タグ「ドイツ欧州」の一覧

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自分で自分を守ろうとしない者を誰が助ける気になるか。 -ニコロ・マキアヴェッリ
亡国の悲劇とは、人材が欠乏するから起るのではなく、人材はいてもそれを使いこなすメカニズムが機能しなくなるから起るのだ。 「『ローマ人の物語』を書き終えて」より

> いきなり、重いなぁ。七生先生。だが、確かに重要だ。そして何十年も外住みしているので、やはり外から日本を見ている私と驚くほど一致する意見が多い

歴史上、最高の後継人事と私が思っているのが2つある。第1は、イエス・キリストからキリスト教会の初代教皇となるペテロへのバトンタッチ。第2は、歴史上の順序は逆だが、ユリウス・カエサルから、ローマ帝国の初代皇帝になるアウグストゥスへのバトンタッチ。

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喜劇 マンドラーゴラ

フランスにカリーマコという名の男が住んでいた。相当な年齢の金持ニチアの若い妻、ルクレツィアの美しさと身持ちの良さを耳にして、まだ見ぬこの女に恋してしまう。しかもどうしてもモノにしたいと思うようになる。それでまず、男が女に容易に近づける場所である温泉に、この夫婦を連れ出そうとするが、これは失敗する。作戦変更を迫られたリグーリオは、今度は別の手を考えつく。外国在住の長いかリーマコがフィレンツェでは顔を知られていないのを良いことに、彼をフランスでは有名な医者に仕立てあげようと考えたのだ。石女に妊娠させることのできるエキスパート、という振れこみである。まず夫の説得から始まる。「マンドラーゴラ」というこの薬を飲んだ後で妻と床をともにすると妻は必ず妊娠する、と言ってだ。ただこの媚薬は、飲んだ者をまもなく殺すとも言う。そこでリグーリオは、心配することはないと言う。どこかの馬の骨を連れてきて、ただしこの父親になるのだから身体だけは健全無欠な若者を連れてきて、それに代行させれば問題は無い、と言う。しかし問題は身持ちの堅いことでも知られるルクレツィアをどうやってこの作戦に参加させるか、ということである。これまたリグーリオの発案でルクレツィアの告解僧であるティモテオに、説得してもらうことになった。僧ティモテオは、夫のためにやるのだから罪ではない、と言って説得する。天国の席も心配ないと僧侶まで言うのだから、ルクレツィアは安心する。いや、ルクレツィアには他の男と床をともにする大義名分が与えられたわけだ。カリーマコはそれまでの医者の扮装を捨て、どこかの馬の骨に一変する。そして、無事、お床入りを完了する。ところがこの後が愉快なのである。何も知らないとみなが思っていたルクレツィアが何もかも感づいていたのだ。愛し合った後でいまだ夢うつつのカリーマコ扮する馬の骨に向って、彼女もうっとりと接吻しながら言う。


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ソデリーニの追放、新大統領ジャンバティスタ・リドルフィである。リドルフィは、反メディチではなかったがメディチ派でもない。ソデリーニ政権下で要職についていた人々で、解任されたものが1人もいないという事実である。クーデター当時、ソデリーニが後を託したほどの、ということはソデリーニの信認も扱ったという証拠だが、そのフランチェスコ・ヴェットーリもローマ駐在大使に任命されている。それなのになぜ自分だけが、とマキアヴェッリは免職という処分が信じられなかったのではないだろうか。しかし、これが枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチの深謀遠慮であったのだ。

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当時の戦争ときたら、天候の都合で春から秋にかけて行われるのが普通なのだが、そのような仕事に絶好な季節に、「市民」たちを戦場に駆り出すわけには行かない。ならば戦争などしなければよいとなるが、20世紀の今日に至るまで、非合理的だからという理由で戦争回避に成功したためしは無い。それで仕事に絶好な季節に、仕事に絶好な年頃の男達を戦争に借り出して経済の疲弊をまねくより、彼らには仕事に専念してもらって、その仕事からあがる利益の一部を徴収し、それでもって傭った戦争専門屋に、そちらのほうは任せるということにしたのだった。この制度の普及のおかげで、イタリアの戦争と言えば、傭兵同士が戦うものになったのである。海軍は自国の人間で固めたヴェネツィア共和国でさえも、陸軍は、イタリアでは支配的だったこの制度を受け入れている。

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マキアヴェッリが、いかに若輩当時とはいえ、女を交渉相手にもったという一事は、マキアヴェッリの研究家でさえ、いたく刺激する出来事のようである。15年の官僚生活中に彼が書いた報告書にすべてには目を通さない学者も、この際の報告書は目を皿のようにして読むらしく、やっぱりヤラレタ、いや、それほどはヤラレテイナイなどと論じた研究論文を読むたびに、女である私はおかしくてたまらない

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だが、これも、しわくちゃのネーさん相手であったらこうも議論に熱が入らないであろうと思い、女は女でも、カテリーナ・スフォルツァであったからだと納得することにしている。マキアヴェッリの会った当時は36歳になっていたが、まさに満開の花の美しさに輝いていた。顔が美人であるだけでなく、姿かたちもしなやかで崩れない。10人以上の子を生んだにしては驚くばかりの魅力の持ち主だ。


> 塩野先生も、グローバルに展開される男の「あの女とやった?やってない?」議論を嘲笑しておられるw

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1479年の12月も末ちかくなって、ロレンツォを乗せたガレー船はナポリに入港した。船を待ち構えていたのは、厳しい顔付の武装兵や役人の一団ではなかった。顔いっぱいに笑みをたたえたナポリ王フェランツォの次男フェデリーコだったのである。若年の王子はロレンツォとは旧知の中で、憧れに似た尊敬の念さえ抱いていた。学問や芸術に関心が深く、洗練された趣味の持ち主だった。ナポリ王フェランテは、この王子にナポリ滞在中のロレンツォの接待を命じたのである。だが、老獪なフェランテは簡単にはロレンツォに満足を与えなかった。ロレンツォも、ナポリ滞在の3ヶ月が過ぎようとする頃になると、人々の前では悠然と振舞っていても、1人になると沈んだ顔つきを隠せなかったようである。ロレンツォはもはや待ちきれないと公言して、ナポリ港を発つ。ロレンツォがリヴォオルノの港に下船した頃を見計らって彼に追いつき、ナポリ軍、対フィレンツェの戦線より離脱、という王の決心を伝える。フィレンツェの市民はロレンツォをまるで凱旋将軍のように迎えた。

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本書は、君主論ではなく、マキアヴェッリそのものの人生を追っている。塩野七生氏によるイタリア・フィレンツェの表現がオタクっぽくて面白い

当時は、国家が都市を作るのではなく、都市が国家をつくる時代であった。都市国家とは、フィジカルな現象を表現するだけの、名称ではない。イタリアがルネサンス運動の発祥の地になりえたのは、国家が都市を作るのではなく、都市が国家を作るというこのことに、古代以来、はじめて目覚めたからである。そして、フィレンツェ人はヴェネツィア人と並んで、この意味での都市を作り出した民族なのであった。海の都といわれたヴェネツィアも、花の都とたたえられたフィレンツェも、いずれも、「はじめに都市ありき」で共通している。都市が先に生まれ、国家はその都市の持つ性格の延長線上に、自然な勢いのままにつくられたのである。マキアヴェッリはこの「都市」で、生まれ育ち死ぬ。生粋の都会人として生をうけ、生をまっとうする。

マキアヴェッリの山荘への道から、アッピア街道、レスピーギ「ローマの松」の傘松、キャンティ・クラシコ(ワイン)、サンタ・マリア・デル・フィオーレ。七生ちゃん、語る語るw 一緒にイタリアを歩いて、彼女より楽しい日本人は居ないだろうね。オタクって男が多いけど、女でもいるという証拠だな。

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7.モーツァルト変死事件

あまりにも名高い「レクイエム伝説」は、ある日灰色の服を着た男が彼を訪ねてきて、名前も告げずに「レクイエム」の作曲を依頼し、5ドゥカーテンの予約金を置いて帰ったことから始まる。そしてモーツァルトの人生はこの時から一変してしまう。それまで宮廷音楽家として活躍していたモーツァルトがまるでとりつかれたように、昼も夜もこの「レクイエム」の作曲に没頭するようになってしまったのだ。音楽的にも「レクイエム」は、彼の有数の傑作であるだけでなく、一種独特な存在である。それまで天使のような軽やかな魅力をたたえていたモーツァルトの音楽が、ここではまるで人が変わったようにゾッとするような凄みのある美を描き出しているのだ。そしてその7年、"灰色の服の男"が姿を現してから、モーツァルトの健康状態は悪化する一方だった。手足は異常にむくみ、原因不明の嘔吐に苦しめられ、死の直前の11月下旬にはもう、ベッドから起き上がることもできなくなった。それでもモーツァルトは何かにとりつかれたように、ひたすら「レクイエム」の完成を急いでいた。

シェーンブルン宮の「鏡の間」で、神童と呼ばれた幼いモーツァルトが、マリア・テレジア女帝の前でピアノを演奏したことはあまりにも有名である。1762年、6歳になったモーツァルトは、家族と共にウィーンに赴き、その楽才を認められて、ついにシェーンブルン宮に伺候することを許される。そのとき少年は、なんとマリア・テレジア女帝の膝の上に飛び乗り、首に抱きついてなれなれしくキスをしたというのだ。信じられないような話だが、作り話ではない。父親のレオポルトも手紙の中で、「とても信じてもらえないだろうが、」とことわって、わざわざこの出来事を書いている。まさに無邪気で恐れを知らぬモーツァルトそのものではないか。


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6.サラエボ事件

1914年6月28日、ところは"ヨーロッパの火薬庫"といわれたバルカン半島ボスニアの首都サラエボ。オーストリア=ハンガリー帝国皇帝の甥、フランツ・フェルディナント皇太子とその妃ゾフィーがセルビアの一青年の手で殺されたのである。当然ながらオーストリア政府はセルビア政府に対して強い態度をとった。7月22日の最後通牒は反オーストリア宣伝の禁止声明、反ハプスブルク的新聞の発禁、「民族防衛」の解散、事件関与の疑いのある教師・将校・官吏の解職・解任・逮捕などを要求し、25日までに回答するように迫った。結局オーストリア政府はセルビア側の回答を不満として7月28日にセルビアに宣戦布告することになる。このサラエボ事件によって三国協商(英・仏・露)と三国同盟(独・伊・墺)の対立に火がついた。各国は次々に総動員令を発令し、8月1日のドイツの対ロシア宣戦布告でついに第1次世界大戦が開始することになる。


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4.ヨハン大公失踪事件

ヨハン・サルバドール大公は、従兄弟のオーストリア皇太子ルドルフと手を結び、フランツ・ヨーゼフ1世を退位させるクーデターを計画した。が、ルドルフが心中死を遂げたことで計画が頓挫するときっぱり大公の地位を捨てて、あてもない航海に飛び出してしまったのである。いかに権威あるロイズ保険が彼の死を確認したといっても、大公自身の遺体が発見されない限り、世間はそう簡単に大公の死を認めようとしなかった。かくてヨハン大公を惜しむ人々の間で無数の生存伝説が生まれた。世界のあちこちにヨハン・オルトが現れる。そして伝説によれば、日露戦争前夜に我が日本にも出没しているというのだ。トスカナ公でありオーストリア大公であるヨハン・サルバドールは、1852年、シチリア公国のマルグリット公女とレオポルト2世の息子として生まれた。父がトスカナ王位を退位した後、オーストリアの宮廷で育てられた彼は、知的で才能豊かな青年に成長していった。


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マイヤリンク事件はたちまち、世界中の注目を集める大スキャンダルとなった。自殺説も千差万別で、前途に希望を失った二人が自殺で禁じられた恋の清算を図ったのだというものから、マリーの妊娠を知ったルドルフが別れ話を持ち出したが、それがこじれてやむなく無理心中を選んだというものや、モルヒネを常用していた皇太子が幻覚症状に襲われ、つい拳銃の引き金を引いてしまったとする事故説まである。情死説を採用する中で最も有名な著書はクロード・アネの「うたかたの恋」だが、史実と異なる点も多く、著しくロマンチックな脚色がほどこされている。

ルドルフは当時の最強国であるドイツと宰相ビスマルクに根強い不信を抱いていた。オーストリア=ハンガリー帝国はドイツと同盟を結んでいたが、それはあくまで政治的な必要に迫られていたからである。しかし、父皇帝と違ってルドルフは、いずれはドイツから離れて、フランスやロシアとの同盟に切り換えたいという考えを持っていた。彼はビスマルクがいずれはオーストリアを併合しようとたくらんでいることを見抜いていたのだ。1878年、ルドルフがベルリンを訪れた時、ビスマルクは彼に、万一オーストリアがロシアと戦った場合、必ずドイツはオーストリアに味方するだろうと言明した。そして翌年、ドイツとオーストリアの間に秘密同盟条約が交わされた。だが1887年、ロシアがフランスに近づくのを恐れたビスマルクは、ロシアと二重保障条約を結んだ。締結当事者が他の国と戦いになったとき、もう一方の国は中立を守ることを約束するものだったが実はその他に秘密条項があった。それはロシアがトルコの属国であるブルガリアに進出したり、トルコの領海であるポスホラス海峡やダーダヌルス海峡に進出する政策にドイツが支援を与えるというもの、そしてオーストリアがロシアを攻撃した場合、ドイツは中立を守るという条項だった。これは明らかにオーストリアに対する裏切りである。

自殺説の一つとして、ルドルフが当時、遺伝と育った環境から来る、重い躁鬱病とモルヒネ中毒にかかっていたとする説がある。遺伝説としては、ルドルフがハプスブルク家とヴィテルスバッハ家の従兄妹同士の近親結婚から生まれていることである。ハプスブルク家とヴィテルスバッハ家の間は、何世紀にもわたって近親結婚が行われ、ルドルフの両親の結婚は両家間の22回目の結婚だった。さらにヴィテルスバッハ家は代々、その家系から変人や狂人が何人も生まれているのである。環境説としては、ルドルフの両親の夫婦関係が円満でなかったことである。ルドルフの母エリザベート皇后は姑であるゾフィー大公妃との嫁姑争いに疲れて家庭をかえりみず、生活の大半を国から国への長期旅行に費やしていた。父皇帝はそんな母の欠如を補うどころか、政務に忙殺され息子と共に過ごす時間はなかった。父とは公的行事やパレードや狩猟の時に会うだけだった。狩猟の結果が報告された時だけ、皇帝はルドルフに関心を示した。まだ9歳足らずのとき、ルドルフが初めて鹿を射止めると皇帝からイシュルに電報が送られてきた。「シュク!シュリョウ。シカヲイトメテオメデトウ。タイヘンウレシイ。」 狩猟で何を射止めたかが、これ以来父子の主な話題となった。


父としての愛を感じるけどな・・・この電報。それでも家庭不和と言われちゃうんですね。ハープスブルク家の長として、ヨーロッパ一国一妻構想(ECAW?イーカウと発音するのか?)に翻弄していた皇帝フランツ・ヨーゼフが、皇太子である愛する我が息子に限られた時間の中で送った、短いが父の愛にあふれた電報に思えてならない。

さて人間インブリード、ハプスブルグ家とヴィテルスバッハ家の交配を血統表にしてみました

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おぅ!なんと父系表示で表現するならば、マクシミリアン1世の3×3とカール・ルートヴィヒ・フォン・バーデンの4×4のクロスです。さらに言うなら母母母母のアマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの父である 母母母母父 ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)の5×5も入ってます。しかし、こんなまどろこしい書き方をしなくても、父母両系表示なら、3×3が2本も入っている12.5%同一血量×2本なので、25%がクロスしているので、うーむ・・・ちょっとこれは危険な配合ですね・・・。5代目まで調べたので、これ以外には、4×4以上に濃いインブリードは入ってなさそうですが、それ未満のインブリードももっと調べれば入っていることでしょう。

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3.マイヤリンク事件

フランツ・ヨーゼフとエリザベートとの間に1858年8月21日のルドルフ皇太子の誕生はオーストリアじゅうから盛大な歓迎を受けた。ルドルフは、教師が自分につける点数に一喜一憂したが、年に似合わぬ早熟な少年であった。ある日養育係のラトゥール伯爵が、成績が悪かった罰に狩りに行くのを禁じるとルドルフは言った。「褒美が欲しいから一生懸命勉強しているのではない。私の義務だからやっているのだ。」 これが9歳の子供の答えである。虚弱な体質ではあったが、ルドルフはぎっしり詰まった時間割を懸命にこなした。古文書学者ギンドレー、歴史家キリエク、地理学者グルーエン、美術の専門家アムブロス博士らはみな、彼の記憶力のよさとと学習意欲に驚いた。教師に対して、「何もかも教えてください。全部知りたいのです。」というのがルドルフの口癖だった。


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2.ルートヴィヒ2世変死事件

いまやドイツの観光ルートの定番になってしまった感のある、南バイエルン地方のノイシュバンシュタイン城。森の中の白亜の美しい城は楽聖ワーグナーを愛したバイエルン王、ルートヴィヒ2世の名と固く結びついている。ここを訪れる観光客は年間200万人を越えるといわれるが、そのなかでも日本人がダントツに多いことは言うまでもない。このルートヴィヒ2世が城の建築に夢中になったために、国庫の赤字を招き、あげくは退位にまで追い込まれ、スタルンベルク湖で悲劇的な死を遂げたことはあまりにも有名である。
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無数の王侯たちがひしめく19世紀ヨーロッパで、特にきわだった美貌で知られていたのはなんといってもこのルートヴィヒ2世だろう。彼が19歳でバイエルン王に即位した時、その輝くような美貌はまさに地上に降り立った神のように讃えられた。すんだ瞳は哀しいまでに青く、目鼻立ちは女のように整っていて、彼の乗った馬車が通ると女たちはおもわずうっとりと見とれたという。"童貞王"と呼ばれたルートヴィヒ2世はあだ名の通り、40年余りの生涯を独り身で通した。その間、俳優、貴族、馬丁などの若く美しい同性たちが、もっぱら彼の禁じられた恋の対象となったのである。

> 女性読者、なんだ・・・いくら美男と言えどもホモか!と怒らないように。

奔放な恋愛生活とは別に、ルートヴィヒ2世には生涯忘れることができない崇高なプラトニック・ラブの対象があった。その一人が従姉のオーストリア皇后エリザベート、そしてもう一人がかの天才オペラ作曲家、リヒャルト・ワーグナーである。若くして王につくやいなや、秘書官に八方手を尽くしてワーグナーの行方を捜させた。ワーグナーは当時、51歳。30代でザクセン王室の宮廷指揮者に任ぜられ、自作「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」上演も成功したが、1849年にドレスデンの5月革命蜂起に関与し、追われる身となって国外に逃亡した。その後はザクセン官憲の逮捕状と借金取りに追われ、ヨーロッパ各地を転々とした挙句、当地の安宿にひっそりと身を隠していたワーグナーにとって、ルートヴィヒ2世の申し出はまさに奇跡の訪れであった。ルートヴィヒ2世はワーグナーに居城近くの邸を与え、それまでの借金を完済させると共に多額の年金を支給した。かくて君主と楽聖の、奇妙な友情が始まったのである。ルートヴィヒが「わが師、わが友、わが光」と呼べば、ワーグナーも「あまりに美しくて、夢のように消えてしまわぬかと心配だ。彼こそ私の幸運の全て。彼がもし死ねば、私も次の瞬間に死ぬ」と書き記している。

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贅沢よのぅ。ルートヴィヒに召還されたのが1864年、62年からとりかかっていたマイスタージンガーの完成が1867年、初演が1868年。ワーグナーの最高傑作とも言えよう、名曲マイスタージンガーが、ルートヴィヒの目の前で作曲されていたとは! 民の下賎な無駄遣いとは異なる高貴なる贅沢。ルートヴィヒが、オーケストラとスコアとワーグナーを目の前に、「そこの演奏・・・、もう少し速度を落としたらどうなるかね?」 などと注文をつけていたに違いない。インターネット時代にクリック一つで安易な音楽鑑賞に浸っている下賎の民である私は、「ルートヴィヒとワーグナーは本当にプラトニックな関係なのだろうか? ワーグナーあの顔でまさか?」などと卑猥な勘ぐりをしてしまうのであった・・・。

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1.エリザベート暗殺事件

1848年の3月革命で義兄である前皇帝フェルディナント1世が、子の無いまま退位を迫られた後、王位を継いだのはゾフィーの頼りない夫フランツ・カールではなく、理知と生気にあふれた18歳になるゾフィーの長男、フランツ・ヨーゼフだった。我が子の即位と共に、ゾフィーは皇帝の母后として宮廷の絶対権力者にのし上がった。実家のヴィテルスバッハ家の姪ヘレーネを妃に迎えるつもりでヘレーネの母である実妹ルドヴィカと話をつけていたのである。ところが当日になってフランツが当のヘレーネではなくて、彼女と一緒に来ていた16歳の妹、エリザベートのほうに引きつられていることに気付いた。二人ともそろって美人だが、その個性は正反対なまでに違っていた。しとやかでお行儀の良いヘレーネに比べて、お転婆で自由奔放でいつもいたずらっぽく笑いさざめいているエリザベート・・・。

そもそもヴィテルスバッハ家には変人が多かった。エリザベートの兄ルートヴィヒ(ルートヴィヒ2世とは別人)は、王家の一員としての権利を放棄して身分違いの恋に走った。次兄カール・テオドーアは兄の代わりに王位を継いだが、政治には関与せず、医学に専念して眼科医になった。エリザベート自身もそうした自由奔放な家風を受けついでいた。常識化のゾフィーには、それが理解できなかったのだろう。意外な成り行きにゾフィーは驚き、姪でありながらエリザベートに対して激しい憎悪を抱いた。すでに50歳に手が届こうとしていた彼女は、とっくに失った若さと美貌ではとてもかなわない姪に、年甲斐も無く嫉妬すら感じたのかも知れない。お転婆なエリザベートが、厳格なハプスブルク家の家風に合うはずは無いとゾフィーは反対したが、あくまで母に逆らって頑張り続ける息子に、とうとう根負けしてしまったのである。

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世界中に、時代超えて存在する、嫁姑問題フラグが立ちましたよ・・・

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オーストリアの観光名所と言えば、ハプスブルク家の記念碑とも呼ばれるシェーンブルン宮殿であろう。ウィーンの森のはずれにある緑豊かな広人とした敷地に、伸びやかに広ある宮殿である。シェーンブルンとはそもそも「美しい森」という意味。初めてここに狩りのために館を建てさせたのは、マリア・テレジアの祖父レオポルト一世だが、テレジアがここに瀟洒な宮殿を建設して初めて、シェーンブルン宮殿はのちの名声にふさわしい王宮に生まれ変わったのである。バロックの巨匠ファン・エアラッはの設計になる宮殿は外観は"マリア・テレジア・イエロー"と呼ばれるクリーム色、内装はロココ調で、金箔をふんだんに使った漆喰装飾とボヘミアン・グラスのシャンデリア、陶器製の暖炉などは豪華そのものだ。

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ハプスブルグ家の歴史が今日、人々の注目を集めているのは、決して単なるノスタルジーではあるまい。なんといっても天才作曲家モーツァルトをはじめ、ベートーベンやシューベルトやヨハン・シュトラウスなどがここで活躍した。世紀末になるとマーラーやブルックナー、画家ではクリムトやエゴン・シーレ、作家ではマゾッホやカフカなど・・・。オーストリア=ハンガリー帝国の栄光が、今も人々の血を騒がせるのは、これら天才たちの希有の才能を開花させた、ウィーンという都の持つ、妖しいまでの魅力ではないだろうか?

ブルックナーか・・・僕のお好みは Bruckner No.7 ですが、いかがですか?
それから・・・楽曲としては・・・、あまり好きではないのだがタイトルだけ 「ウィーンはいつもウィーン」 これ良い日本語訳。とても素敵なタイトルだと思います。

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今日フランスでは、以前にまして金融およびそれを支配しているユダヤ人の意図とショーヴィニズムの立場に立って国家主義的政策の願望との間に本質的な一致が見られている。しかしこの同一性の中には、ドイツにとってはかり知ることのできぬ危険が横たわっている。まさにこの理由からして、フランスは常に極めて恐るべき敵なのである。この自己の中でますますネグロ化しつつある民族は、ユダヤ人の世界支配の目標と結びつくことによって、ヨーロッパの白色人種の存続にとっては身に迫る危険を意味するものである。なにしろ、ヨーロッパの心臓部であるライン地方のネグロの血によるペスト化は、このショーヴィニズムにとりつかれたわが民族の永遠の敵国がもつサディスト的、倒錯的な報復情熱に対応するものであると同様、このようにヨーロッパ大陸の中央部の雑種化をはじめ、低劣な人種からの伝染によって白色人種のもつ独裁的存在の基礎を奪おうとするユダヤ人の氷のように冷たい熟慮にも応ずるものである。フランスが、自国の報復情熱に拍車をかけられ、またユダヤ人に計画的に導かれ、今日ヨーロッパでやっていることは、白色人種の存続に反する罪であり、そして将来いつか人種侮辱を人類の現在と認識している一種族の復讐心が全てこの民族に向かって突進するだろう。


すげーな、よどみないフランス嫌悪www

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今日のヨーロッパの勢力関係を冷静に吟味してみると、次のような帰結に達する。つまり、300年この方わが大陸の歴史は、ヨーロッパ各国の勢力関係を均衡させ、相互に牽制させるといった方法によって、自己の巨大な世界政策的目標にとって必要な後方守備を安全にしようとするイギリスの企てにより決定的に支配されていた。イギリスが以降の伝統的傾向は、エリザベス女王の努力の後は、計画的に、あるヨーロッパの強国が一般的な力の秩序の枠を超えて躍進することをあらゆる手段でもって阻止し、必要となれば軍事干渉によって粉砕することであった。そうした場合にイギリスがいつも使った暴力手段は、存在していた事情だとか課せられた問題に応じ様々であった。しかし暴力手段を使おうという決心と意志力はいつも同じであった。昔の北アメリカ植民地が政治的に分離したことは、その後、絶対的なヨーロッパ背後防衛を保持することにいよいよ最大の努力を払わせるに至った。したがってイギリス国家の勢力が-偉大な海軍国であったスペインとオランダの殲滅の後-上昇しようとする努力しているフランスに継続的に集中された結果、ついにナポレオン一世の没落により、このイギリスにとって最も危険だった陸軍国がヘゲモニーをとる危害は取り除かれた、と見なされうるようになった。
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軍需会社と反プロイセンの気分

普通の小人物にとって、元来ベルリンに本社を持っている軍需会社は、ベルリンと同一であり、ベルリン自体がプロイセンと同じであることを意味したからである。この軍需会社と称する強奪財団を組織しているものはベルリン人でもプロイセン人でもなく、しかもドイツ人でさえなかったが、このことが当人各自にはほとんどわかっていなかった。ユダヤ人は既にその頃、自分が軍需会社という仮面のもとに、ドイツ民族に対して組織した恥ずべき略奪行為が抵抗を招くだろう、むしろ招くに違いない、ということがわからないほどバカではなかった。バイエルンはプロイセンに対して、プロイセンはバイエルンに対して争っておればよい。やればやるだけよいのだ! 両者のこの上もなく激しい闘争がユダヤ人のためには最も安全な平和を意味した。一般の注意はそれによって完全に国際的な民族なウジを忘れてしまったように思えた -そしてその上思慮ある分子、こういう分子がバイエルンにもたくさん居たのだが-が、見通しや内省や自制をするよう注意し、それによって強烈な闘争を和らげるように迫る危険が現れるように思えると、ベルリンのユダヤ人は新たに挑発を押し出し、その結果を待っていさえすればよかった。ユダヤ人が当時個々のドイツ種族をたえず没頭させ、注意をそらさせて、その間にますます徹底的に巻き上げるためにしたことは巧妙な狡猾な演技であった。

>ポルシェは気に入られていたはずだから、この叩かれているのはヘンシェル社かな?

国際的ユダヤ人クルト・アイスナーが、バイエルンをプロイセンと争わせる先手となり始めた。よりによって、インチキ新聞記者として絶えずドイツ中をあちこちと走り回っていたこの近東人が、バイエルンの利益を守るために最も不適任であることや、だがまさしくこの男にはバイエルンが、どうでもよいところだったぐらいのことは、わかりきっていたのである。

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オーストリアとプロイセン

我々は歴史に中に次のようなことを見る。すなわち、かつてドイツ問題の解決のために取ることができた二つの道-そしてその主な代表者であり主張者であったものは、オーストリアとプロイセン、ハープスブルグ家とホーエンツォレルン家であったが-は多くの人の考えによればもともとひとまとめにされねばならなかった。彼らの考えによれば、両方の道を一つに結合した力に託すべきだったのだ。けれどもオーストリアの意図は決してドイツ帝国を建設することにはなかったはずである。そしてこの上も無く強力なドイツ統一の帝国は、まさしく幾百万のドイツ人が断腸の思いで、我が兄弟牆にあいせめぐ最後の、この上なく恐ろしい徴表を感じたことから成立したのである。すなわちドイツ皇帝の冠は、本当はケーニヒグレッツの戦場(普墺戦争)から得られたものであって、後世考えるようなパリ全面の戦い(普仏戦争)において得られたものではないのだ。
 そのようにドイツ帝国の建設それ自体は何かある共通の意図が共通の道を進んだ結果ではなく、むしろ意識的な、しばしばまたヘゲモニーを求める無意識的な格闘の結果であり、その格闘から最後にプロイセンが勝者として登場したのだった。200年前には後日新ドイツ帝国の胚細胞となり、建設者、教師となるものはホーエンツォレルン家のプロイセンであり、ハープスルブルクではないだろうということを、ドイツ連邦のうちで誰かがはっきり本気に信じていただろうか!

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前線の兵士に対する恐怖

1918年11月7日以後に突然、革命の製造者として我々の前に現れたあの大きな犯罪者的組織を作る手助けをした。前線自体は、本来それとまったく無関係であった。もちろん前線にいるものたちはみんな平和への憧れだけは感じていた。だがこの事実こそ、革命にとっても非常な危険があったのだ。というのは、休戦後ドイツ軍が故国に近づき始めたとき、当時の革命家たちにとって心配な問題が常に唯一つあった。すなわち前線部隊は何をするだろう!野戦に居た兵士はこれを許すだろうか。ドイツの革命は、若干のドイツ混成軍団によって突然電光石火のように打ちのめされるという危険を犯したくなかったとき、この数週間に少なくとも外見的にはやわらげられたように思えたのだった。というのは、当時、ただ一人の軍団長が、自分に忠誠を尽くしている軍団でもって赤のボロぎれを引きずりおろし、「評議会」を窮地におとしいれ、万一抵抗した時には迫撃砲や手榴弾で打ち破る決心をしたならば、この混成軍団は4週間足らずに60個軍団の軍隊にふくれあがったであろうからだ。ユダヤの張本人は、他の何者にもましてそれを恐れたのだ。そしてこれを阻止するためにこそ、革命にある手心を加えねばならなかった。革命はボルシェヴィズムに堕してはならず、事態に即応して「安寧秩序」を見せかけねばならなかった。共和国を旧官吏の手から奪い、革命というハゲタカの鉤爪にあえて引き渡したのだ。そうしてのみ人々は、旧将軍や旧官吏をペテンにかけ、彼らから起こるかもしれない反抗を新しい状態の見せかけの無害さと平穏さによって、はじめから敵対心をくじくことを望みえたのだった。

1918年の11月革命の革命政府を、前線の軍部にいたヒトラーはかなり歯がゆい思いで見ていたようだ。この恨み節は、わが闘争の中で数回出てくる。革命後新政府、軍の最高司令官の変更、旧政府軍と革命新政府軍への微妙な移管時期。主戦力が前線で戦う中で、わずかな武装勢力が中央政府を打ち倒して新政府を樹立し、旧政府軍を反乱軍扱いしたとしたら、その恨み骨髄だろう

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演説は書物より影響が大きい

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書物はどのような手に落ちるかわからないのでに、一定の表現を保持しなければならない。この表現がその読者たるものの精神的水準や本質的性質にぴったり応ずれば応ずるほど、一般にその効果はますます大きいのである。だから大衆を目的として書物ははじめから文体と程度において、より高度の知識層を目的とした著作物とは異なった効果があるようにせねばならない。演説家は書物と同じテーマをかまわずに取り扱うことができる。けれども彼が偉大な天才的な民衆の演説家であるならば、同じ主題や同じ題材を二度と同じ形式で繰り返さないであろう。

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