではないのだ。もしも硬貨を拾わなければ、その2香港ドルは消滅
してしまったことになる。だが100香港ドル紙幣はいつまでも使われ続けるだろう。

市場の独占

米政策研究機関のヘリテージ財団とウォールストリートジャーナル(WSJ)が世界162カ国・地域を対象に毎年発表している世界
経済自由度指数で、2008年香港は14年連続総合世界一
の座をキープした。貿易、ビジネス、投資、財産権保護の4項目の自
由度を指数化したものだが、これによって香港は最も自由な経済を持つ都市として世界的評価を得ている。ところが香港のドメ
スティックな市場を見てみると、この結果とは全く正反対の状況がみられる
。財閥グループによる『カルテル』と言ってもいい部
門が多数存在しているからだ。
IMFは2007年に香港ではスーパーマーケット、港湾、ガソリンスタンド、電力供給部門で財閥系による独占状況が見られると指摘
している。港湾部門を見ると、李嘉誠のハチソンとワーフのモダン・ターミナルズ、新鴻基、新世界などが主要運営業者だ。世界
一高い港湾使用料(THC)は財閥群の重要な資金源で、中小の荷主業者が長年引き下げを要請しているが、THC自体の料金設
定が不透明で公開されず、引き下げは実現していない。電力供給では前述したように李嘉誠の香港電燈(HKE)と中華電力
(CLP)が市場を二分している。またスーパー部門では李嘉誠のパークンショップとジャーディンのウェルカムが市場の70%を握
る。ドラッグストア部門も同様で、ハチソン系のワトソンズとジャーディン系のマニングスが市場を二分している。フランス系小売大
手カルフールも香港市場で展開していたが、2000年に撤退を余儀なくされた。カルフールによると、パークンショップの納入業者
22社から「自分たちの定めたラインより値下げした場合、商品の提供をストップさせる」と圧力をかけられたという。香港市場から
撤退した別の大手小売業者は、李嘉誠グループ系住宅団地やオフィスで商品のデリバリートラック配送を拒否されたと述懐して
いる。これらの訴えにも、消費者委はなんら対応措置を打ち出すことができなかった。なぜか。香港には日本の独占禁止法に
当たる法律が存在しないためである。香港は先進地域では唯一、独占禁止法がない地域である
。2008年現在、独占禁止法に
当たる「公平競争法」の施行準備が進んでいるのは確かだが、これは大企業による独占や買収に条件付でお墨付きを与えると
いった、骨抜きの法律になると懸念されており、守られるべき中小企業の団体がこの法律制定に反対している。つまり、香港は貿
易や投資といった外部と関わる経済では世界一の自由競争社会だが、内部で完結する経済では非常に閉鎖的社会だといえる。

市民が財閥に食い物にされているのに、その市民が財閥を崇拝しているという構図は、全く皮肉で哀れなことだ。ピーター・チャコス

【民の欲と国家】
2009.12.29: 何のために生きるのか?ふと考えるときがある
2009.10.07: 物欲の定義
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.07: 幸福感と欲の関係
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.04.15: 貯蓄率にみる人々の自信度合い
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道
2008.09.24: 俺の欲しいもの
2008.09.23: 被支配階級の特権
2008.07.18: Olympic記念通貨に見る投資可能性

英ケーブル&ワイヤレス・ホンコン・テレコム(C&W・香港テレコム)買収劇

香港対シンガポール

世界最大級の通信事業者、英C&W・香港テレコムは、1990年後半頃から機構再編を迫られていた。独占的に運営していた国際
電話や固定電話などの通信業が自由化されて競争が激化し、大幅な赤字を計上していた。2000年初め、親会社のC&Wはつい
に香港事業を売却する意向を固め大騒ぎになった。C&W・香港テレコム買収に意欲を示す企業として、日本のNTT、ドイツテレコ
ム、米AT&T、シンガポール・テレコムの世界の通信大手4社が浮上した。しかし、その中で 最も現実味のある買収条件を出した
のがシングテルで、「C&W・香港テレコムとシングテルが対等合併する」という提案内容を持っていた。この提案で、香港川経済
界には激震が走った
。香港の通信網をシンガポール企業が掌握することになるからだ。そしてこの時初めてリチャード(李嘉誠の
息子)が動き出す。PCCWも買収に名乗りを上げたのだ。しかし買収には数兆円の巨額資金が必要だ。設立されてまだ間もない
PCCWにそんな現金資産も体力もない。そのためリチャードはPCCWの親会社の株を一部放出したほか、HSBCやBNPパリバな
ど4銀行から約1兆円以上に上るローンをなんとわずか数日で取り付けた。これは香港金融史上最大のシンジケートローン額と
言われる
。しかし、それでもまだ足りない。PCCWはまだ暴落前だった光通信や、NTTにも資金協力を呼びかけた。一方シングテ
ルも粘った。その提案は、C&W・香港テレコムの発行済み株式52%のうち約40%を全て現金で買い取るというものだ。しかもマード
ックのニューズ・コーポレーションをパートナーに共同戦線をはっていた。それに対しPCCWの提案は、現金とPCCW株が半々。
買収資金を多方面からかき集めたとしても、シングテル提案のほうが魅力的だ。しかしこの買収合戦はPCCWが決定的な後ろ盾
を持っていた。中国中央政府である。李嘉誠も中国政府に対し、シンガポールに香港の通信事業を握らせることへの懸念を舞台
裏で伝えていた。何よりもシングテル株は、同国政府系投資会社テマセクが80%保有している。シングテルはシンガポール政府
機関のようなものである。その勝負にリチャードは勝った。

香港マフィアによる誘拐

ウォルター(新鴻基グループ2世3兄弟の長男)は、1997年深水湾の自宅に向かう途中拉致され、約1週間、山中のトンネル近くの
民家に隠し、着ていた衣服を全て奪い、大人が手足を曲げてやっと入れる程度の穴の開いた木箱に押し込め、食事も排泄もその
中でさせたといわれている。この強盗誘拐事件の首謀者は張子強というマフィアの親分だった。張子強はウォルターを人質に新
鴻基一族が住む邸宅に単身で乗り込み、妻のウェンディさんと身代金引渡しで直接交渉した。張子強は当初「20億香港ドル出せ
」と強硬に要求したが、ウェンディさんと2人の弟たちが張子強に対して気丈に対応した。張子強はウェンディさんが支払いを渋った
のを見るや、ウォルターを木箱から出し、めった打ちに殴りつける拷問を与えたという。そうして5日後に身代金6億香港ドルで決着
しウォルターはようやく釈放された。ウォルターは妻と弟たちが執拗に値切ったために、自分の釈放が遅れたとの疑いを強め、そ
れ以来、家族との関係に亀裂が生じた

李嘉誠の長男、ビクター・リーも1996年に張子強に誘拐されていたことが判明した。しかも10億3800万香港ドル(140億円)という巨
額の身代金を奪われていたのだ。張子強は2回の誘拐事件で合わせて16億3800万香港ドルを強奪していた。このうち張子強が
7億3800万香港ドルを受け取り、残りは約10人の手下が分けていた。ビクターを誘拐した理由を「李嘉誠を誘拐しても、長男は親父
ほどの巨額の小切手をきれないからだ」と言ってのけたという。身代金の金額は、長江インフラの証券番号が1038であることをもじ
ったものだった。
大物マフィアの張子強はその後どうなったのか。他の一味が1998年に中国本土で逮捕された直後から海外へ逃亡していたが、そ
の後にバンコクで逮捕され中国に引き渡された。その後仲間30人も逮捕された。張子強が保有していた倉庫の中からは、800キロ
以上の爆薬、200メートル以上の導火線などが発見された。張子強は香港とのボーダーを越えて、広東省で逮捕されたのだが、こ
れには訳がある。というのも、香港で逮捕された場合、死刑にはならないのだ。中国本土での極刑は死刑であるため、李嘉誠や
警察当局は彼をボーダーの向こう側で逮捕するよう画策した
といわれている。張子強の妻や母親は、香港返還前のものも含めて
香港内での事件であり、香港基本法の規定では、中国本土の司法管轄権は香港には及んでいないことから、中国で裁かれるの
は「一国二制度」の原則に抵触すると訴え、これにより中英間の外交問題にまで発展した。だが、中国側で逮捕された張子強は
1998年12月に中国の極刑に則り、処刑された。


【タカリの花道】
2010.03.26: タカリの王道を極めし者
2009.11.19: 「年収は?」聞きにくいことの聞き出し方
2009.10.29: 9651 キャッシュリッチカンパニーのキャッシュフロー計算書
2009.09.28: 財産分与好事例 改善しつつある世論に拍手
2009.09.03: 教育者としての主婦
2009.01.16: 財務諸表と金のありか
2008.05.28: 腐れ社員の告白
2007.12.25: 9955 安いな、出動じゃ

70年代まで香港で君臨していた英国資本のコングロマリットは、ジャーディン・マセソン、ハチソン・ワンポア、スワイヤ、
ウィーロックの4社が主力だった。ホンコンランドを擁するジャーディンは、東インド会社の船医だったウィリアム・ジャーディ
ンとジェームス・マセソンが、アヘン戦争に先立つ1832年に設立した麻薬商社が前身
だった。
ホンコンランドはチムサーチョイ一体の不動産を保有していたワーフや、香港島に独占的に電力供給するホンコン・エレク
トリックなどもかつて保有していた。マンダリングループの中には、エクセルシオールホテルも傘下に収めている。そして
デアリーファームは、数多くの小売チェーンを抱える。
マキシムズ(美心飲食)、セブンイレブン(ジャーディンはホンコンのほかシンガポールや中国華南でも運営権を持つ)、
ウェルカム(香港2大スーパーマーケット)、スターバックス、ピザハット、イケア。もしも香港に住めば、必ずいずれかの店
舗に世話になるだろう。香港の地下鉄にはいずれの駅構内にも恒生銀行の支店があるが、その周辺を見回すとマキシム
のパン屋があり、そしてその隣にセブンイレブンがある。またセブンイレブンやウェルカムには他商品よりも大きなスペース
を割いてデアリーファームの乳製品が売られている。またイケアに付設されている軽食品売り場び生絞りの特製フレッシュ
ジュースは、スターバックスでもウェルカムでも売られているし、スターバックスの瓶詰めコーヒーは、セブンイレブンやウェ
ルカムでも売られる。それらはいずれも親会社がデアリーファームであるからにほかならならい。

ワーフ 1886年設立、ハチソンと並んで九龍一帯の開発権を保有し、70年代後半までコンテナターミナルの集まる葵桶や
チムサーチョイ周辺でホテルや商業オフィス複合ビルを次々に開発して大成功した。しかし、ハーバーシティなどの開発資
金を得るため、多額の社債を発行していた。ワーフの株主は社債保有に走ったために株価が低迷し多くのワーフ株が一般
の小口投資家に流れてしまっていた。李嘉誠がワーフに狙いを定めた理由は、ワーフに圧倒的な大株主が存在しなかった
ということである。ワーフはジャーディン子会社のホンコンランドが最大の株主だった。1978年時点での持ち株比率は十数%
しかなかった。つまり20%を握ればワーフを手中にできるということだ。セントラルやアドミラルティーの駅ビル開発を手がけ
資金が豊富にある李嘉誠が動かないはずがなかった。李嘉誠は株式市場で極秘裏に少しずつワーフ株を買い集めた。と
ころが市場では案の定、誰かがワーフ株を買い集めているのではないかという噂が広まり、ワーフ株は徐々に値上がりし
始めた。ミステリアスなその書いては李嘉誠ではないかとのメディアの憶測も生んだが、李嘉誠は平静を装いながら否定し
当初1株10香港ドルだったワーフ株を30香港ドルに上昇するまで静かに買い続けたという。そして発行株式の2000万株、
約20%の取得に成功した。驚愕したのはジャーディンだった。「買っているのはあの男だ!こっちもすぐに買い増せ!」株価は
膨張のピークに達していた。70年代に海外投資を急拡大していたジャーディンにはそれらを買い増せる潤沢な資金はもは
やない。「頼む、李嘉誠にワーフ株の取得を止めさせてくれないか・・・」ケズウィック会長は、HSBCに支援を求めて泣きつ
いたという。李嘉誠は香港島のマンダリン・オリエンタルホテルに呼ばれた。待っていたのはHSBCの取締役を務めていた
包玉剛(YK・パオ)である。包玉剛といっても日本人にはなじみがないが、当時「東洋のオナシス」と呼ばれた世界の海運王
である。HSBCは英国国籍も得ていた包玉剛を社外取締役に招いていた。HSBCの社外取締役である包玉剛がワーフを
譲り受けるとするとジャーディンも納得するはずだ。もとより長江実業としてもHSBCを敵に回すのは得策ではない。20%の
ワーフ株を包玉剛一族が引き受けることが決定し、李嘉誠の手元には巨額の売却益が転がり込んだ。

環球航運集団(ワールドワイド・シッピング)の包玉剛

環球航運は210隻以上のタンカーを保有した世界一の大海運会社だった。「だった」と過去形にしたのは英資デベロッパ
ーのワーフを買収したことに伴い、主な事業を海運業から不動産業に移す「上陸」を果たしたためである。(ただし、ワール
ドワイドは「バーガソン・ワールドワイド」と社名変更し、現在も存続している。)
好景気に沸いていた日本は国民所得倍増計画の一環として、新規造船業を重点政策として積極的に奨励した。1960年
の1年間に国内あわせて約1300万トンの外航船腹を建設する方針を決めていた。当時日本は外資系海運会社に対し、
日本での造船資金調達で、国内の海運会社よりも遥かに低金利で融資を受けられる優遇条件を与えていた。外資を積極
的に呼び込むための策だった。もしくは国内海運会社の造船ペースでは足りないという判断だったのかもしれない。極めて
皮肉なことに、日本の海運会社にしてみれば、高金利での国内資金調達は嫌気せざるを得ない。そうして船腹調達には
新規造船ではなく、リースを選択する傾向が広まっていた。また当時、日本の海運会社が海外子会社に建造させ、外国籍
の船舶として運行する「仕組み船」が増えたのもおそらくそうした背景があったのだろう。その外資優遇策は包玉剛の船腹
拡大には大いに寄与した。包玉剛の長期契約方針は、造船に融資する銀行側のリスクも低減する効果もあった。いつしか
包玉剛は「東洋のオナシス」と呼ばれるようになった。海運王といえばオナシスの右に出るものはいないと言われていた。
ところが包玉剛のワールドワイドシッピングは1975年までのわずか十数年の間に20万トン級の大型と中小規模合わせ、
200隻以上を保有した。重量ベースでも1350万トンとオナシスを遥かに上回る世界一の規模に達していた。ちなみにこの
頃、ワールドワイドに次ぐ海運会社は、日本の三光汽船で、次いで、デンマークのマースク、日本郵船、オナシス、東方海
外(OOCL)、シーランド の順だった。香港の第25代総督を務めるクロフォード・マレー・マクレホースは、西洋社会に向けて
包玉剛は『東洋のオナシス』ではない。オナシスが『西洋の包玉剛』なのだ」と紹介したという。

1978年、李嘉誠との「秘密折衝」の末、ワーフ株の20%入手に成功した。実はまだその続きがある。包玉剛は直後から市
場のワーフ株を買い集め、保有比率は30%を超えた。目標は49%の達成だった。「香港股史」によると当時の証券規則「収
購・合併守則」では株主の持ち株比率が50%を超えた場合、その株主は対象企業を全面的に買収しなければならないこと
になっていた。包玉剛としてはその全面的買収ライン50%に触れなければいいわけである。ワーフの第二位の株主はジャ
ーディンで、保有比率は十数%だった。ジャーディンのニュービギング会長は包玉剛が30%を超えたと聞くと歯ぎしりして悔し
がった。包玉剛のワールドワイドから、取締役を受け入れざるを得ないからである。この時、ワーフの取締役として送られた
のは、包玉剛の嫁婿、呉光正(ピーター・ウー)である。ワーフの取締役会を牛耳っていたジャーディンは、新たに来た呉正光
が目障りだった。必然的に両者は取締役会内で対立した。それが頂点に達したのは1980年6月20日だった。ジャーディンと
傘下のホンコンランドは、その日の香港の新聞広告にワーフ株の公開買い付け(TOB)の巨大広告を掲載したのである。
「ホンコンランドの新株2株と額面76.6ドルの同社債、合わせて100香港ドル相当をワーフ株1株と交換します。」年初に50香
港ドルだったワーフ株が2倍の100香港ドル相当になるというのだ。包玉剛がカウンターでTOBを仕掛けるしかなかった。ジャ
ーディンより良い条件というと現金で買い取ることだ。しかし、ワーフ株の49%を握るのは15億香港ドルが必要になる。今そん
な現金はない。だがあと1週間以内に15億香港ドルを調達しないとジャーディンが高笑いすることになる。包玉剛はHSBCの
マイケル・サンドバーグ会長と会うために急遽英国に立ち寄り、資金調達を依頼した。サンドバーグは船舶事業に対しては
不信感を持っていたが、不動産業であるワーフを傘下に収めることには賛成だった。それが船舶事業から離れる手助けにな
るとの見方からだったのだろう。包玉剛は香港に戻るや、呉光正らと緊急会議を開き、そして数時間後、緊急記者会見を開き
カウンターTOBを発表した。条件は「ワーフ1株を現金105香港ドルで買い取る」というものだった。
約2年間にわたるこの争奪戦を「包玉剛は惨勝し、ジャーディンは実を取った」と書きたてた。ワーフグループ企業は、「ハーバ
ーシティ(海港城)」、有線テレビの「アイケーブル(有線電視)」、固定電話の「ワーフテレコム(九倉電訊)、スターフェリー、
コンテナターミナル運営の「モダンターミナルズ(現代貸箱)」、「タイムズスクエア(時代広場)」、高級小売店「レーンクロフォード」
アパレルの「ジョイス」、「マルコポーロホテル」、ショッピングモールの「ハリウッドプラザ」。

香港在住諸君にはかなり馴染み深い名前であろう。

ジャーディンのサイモン・ケズウィック会長はさらに1984年の中英共同声明が発表される直前に、「返還後も英国の法体系下で
の経営基盤が必須だ。自由社会での経営こそ、我々株主が求めるものだ」と表明し、法人登記を香港から英領バミューダに移
管してしまった。これは明らかに1997年以降中国に統治されることになる香港に対して忌避を示したものだった。ジャーディンは
英国統治下の香港を代表する英資財閥である。それが香港を離れると受け止められ、ジャーディン株が17%下落したのをはじめ
として香港全体の株式市場が暴落、「ジャーディン・ショック」と呼ばれた。中英交渉で世界が注目している最中にジャーディンが
バミューダに登記を移すと発表したことは、中国政府のメンツを丸つぶしにした
。これは中国の英国に対する交渉態度を強烈に
悪化させたといわれている。ちなみにジャーディンは1994年に、香港登記だけではなく、主要グループ企業の香港上場を廃止し
てロンドン証券取引所に移管。アジアの主要事業であるマンダリン・オリエンタルやデアリーファーム、ホンコンランドの3社は
シンガポールに上場を移管している。

なるほど、Hong Kong Land・・・、変だとは思っていたのだがそういう理由だったのか・・・。

【株にまつわる事件】
2009.11.13: 7736企業乗っ取り 300億円強奪を示す財務諸表
2009.10.15: BNP作為的相場形成の疑義についての見解
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
2008.10.14: 日経225オプションの誤発注
2008.09.25: 世界一のお金持ちの楽しいShopping@GS PPS+Warrant
2008.08.18: 8868 スワップ契約についての考察
2008.03.20: 一族家における投資教育 ~新発CBとIPO
2008.02.02: 信用取引 証券会社の儲けと投資家(顧客)のうまみ
2008.01.28: ソシエテ・ジェネラルの大損




LiKaShing.jpg
「普通の人は、成功する秘訣が書かれている秘伝の書を探し続けて一生を終える。だが成功する人は、自分自身の書
を編集しようとする」 李嘉誠

香港の富豪がリッチであるのはカルテルと独占の産物であり、その結果、香港市民は不必要なほど高い物価と貧困な
サービスを受けている」 ジョー・スタッドウェル

日本では現在に至っても、この李嘉誠という名前はなぜかほとんど知られておらず、知名度が低い人物だ。だが世界か
ら眺めれば、グローバルに展開している経済人なら誰でも知っている存在であるのは確かである。 アジアで最も影響力
のある経済人といわれ、香港だけなら「100ドル使うと5ドルは彼のポケットに入る」と言われている
ほど、その経済的シェ
アは大きい。

李嘉誠に嫌われているメディア ジミー・ライのアップルデイリー

ジミー・ライは、香港を代表するカジュアルブランド「ジョルダーノ」を創立して成功。1990年に大衆誌「壱週刊」1995年に
アップル・デイリーを創刊し、わずか数年でメディア王国を築いた現代の香港ドリームを体現したような人物である。
ライによると、アップル・デイリーなどネクスト・メディア系の新聞や雑誌は胡錦涛国家主席が就任した2003年以来「組織
的な広告ボイコット」が深刻化しつつある、という。広告をボイコットしているのは親中派財閥グループである。中でも李嘉
誠率いる長江実業やハチソン・ワンポア系企業が顕著で、それに新鴻基地産、新世界発展、恒基兆地産などが続く。
大手で広告を出すのは李嘉誠の時なんで、民主派で知られるPCCWくらいだ。ネクスト・メディアのアップル・デイリーと
壱週刊は、中国本土では持込が堅く禁じられている新聞と雑誌で、現在でも、もし税関職員に所持が見つかると即刻没
収されるばかりか、別室で不穏な政治思想を持たないか尋問が始まり、「懺悔文」を書かないと釈放されない
という、中
国ではやっかいな発行物なのである。当然、ジミー・ライー会長は中国政府から、中国と香港の安定を脅かす危険人物
とみなされている。

香港在住諸君、俺は一度読んでみたいぞ・・・中国発禁本指定のこの雑誌・・・。


長江実業の始動

長実を名実共にスターダムにのし上げたのは、既に米ニューヨークのウォールストリート、ロンドンのシティそして東京に
並ぶ大金融センターとなっていた香港島セントラルを舞台にした1977年の政府のある巨大プロジェクトである。香港政庁
は60年代から香港で初めての地下鉄を建設するプロジェクトの調査を進めていた。政庁100%保有の地下鉄路公司(MTR
C)が設立され、地下鉄工事は数段階に分けて実施されることになった。デベロッパー各社の間で熱い眼差しが注がれた
のは、セントラルとアドミラルティー両駅上部の駅ビル開発プロジェクトだった。領地は、香港で最も繁栄が期待されたゴー
ルデン・ビジネスエリアで、この地区が将来アジアの大ビジネス地区となるのは、誰の目にも疑いようが無かった。MTRC
は政庁から駅ビル用地取得費として、当時6億香港ドル(90億円)という巨額で買い付けていたが、政庁はMTRCにその
6億香港ドルを現金で政庁に納入するように義務付けていた
。実はその情報を李嘉誠はどこからか入手していた。

応札企業にはそうそうたる面々が集まっていた、英資財閥、スワイヤやギャモン、ウィーロック、地場系からは恒隆地産、
ヘンリー・フォック、嘉年集団、輝百美集団、新鴻基地産、新世界発展など、長実を除けば海外での多大な建築実績を
誇る国際企業ばかりだった。だがその中でも異彩を放っていたのは、英資財閥ジャーディン・マセソンの旗艦企業、ホン
コンランド(置地公司)である。ホンコンランドはセントラルの大地主で、香港の5大デベロッパーが束になってもかなわない
と恐れられた最大最強の企業だった。
地下鉄の建設費自体が膨大になるのに、6億香港ドルの用地取得費を政府に納めなければならないということは必ず
MTRCのキャッシュフローに問題が出ていることを意味する。とするとMTRCは入札審査に際し、技術資格審査さえ通過
すれば、札入れ価格以上に、できるだけすぐに資金を回収できる条件を持つ企業を選ぶのではないか-。
李嘉誠はそこで斬新な条件を考えた。大半のデベロッパーは通常、建てた商業ビルをテナントして貸し出してきた。だが
それでは資金を直ちに回収できずMTRCの需要にこたえることができないのは明らかだ。地下鉄開通と同じ日に両駅の
商業・オフィス複合ビルを完成させ、各フロア・オフィスごと直ちに分譲販売してしまい、売却益の51%をMTRCに提供
し、
長実は49%を取る-という案だった。李嘉誠の戦略勝ちだった。


「思えば息子たちとアイスクリームを頬張りながら散歩した時が、最も幸せだった」 李嘉誠

なぜか泣けるのは俺だけか?


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ロッキード、角栄系の本何冊読んだかなぁ? 
学歴信奉者に出会うと思わず言っちゃうねぇ、「角栄は中卒」。角栄はキレる男だと思うわぁ、マジで。
個人的にロッキードの株主ということもあって自然と関心が高まる。

朝日新聞二面の総合欄に、読売には無かった奇妙な記事が載っていた。
ロッキード社 丸紅・児玉氏へ資金」という見出しの、ほんの25行程度のベタ記事である。

米上院の多国籍企業小委員会(チャーチ委員長、民主党)は4日の公聴会で米ロッキード航空会社が多額の違法な
政治献金を日本、イタリア、トルコ、フランスなどに行っていたことを公表した。総額は1970年から75年の間に2億ドル
にのぼると見られる。同小委員会で明らかにされたリストによると、数年前から1975年末までに7,085,000ドル(約21
億円)が日本の右翼政治家、児玉誉士夫氏に
贈られている。同委員会では、この金がどのように使われたのかにつ
いては明らかにしていない。また、同リストによると3,223,000ドル(約10億円)がロッキードの日本エージェントとして
丸紅に支払われている
。また、さらに日本の広報関係のI-D会社に2,150,000ドルが支払われており、同委では
「これは日本の報道関係者へ都合の良い記事を流すために使われたのではないか」と推定されている。

国会証人喚問されたのは、児玉誉士夫、小佐野賢治、檜山広(丸紅会長)、松尾泰一郎(丸紅社長)、伊藤宏(丸紅専
務)、大久保利春(丸紅専務)、若狭得治(全日空社長)、渡辺尚次(全日空副社長)ら8人
である。小佐野賢治、いうまで
もなく、田中角栄とは刎頚の友と呼ぶほどの関係にあった。アメリカ時間2月6日のチャーチ委員会で、ロッキード社が
小佐野賢治にも金を渡していたことが明らかになった。その小佐野から田中角栄へと金が渡り、ロッキード社のトライ
スター導入に田中角栄が利益教唆をしたかどうか
がポイントだった。実際、昭和47年(1972年)1月、角栄が通産大臣
時代、日米貿易格差の是正に、アメリカ製品の輸入拡大をアメリカに約束した。そして同年7月、田中政権樹立後、
閣議決定でアメリカからの大型民間航空機の輸入が決まり、さらにハワイでの日米首脳会議で、田中首相はニクソン
大統領に対し、日本に輸入する航空機の数量が決まったと告げた経緯があった。これを受けて、その年の10月、全日
空はロッキード社のトライスターの導入を正式に決定する。こうしたアメリカ政府の要望の過程で、田中角栄が賄賂を
もらってロッキード社に便宜を図ったのではないか、と疑われているのである。しかし、さすがに一国の首相が外国資
本から直接、金を受け取るわけにはいかない。そこでロッキード社は、丸紅と小佐野賢治を迂回して田中角栄に金を
渡したのではないかという構図が浮かぶ。

議院証言法(議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律)にもとづく証人喚問制度は人権保護が不十分で、法
的な不備が多かった。たとえば、正当な理由なしに宣誓を拒否するだけで罪に問われたり、いったん喚問に応じると一
切の偽証が罪となる。弁護士も同席させない。また、黙秘が許されないため、政治的にも利用されやすかった。実際、
昭和40年(1965年)の電源開発問題で自殺者が出たこともあり、この11年間、証人喚問は行われていなかった。

国会から派遣された医師団によって、児玉誉士夫は喚問はできないと診断された。児玉が喚問できない時点で、ロッ
キード事件の大半の資料は無駄なものとなった
。野党は「材料不足」とマスコミから叩かれ、自民党は「こんないい加
減な喚問で幕を引くのか」と世論に責められた。そんな茶番劇をみて、一人ほくそ笑えんでいたのが三木武夫だった。
この証人喚問の失敗で唯一、ダメージを受けていなかった人物である。もともと党内基盤が脆弱並木は、自民党主流
派が世論から攻撃を受けることで、精勤を維持していた。また「児玉ルート」が頓挫したのも三木首相にとって悪い話で
はなかった。児玉誉士夫は、三木政権の要である中曽根幹事長とは深い仲にあった。もし児玉が喚問されて中曽根が
傷つき辞任となれば、次期幹事長の座を巡って、一気に政権打倒の動きが加速する。その危険を理解していながら三
木が児玉の喚問を認めたのは小佐野賢治をひっぱりだす口実にするためであった。実際、児玉喚問をセットにしたとた
ん、田中派はさほど反対もせずに小佐野の喚問を了承している。ところが児玉誉士夫は実に都合よく「病気」となり、小
佐野賢治だけが引っ張り出されることになった。あの時点で小佐野賢治を喚問したところで、何らかの疑惑が明らかに
なったり、あるいは田中角栄との関係を証言するとは思っていなかったはずだ。三木の狙いは、国民の不満を高める、
その一点にあった

日米司法取り決めの調印、わかりやすく説明すれば、アメリカ側の証人が日本側の要請で証言する場合、どんな犯罪
行為を喋っても、日本国側は絶対に刑事訴追はしませんので好きに喋ってくださいというものである。当然、狙いはロッ
キード副会長だったコーチャンである。誰に賄賂を渡したのか刑事面積を条件に証言させる道を開こうとしているのだ。
これは完全な「司法取引」であり、日本の刑法には定められていない。刑法に無いことをしてでも田中角栄を逮捕しよう
とする検察と三木首相の思惑が透けて見えるだろう。社会党の成田知己委員長はすぐにこの点を指摘し、
「いくら『手続』といってもこの『取決』は、日米間の国家機関を通じて決まったものだ。いわば行政機関による条約であ
る。にもかかわらず関連資料の提供を捜査機関のみに限定するのは、三権分立を定める憲法の許容を超えている」と
指摘し、「憲法違反を犯した三木内閣は総辞職しろ」と迫った。

児玉誉士夫の証人喚問、直前に脳梗塞の発作によって証人喚問を免れた。もし、児玉誉士夫の証人喚問が実現して
いれば、ロッキード事件はまったく違う展開を見せていたはずで、田中角栄の逮捕もなかったかもしれない。その謎の
一端を知ったのは、2001年の『新潮45』4月号に掲載された元東京女子医大脳神経外科助教授の天野恵一氏の手記
であった。天野助教授と児玉誉士夫の主治医・喜多村孝一教授の間にはいろいろな問題があり、手記の信憑性につい
ても議論があろう。喜多村教授が強力な睡眠作用のある注射をした事実についてはどうか。これについても国会から派
遣された医師団が診察で見抜けなかったとはいえ、彼らが重度の意識障害でもあると判断したことで、その蓋然性が
証明されたといえる。
「これから児玉様のお宅へ行ってくる」 喜多村は、児玉を必ず「児玉様」と呼んだ。その発言の真意を計りかねた私が
訝りつつ、「これから国会医師団が調査に行くというのに、先生はなんのために直接児玉邸に行くのですか」と問うと、
喜多村は、「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ち
に行く」
「何を注射するのですか」
「フェノバールとセルシンだ」
いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用がある

「先生、そんなことしたら、医師団が来ても患者は完全に眠り込んだ状態になっていて診察できないじゃないですか。
そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」そう聞いて、とたんに激怒した喜多村は
「児玉様は、僕の患者だ、口を出すな」と大声で怒鳴りつけ、看護婦に持ってこさせたフェノバールとセルシンのアンプル
注射器、消毒用のアルコール綿を私の見ている前で黒い往診鞄に詰め、病院を出ていった。数時間後、国会医師団が
児玉邸に行き、児玉を診察した。結果が新聞報道されたが、児玉は喜多村診断書の通りで重症の意識障害下にあり、
口も利けないので、国会での証人喚問は無理ということになった。ここにひとつの疑問が沸く。喜多村の後から到着した
国会医師団は、喜多村の行った違法駐車を見抜けなかったのかということだ。まさか主治医がそんなことまでするとは
誰も疑わない。そして疑わない限り、見抜くことは無理である。セルシン・フェノバール注射で発生する意識障害・昏睡
状態と重症脳梗塞による意識障害は酷似している。狸寝入りとは訳が違う。血液・尿を採取し、これらの薬物の血液中
・尿中の存在を証明すれば意識障害は薬物性であることを証明できる。だが、医師団の目的は児玉の診察であり、薬
物性の意識障害を証明することではなかった。注射が誰の意向だったか不明である。児玉自身の可能性もあるが、喜
多村が自己のニセ診断書がバレるのを防ぐために自分の意向で行った可能性もある。

昭和56年(1981年)、東京地裁のロッキード裁判中、「田中無罪」の見方が強くなったことがある。田中弁護団は、検察
が主張する一億円を受領した日時(昭和48年8月9日午後1時から1時20分)に、榎本首相秘書官にアリバイがあると主
張したのだ。その日時には、会期延長の強行採決を正常化させるため、前尾議長が与野党国対委員長会談を主催し
ていた。そしてこの時間帯が検察の主張する時間と一致していたのだ。そしてこの年の10月28日、東京地裁で榎本三
重子が重大な証言をする。「ハチは一刺しして死ぬ」とその覚悟を語り、「ロッキード事件発覚直後、田中邸からの車の
中で夫の榎本が金銭の受領を認める発言をした」「その後、日程などの証拠書類を自宅で焼却した」などと証言したの
である。世間では「ハチの一刺し」という言葉が流行り、この証言で田中無罪の流れは一処に消えた。

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