タグ「民族意識」の一覧

Lippo Mall Kemang
大戸屋に行ってみました。

炭火焼定食とごはんをオプションでとろろご飯に替えて、160,000IDR(1300~1400円程度)です。うん、値段的に普通w 海外で食べる日本食としては、日本と同じかそれより少し高い程度。シンガポールは2倍くらいなので露骨に高いです。

ってことを書こうとしたのです。タクシーで行くと、ここから書き始めることになります。歩いているのは、ケチなのもありますが、ジャカルタの現状を見ることができないからです。それではジャカルタにシンガポールから来て、1か月も滞在している意味がないのです。

ドブ、穴、バイクなどあるのですが、夜は、これまた、東京やシンガポールのように道路がこうこうと照らし出される照明はないのです。照明ありますが、あれほど明るくありません。治安の問題ではないのですが、雰囲気が悪く、実際に危険なので、カネやSurfaceを持ち出しにくい気持ちになるのです。


じゃ、逆に今度は結論から。ガンダリアシティにも歩いて行ってみました。友人が住んでいて、「ガンダリアシティは日本人が多い。だから日本食も多くある。」とのことだったので、またフリーペーパーを片手に、歩きでトライです。片道1時間くらいかかりました。ブロックMから徒歩圏、地図上の直線距離で約1km、ジャカルタの場合、まっすぐスタスタとは歩けないので、歩いて30分弱程度かかります。メインのストリートを使えば、多少曲がっていても、もう少し効率的に移動できますが、いつも歩いている道路で面白くないので、Fatmawati道路の脇道を攻めてみることにしました

平日の昼間、友人は普通に働いているので、約束していたわけでもなく、一人で散歩がてら、途中で迷うことも想定しています。脇道はどこもかなり入り組んでいていて、曲がっていたり行き止まりがあったりするので、原則的に、脇道を使うことはお勧めできません。歩き始めて5分くらいは、歩いている道と記憶の上での地図上の道が一致していますが、だんだん、複雑になってきますので、脳内コンパスで目的地に向かってひたすら歩きます。途中で大丈夫かな・・・これというレベルに達します。どういう通りかというと…。


道路の幅、バイク2台が徐行すればギリギリすれ違える道幅、車は当然入れません。しかし、不思議なことに道路の両側はずっと民家が続いています。この風景どこかで見覚えが…

カリジョドだ…。2013年は、カリジョドで検索しても一切出なかったのですが、今は何件か出るようになりました。ただ、あまり行かないほうがいい場所です。カリジョドはかなり危険な場所なので、撮影とかできる雰囲気ではありません。

2013.08.28 ジャカルタ・リラクゼーション・アワー 9/16 ~神秘の場所カリジョド

今、私が歩いているのは、カリジョドではなく、平日昼間、ジャカルタ南の脇道です。では写真を。

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論語が決定的な影響力を持つようになったのは、言うまでもなく江戸時代です。当事は四書(大学、中庸、論語、孟子)、五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)と朱子の「近思録」を読んでいないと一人前の知識人として認めてもらえなかった。幕末の武士、たとえば西郷隆盛や大久保利通の青年期の読書を見ても、まず四書五経を読んでいる。また、渋沢栄一の父親は武州血洗島の農民に過ぎなかったけれども、四書五経はよく読んでいて、それを引用しながら息子の渋沢を訓戒したそうです。つまり、武士に限らず当事のちょっとした知識的な農民や商人なら「論語」を暗記しているのが当たり前だったのです。仏教のお経は読んでも意味がわからない。読んで聞かされてもわかりません。しかし「論語」なら字なりに読めるし、読んだとおり理解できます。解釈の上で非常に難しいところはあるけれども、お経のように、音声だけ聞こえてきて意味は全くわからない、というようなことはない。

ただ、日本人の論語の受け取り方は、中国人とは非常に違うそうです。すべて日本的に-日本の実情に都合のいいように解釈している。もっともこれは、ヨーロッパの聖書に対する考え方についても言えます。「新約聖書」のうち「ルカ伝」以外はすべてユダヤ人が書いたと言われ、またルカにしてもユダヤ教に改宗したギリシャ系の人間だから、「新約聖書」はすべてユダヤ教徒によって関われたわけで、そこには当然、伝統的なユダヤ人の考え方がある。ところがヨーロッパに入ってくるとそうしたものとは違った解釈が生まれ、それが一つの文化を作っていくようなところがあるのです。ローマ帝国がキリスト教を公認したのは、紀元325年ですが、そのとき小アジア西北部のニカエアで開かれた「ニカエア公会議」でキリスト教の基本信条が決定された。「ニカエア信条」と呼ばれるものですが、それと同時にその信条案を提出したエウセビオスという人物が、初めての教会史を書いたのです。それを見ると、いわゆる「旧約の歴史」はイエス・キリストが出現するのを準備していた期間だということになっており、それがそのままキリスト教徒の理解になっているのです。ところが、ユダヤ教徒には最初からそういう理解は全くない。「聖書」に対する受け取り方が基本的に違っているわけです。そしてこれと同じことが日本人と「論語」についても言えると思います。

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長い間「論語」に親しみ、その影響を強く受けながらも、中国のものの基本は輸入しなかった。日本人の法意識に最も強い影響を与えているのは、鎌倉時代に制定された「貞永式目」ですが、それを唐律と比較すると日本と中国の違いがわかります。中国は伝統的に「父子制血縁集団」の社会ですから、例えば処罰についても「縁座」ということが非常にはっきりしていた。反乱を起こした場合、本人の父親と16歳以上の男子は死刑、15歳以下の男子と妻妾子女は奴隷に落とされ、伯父と叔父は流3000里-流刑に処せられるのが通例でした。しかし、貞永式目には原則として縁座がない。共同謀議をしないかぎり、血縁者だからという理由だけで処罰されることはありません。ただ正妻は夫に協力したに決まっているということで、領地を没収される。中国の法律とは明確に違うわけです。財産相続法も非常に対照的です。中国は均分相続で、家督は一人が継ぎ、家産は均分に相続する。ところが貞永式目はそうなっていず、父親がこれと思った人間に譲り状を渡して相続させるのです。

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これを書いているのは2007年7月23日。参院の選挙は29日。この小文が読者の目に触れるのは8月10日になってからである。首相としての安倍氏は私にとって「買っていない」というよりも「好み」ではない。政治という虚実からみ合う世界のリーダーとしては誠実のあまりか単純すぎる。大衆民主主義時代の有権者の心理が分かっていない。女はなぜ男に惚れるのかを考えたことはあるのだろうか。民主主義政体下の有権者とは「何をやったか」で支持するのではなく、「何かやってくれそう」という思いで支持を寄せるのである。

民正しいじゃん。どれくらい儲けたかという過去のトラックレコードだけを見て、将来を見ないのは投資家としての姿勢が根本的に間違っている。

私の不満の第二は「美しい国」に代表された感じの、アッピールの抽象性にある。政治とは究極のインフラストラクチャーであり、そしてインフラとは、個人の努力ではできないことを共同体が変わりにやることに意味がある。

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私も読んだが、タイトルは確かにぼやけているが、本の内容は具体的に国のあり方を書いていたように思うけどなぁ…。

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インドネシアの独立記念日は8月17日。2日ほど前に日本では終戦記念日だったが、なんか近いな・・・、と思った諸君は東南アジア史を勉強なさいw 偶然近いのではなく2つはつながっている。いつの時代も大国の動乱は他国にも波及する。日本の敗戦の決定は2日でインドネシアに伝わったのだ。だから、アジア一国一愛人構想なのだ。わかるか?

8月18日は、MONAS(独立記念碑)の傍で記念祝典パレードが昼過ぎくらいから行われる、との情報が先輩から届いた。暑いし、一人だしなー、プラザインドネシアで日本飯でもついでにとも思うんだけど、朝飯食べちゃったし、昼飯いらないんだよなー。と気が乗らなかったので、日本市場の終わりはインドネシア時間では13:15であるから、そこで〆て14時前くらいに出発した。タクシーで行けば50,000IDRで到着するのだが、それが高い気がしてきたので、民バスに乗る。民バスとは、窓なし・ドアなし・冷房なし・バス停なしのボロボロのバスなので、バスが来たら手を挙げると速度を落としてくれるので、飛び乗る。料金は3,000IDRだ。これでまずBlok Mまで移動。

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ただ、バスに乗る前に、Blok M Square(Squareが汚い方で、綺麗な方がPlaza Blok M)で買い物だ。アジア・ファッションのインドネシア版ペチ(Peci)=インドネシアの偉い人がかぶっている帽子だ。そして、これを東京で着用するのが私の目的だ。タイやフィリピンではペチの宗教的意味も通じるので、ペチを被ってバーで酒を飲むという矛盾が格好悪く、またイスラームがマイノリティなので面白くない。宗教のことなど誰も知らない日本では、このファッションの宗教的意味合いが殺され、単なるアジアンテイストになるという高次元のお洒落の追求なのだ。

頭にペチ(インドネシア)、ネックレスはワットポーで買ったリクラインニングブッダ(タイ)、ブレスレットは天珠虎目(中国)に身を包んだアジア的ファッションwは、イスラーム・仏教・風水と宗教も滅茶苦茶で、ある意味冒涜的なファッションでもあるのだが、「信じるものは巣食われる、これマーケットの真理なり」という投資家らしい主張を貫きつつ、アジアが香る抜群のファッションセンスなのである。

インドネシア・ファッションの代表格はバティック(Batik)というシャツがあるのだが、日本語で言うとガラ・シャツのような感じで、これらをすべて組み合わせると東南アジアのヤクザ? みたいに東京では思われてしまいそうなので、バティックは敢えて外す。ペチはブレスレットやネックレスに比べると圧倒的に存在感あるので、バティックまで着用するとインドネシアに偏りすぎ、バランスが崩れてしまう理由もある。私ももう少し顔がよければ、バティック+ペチで東南アジアのエリート・ビジネスマンと言ってもらえる風貌になるのだが、整形でもしない限りその組み合わせは、電車で周りが空いてしまいそうで嫌だ。

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マイクロソフトのヤフー買収失敗

マイクロソフトがヤフーを求めたのには理由がある。理論的には、当時わずか9%だった検索市場におけるマイクロソフトのシェアを高め、200億ドル以上というグーグルの足元にも及ばない。わずか32億ドルのネット広告売上高を拡大手段となるはずだった。ディスプレイ広告でグーグルをリードするヤフーの勢いに便乗する狙いもあった。マイクロソフトのポータルサイトMSNのEメールサービスをヤフーのそれと統合し、圧倒的な市場シェアを握る手段にもなる。グーグルのクラウド・コンピューティングという攻撃に対して守りを固めるための策でもあった。ヤフーは不器用に抵抗した。ヤフーCEOのジェリー・ヤンと取締役会は当初、マイクロソフトの申し出を断ったが、やがて関心を示した。しばらくすると再び興味は無いと表明し、買収者に重い負担を課すようなポイズン・ピルを自らに埋め込もうとした。1万4000人の従業員に対して、マイクロソフトとが買った場合に退社すれば、2年間に限って高額の離職手当を受け取れる権利を与えようとしたのだ。だが最終的に、ポイズン・ピルの導入は、断念に追い込まれた。その後ヤンと取締役会はマイクロソフトに対し、1株当たり37ドルであれば買収を受け容れると通告し、しばらくして条件を33ドルに下げた。またしばらくすると、今度ヤフー全体ではなく、検索エンジン事業のみを売却を検討すると発表した。

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ラスプーチンは、まるで中世の昔からぬっと現れたかのように、ぼろをまとい、薄汚れた姿で、得体の知れないことをつぶやきながらサンクト・ペテルブルクにやってきた。何年も放浪生活を送ってきた人間であることは一目見て明らかだった。彼は食べ物でいっぱいに膨らんでいるように見える乞食ポケット付の灰色の安物外套を着ていた。ズボンはぼろぼろ、尻の部分は「ほころびかかった古いハンモックのようだった」とイリオドルは書いている。ズボンの下から見える黒いタールを塗った農民ようのブーツはやがて、彼の誘惑道具の1つとなり、上流社会の婦人たちを抱擁した時に、そのスカートに記念の徴の黒い染みを残した。居酒屋の給士のように無造作に中わけしたボサボサの汚い髪は、もつれた長い髭と絡み合って、まるで青白い顔に黒羊の皮を貼り付けたかのようだった。青い唇の上下には口髭が「2本の使い古したブラシのように」突き出していた。もじゃもじゃの眉毛の下のくぼんだ目は青みがかった灰色で、怒ると目つきが鋭くなる。丸っこい爪は汚れていて、手はあばただらけだった。彼の身体は「なんとも言えない不快な匂い」を発散していた。

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長沙3日目
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昼食 香鍋 火鍋とは違って、食卓で煮るのではなく、具材を選んだ後、調理場で煮たものが出てきます。ネット前払いのディスカウントで25元(1人分負担)。入り口が狭く、奥が広い変な構造。店内喫煙OKなのが、中国の醍醐味w

昼ご飯を終えて、プラプラ歩きます。パイナップル3元、1/6カットして串に刺してあるもの。1個丸ごとだと15元。タイ・バンコクのカット・パイナップルが15THBですから若干高いです。

・不動産価格
単房、ワンルーム・ルームシェア系の部屋貸しは、450元広告あり。一方、中国のマネキネコ猫家は5000元/月で、7人家族が住める家、今売ったら80万元というのがこのあたりの不動産価格のイメージです。もちろん、天心区の中心がこれより高いのは言うまでもありません。

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アテネ民主政治の仕組み

古代民主政治の基本的な原理は、市民の間に治める者と治められる者との差別をなくすることにあった。つまり職業的官僚を認めないのである。そのために役人の任期を限定する必要があり、それは1年で重任再任を禁止した。もっとも10人の将軍のように経験を必要とした重い役は何度でも重任を認め、事実ペリクレスは15年間連年この役についていた。また財産によって就任資格が決められることもこの原理に反するので、本来国家の最高官職たる9人のアルコンの役も前457年にソロンの制度での第三級の市民にまで開放された。第4級の市民は法制上は除外されたが、実際には財産による資格はあまり重視されなくなったらしい。もっとも高級財務官は第一級の市民に限られたが、これは公金横領とか収賄とかいつの世にも役人につきものの過ちが当時も少なくなかったことを物語っている。

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第4章アイルランガ王時代(11世紀)

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アイルランガ政権の正式の発足は1019年ということになるが、その時東ジャワ全土を支配していたのでは決してない。この王が国家の統一を回復するためにこの後長年にわたってあらゆる方面における戦いを続けなければならなかった。その際彼の敵対者の背後にシュリーヴィジャヤがいたことは当然想像されよう。当時アイルランガの領地は東ジャワの限られた一地域であり、彼は多数の小王国の1つとしてこれを統治していたのであろう。アイルランガ王のものとしては最初の銅板文書がブランタス河の下流地域から出ている。かくて、アイルランガの最初の領地の広がりは、最大限スラバヤからバスルハンまでの海岸沿いの地域に若干の後背地を加えたものであったようである。彼はこれだけの領域を持って一応満足せざるを得なかったであろう。と言うのは、1028年にいたり、暫く領土拡大の企図を実行し始めているからである。


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ジンギス汗の悪夢に学んだロシア人の凶暴

趣向を凝らした頭蓋骨の塔

織田信長が、妹のお市の方の旦那である浅井長政を滅ぼし、髑髏で酒杯をつくって酒を飲んだと言う話は有名である。チンギス・ハーンの子孫を名乗ったティムール(在位1370年~1405年)に比べたら、かわいいくらいである。14世紀後半から15世紀初頭にかけて、中央アジア、西アジアを戦乱の渦に巻き込んだティムールは、征服地に頭蓋骨で塔をつくることを趣味としていたからだ。モンゴル族の出身で中央アジアのサマルカンドを都として帝国を築いたティムールは、ロシア、インド、トルコへと版図を広げていったが、1387年、現在のイランの中央部にあるイスファハンを陥落させたとき70000人を虐殺した。そして、その首を刈って頭蓋骨のピラミッドを作った<。さらに1394年、タクリトという都市を攻略した時は、戦死者や虐殺した人々の頭蓋骨を組み合わせて、見事なミナレット(イスラム寺院の尖塔)状の高い塔を築いた。

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インドネシアのエコカー「ローコスト・グリーンカー(LCGC)」政策

燃費の良い小型車で、環境対策というのは建前で、インドネシアの自動車ロビイストの目論見は減税である。インドネシア自動車業界としては、安い車を作って、現在、自動車を買えない層への普及を狙っている。自動車の質を下げれば(色々と手を抜くことで)、販売価格を下げることができるが、街中で中国製・インド製の車はほとんど見かけないことから、インドネシアの民の車に対する要求は、もはや走れば何でも良いというレベルを超えている。また日産が出した「Evalia」も売れ行きが今ひとつだそうだが、売れない理由は「後部座席の窓が開かない」ということにあるらしい。後部座席の窓を開かなくするというかなり小さな質の低下の分だけ値段が下がる。この積み上げで価格の安い自動車を生産することはできるのだが、インドネシアの民の触手は動かないのである。

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こうした実績から、インドネシア経済に強烈なインパクトを持っている自動車業界のロビイストたちは、減税による低価格化を望んだのである。

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アンケートを読みすすむうちに、田舎というのは山や川やタヌキやキツネが醸し出すものではなく、そこに住んでいる人間が作り出しているものだということがわかってきました。派手な結婚式、不気味な葬式、集まる親戚、乗り込んでくる近所のネーさん、他人の噂話。その他、札束が乱れ飛ぶ選挙とか、妙な食べ物、本屋が無いとか色々ありましたので章ごとにまとめてあります。


この本で最も同意できる部分でかつ、いきなり結論なんだが、私の考えでは、田舎というのは日本の民族性と同義である。田舎という概念に地域性はあまり関係が無い。この本のタイトルは「田舎はどこだ?」ということで、地域を特定したいのであるが、本に出てくる様々な事例を見ても、それは地域性の問題じゃなくて、日本人の民族性だろ? と思うことが多い。例えば、東京であっても、両親含めて代々東京に住んでいるなんて人が、そもそも稀である。田舎的な思考・言動の根源は「合理性のない慣習」と「画一的な価値観」の2つである。田舎特有の連帯意識や相互扶助も、地域・人口密度に依存する強弱はあるものの、この2つから導き出される。

(男女の)プレゼント交換、旅行後のお土産、お中元・お歳暮、こういった慣習を田舎臭いという人はほとんど居ないだろう。しかし、こういった、「やってやられて」の相互扶助的慣習が田舎特有の大げさな冠婚葬祭につながる。私のような変人から見ると、これらの物々交換は不合理そのもの、プレゼントでもお土産でも、もし仮に必要なものがあるのなら、私は既に手に入れている。手に入れていないもの=買いたくないもの=価値を認めていないものをもらって嬉しいか? 旅行の土産にしても、昔ならわかるが今の時代、日本で手に入らないような食べ物は、売り物にならないような変わった味であることは確定的だ。あるいは、どこでも手に入る土産として意味が感じられないものであるかのどちらかであろう。タダならもらうけど、お返し要求されるコミュニティには所属したくない。

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演説は書物より影響が大きい

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書物はどのような手に落ちるかわからないのでに、一定の表現を保持しなければならない。この表現がその読者たるものの精神的水準や本質的性質にぴったり応ずれば応ずるほど、一般にその効果はますます大きいのである。だから大衆を目的として書物ははじめから文体と程度において、より高度の知識層を目的とした著作物とは異なった効果があるようにせねばならない。演説家は書物と同じテーマをかまわずに取り扱うことができる。けれども彼が偉大な天才的な民衆の演説家であるならば、同じ主題や同じ題材を二度と同じ形式で繰り返さないであろう。

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マルクシズムと民主主義の原理

マルクシズムは国民的精神界を絶滅してやろうと決めているのだが、自己の犯罪目的のためにたとい間接的にせよ支持を受けうる限り、民主主義と一緒に進むだろう。しかし、我々の議会主義的民主主義の魔法の釜から突然多数者を沸き立たせ - そしてそれがただ正当な多数決の立法にのみによるとしても - 本気でマルクシズムを弾圧しようとしているという確信に、今日到達するならば、議会のまやかしはただちに終わりをつげるであろう。赤色インターナショナルの旗手たちは、さらに民主主義の良心に訴える代わりにプロレタリア大衆に燃えるような檄を発する。そして議会における民衆の使途の知的な要領のよさではできなかったことが、扇動されたプロレタリア大衆の鉄槌やハンマーで、ちょうど1918年秋と同様に電光石火のように達せられるだろう。すなわち、西欧民主主義のやり方でユダヤ人の世界制覇に対抗できるなどとうぬぼれることが、いかに狂気じみているかを、ブルジョア社会の人々に痛切にわからせてくれるだろう。
 規則などはいつか高飛車な態度に出る時や、あるいは自分の利益になるときにだけ存在していて、自分の得にならないとなるや否や投げ捨ててしまうような博徒を相手にして、規則に縛り付けられているなどということは、前に言ったようにまったくお人よしに他ならないのである。ブルジョア政党には、偉大な優れた視点からの信服させるにたる印象と、その印象を無条件に信頼させるにたる説得力を持って大衆をいつも従え、この印象を固守していこうとする狂言的な闘争意欲とを結合させるような偉大な磁石のような魅力が欠けているのである。

「民族主義的」という概念

「民族主義的」という概念は、「宗教的」という言葉とほぼ同じように、明確に限定されておらず、色々と違った意味に解釈できるし、また、実際に色々勝手な意味に使われているように思える。「宗教的」という言葉にしても、この言葉の働き方が一定の明瞭な形をとった時に、初めて観念の上で把握しうるのである。ある人をその性質が「内面的に非常に宗教的」であるという場合、それは結構だがおおむねまたつまらない説明である。確かに少数の人は、そうしたまったく一般的なレッテルをつけられて自分自身満足感を覚えるであろう。しかし、大部分のものは、哲学者でも聖者でもないから、こんなまったく一般的な宗教的理念では、たいてい一人一人にそれぞれ違った考えや行いを自由に与えることを意味するだけであり、なんといっても内心の宗教的渇望が、純粋の形而上的な無限の志向の世界の中から、明確な特定の信仰が形成された時に生ずるような、あの効験にいたることもないのである。この信仰なるものは確かにそれ自身目的ではなく、目的のための手段に過ぎない。だがそれは目的一般に到達しうるために不可欠の手段である。しかしこの目的は単に観念的なものではなく、究極においては優れて実践的な目的なのである。人々は一般にもっとも崇高な美の尊さが、結局ただ倫理的な合目的性の中にだけ存するとまったく同様に、最高の理想は常にもっとも深刻な生活の必要に即しているということを知らねばならない。

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ヴィトゲンシュタインの「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」調な意見だが、論理哲学論考はヒトラー読んでいたのかな? 二人は同窓だった時代もあったらしい・・・。


国家についての3つの有力の考え方 ごく大雑把にいって、3つの国家観念を区別することができる。

1)国家を単純にある政府の権力のもとに、多かれ少なかれ自発的に集った人々の総和と見るグループ。
2)第二のグループは、国家の存在の少なくとも2,3の条件をつける人々がそれに数えられなければならないだけ数からいっても少ない。彼らは同一の行政だけでなく、できるならばまた同一の言語-たとい一般行政技術上の見地からだけであっても-であることを要求する。国家権威はもはや国家の唯一の独占的な目的ではなく、臣民の福祉の増進がこれに加えられる。「自由」の思想が-しかもたいていは間違っている自由の思想が、これらの人々の国家観にこっそりはいってくる。統治形式はそれが存在しているという事実だけでは不可侵のものとは考えられず、それが目的にあっているかということが吟味される。国家が古いという尊厳だけでは、現代の批判を免れない。ともかく、これは国家からまず第一に個人の経済生活に有利な状態を期待し、それゆえに実際的観点から一般の経済上の損得の観点から判断する見方である。この観点の主要な代表者は普通のわがドイツ・ブルジョアジーの人々、特に自由主義的民主主義者である。
3)第三のグループは数字上、最も少ない。かれらは国家を、言語的に特色を持ち、統一された国家を形成している民族の、たいていは非常に不明瞭に考えられている権力政治的傾向を実現する手段と見る。統一的な国語にしようとするこの意思は、その場合、ただこの国家がそれによって対外的権力を増大させるための力ある基礎を作ろうとする希望だけでなく、それにおとらず-そのうえに根本的に間違っているが-国語統一によって、一定居の方向への国家化を実現しうるという考え方を表しているのである。


がしかし、言語や民族の分類が主観的にならざるを得ない以上、ここでヒトラーが定義している国家観念の分類もまた揺らいでしまうものに過ぎない。


民主主義国家と人種衛生

民主主義国家は人種を一般的生活の中心点に置かねばならない。民族主義国家は人種の純粋保持のために配慮しなければならない。民族主義国家は子供が民族の最も貴重な財宝であることを明らかにせねばならない。ただ健全であるものだけが子供を生むべきで、自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず子供をつくることはただ恥辱であり、むしろ子供を生むことを断念することが最高の名誉である、ということに留意しなければならない。しかし反対に国民の健全な子供を生まないことは非難されねばならない。国家は何か明らかに病気を持つものや、悪質の遺伝のあるものや、さらに負担となるものは、生殖不能と宣言し、そしてこれを実際に実施すべきである。これに対して逆に国家は、国家の財政的にだらしない経済管理のために、子沢山が両親にとってのろいとなり、健全なる女子の受胎が制限されることの無いように心がけねばならない。

肉体的にも精神的にも不健康で無価値なものはその苦悩を自分の子供の体に伝えてはならない。民族主義国家はこの点で巨大な教育活動をなすべきである。国家はこの教育によって病身であったり、虚弱であったりすることは、恥ではなくただ気の毒な不幸にすぎず、しかし、この不幸を自分のエゴイズムから何の罪も無い子供に負わすことによって汚名をかぶせるのは犯罪であり、したがって同時に恥辱であり、これに対して罪の無い病人が自分の子供を持つことを断念し、自分の民族の健全さのために、他日、力強い社会の一員になることを約束されている民族の見知らぬ貧しい幼い子孫に愛と情を注ぐのは、最高の志操や賞賛すべき人間性の尊さを証明するものであることを一人一人に教えるべきである。そして国家はこの教育活動によって、国家の実際的活動を純粋に精神的に補うようにしなければならない。国家はこの意味で、理解や無理解、賛成や不賛成を顧慮せずに行動しなければならない。


私が昔書いた妄想小説「我が競争」にも、出生制限と"生殖の分配と局在化"について書いている。当時私はヒトラーの「わが闘争」を読んでいなかったのだが、あたかも読んだことがあるかのようなパロディー小説を書いていたあたりが、天才的予言能力と言えよう。

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【民族意識系】
2013.04.03 わが闘争 上 民族主義的世界観 2/7 ~ドイツ民族とユダヤ
2013.03.11 藤原氏の正体 2/4 ~中臣鎌足とは? その出自
2013.01.21|民族世界地図 1/2
2012.11.12 もっと知りたいインドネシア 2/3 ~地理と民族
2012.10.05|宋と中央ユーラシア 4/4 ~ウイグル問題
2012.04.25|美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本


共和という言葉は昔からあった。周の昔、厲王が出奔し、戇子の宣王が幼少だったので、周公と召公が協議して政治を行った。その14年間を『史記』は共和の時代という。別の資料によれば、厲王出奔後に共国の公爵で名を和という者が推されて政治をおこなったとする。いずれにしても春秋の109年前の西暦紀元前841年にあたる。1903年はまさにその年から数えて2744年にあたる。国学大師章炳麟の「共和」はけっしてrepublicではなかったのだ。上海の租界には清国の警察力は及ばないが、清国当局が重要犯人を逮捕した時は、工部局(疎開の行政機関)に「照会」しなければならない。いくら照会しても、国事犯ならその照会はたいてい却下される。

保皇会は革命派に比べて、金が集めやすかったはずである。康有為はいまでこそ西太后の勘気を蒙っているが、もとは皇帝の寵臣であった。出自ははっきりしている。学界ではその名を知らぬ者はない。それにくらべると、孫文はどこの馬の骨かわからない。康有為は一説によれば百万の金を集めていた。シンガポールの富豪邱菽園は、康有為に三十万両を拠出したが、自立軍の唐才常の手に渡ったのは二万両だけであった。康有為に住居を提供した邱菽園はまもなく倒産しているが、康有為はその後も優雅な生活を続けている。家産は清朝政府に没収されたのにこれは不思議なことであった。潔白な自分が陶成章っちにあれこれ言われているのに、敵対する保皇派で大金私呑の疑いのある康有為が大して指弾もされていないのが、孫文には不満であった。

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1911年は辛亥の年である。同盟会はこの年のはじめに蜂起を予定していた。何度も延期したがそれは武器が集まらないからであり、つまりは軍資金不足の結果にほかならない。孫文はアメリカとカナダでけんめいに募金活動をしていた。華僑の公産を抵当に金を借りるとすぐにその場から香港に送金したのである。金銭問題であれこれ言われるのに彼はもううんざりしていた。なるべく入った金は手元にとどめないように心掛けた。日本から香港に武器を運びそこから広州へ密かに持ち込む。香港は自由港なので旅具検査はほとんどない。武器は小分けにして留学生が携帯荷物として運んだ。

広州放棄は十路攻撃の予定を急遽、四路に縮小することにした。十路攻撃を四路に縮小したが実際に進撃できたのは黄興の一路だけであった。二路は武器受領のため、始平書院へ行っていたが、その間に城門が閉じられてはいることができなくなった。三路は連絡を受けたはずなのにわざわざ人を派遣して本当に今日決行するのかと確かめている。しかも結局出撃しなかった。四路は蜂起の期日が改められたと思い込んでいた。この放棄では防諜を重んじすぎたあまり、相互の連絡に問題があったのだ。

水師提督李準の親兵大隊がやってきたが、蜂起軍から50メートルしか離れていない。林文が「我々は皆な漢人だ。力を合わせて漢土を恢復しようではないか!」と前に出てそう叫んだ。水師の兵が発砲して林文は頭に銃弾を受けて即死した。黄興は指と足に銃弾を受けながら喩培倫と合流するために双門底にむかった。そのとき前方から巡防の一隊がやってきた。じつはこれは革命の同志に率いられた防営の兵士たちである。蜂起軍は腕に白い布を巻いていた。しかし、士官の温たちは総督署に着いてから白い布を配ろうとしていたのである。何も知らない兵士たちが受けるショックの時間をできるだけ短縮しようとしたのだ。「兄弟よ、兄弟よ!」 士官の温は叫んだが腕に白い布を巻いていないで、蜂起軍は敵だと思ってこれを射殺した。防営からも応戦があった。

清朝当局は全国の鉄道を国有化する政策をとった。まだ敷設していない線でも、鉄道が通るというだけで外国からの借款の担保になる。賠償金支払いなどで財源の清朝は、まだ敷かれていない鉄路の線を担保にする以外財源が無いのである。金が無ければ政権の維持は困難である。

何か互いにボロボロ・・・。

【国民意識と愛国心】
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2012.06.21|第二次タイ攻略 4/15 ソンクランと国歌斉唱
2012.04.24: 美しい国へ 1/3 ~国家が民のためにしてくれること
2011.08.26: マハティール アジアの世紀を作る男1/4 ~東南アジアの雄
2010.09.10: ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず
2009.08.19: インド旅行 文明という環境汚染
2009.07.20: タイ旅行 国土がある、通貨がある、言語がある
2009.01.23: ドイツからのお手紙 銘柄選定における国民性
2009.01.07: ユーゴスラヴィア現代史 ~国家崩壊への道 
2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.12.08: アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図
2008.10.22: 香港とシンガポールの違い
2008.08.22: Olympicと国家



容保は殿中でも無口でどういう時にも発言しなかった。このためほとんど無視され人々から注目されるようなことはなかった。ただ一度だけ容保の口から意見が出たことがある。桜田門外の変の直後、かねて水戸徳川家の京都偏向主義を憎悪していた幕閣が「これを機に尾張・紀伊の御両家の藩兵をもって水戸を討伐しよう」という案を持ったことがある。老中の久世大和守と安藤対馬守とがその急先鋒だった。容保は「水戸様を討伐するなどあってはならぬことです。」と言った。老中久世が気色ばみ、「しかし水戸中納言は御宗家をないがしろにして京都の朝廷から私に攘夷の内勅を受けられた。幕府からそれをお返し申すように命じたが、不逞の藩臣がそれを承知せぬ。承知せぬばかりか、長岡駅に屯集してえ気勢をあげております。これは公然と幕府に弓を引く態度ではありませんぬか」
「小さなことだ。ものには原則と言うものがある。水戸家は御親藩であり、これを他の御親藩をもって討たしめては御親辺相克のもととなり乱れが乱れを呼び、ついに幕府の根底が揺らぎましょう。売ってはなりませぬ。」
「御内勅を私蔵しているのはいかに」
「当然でしょう。水戸中納言家は御先祖光圀公以来、京の王室を尊崇し奉ることが御家風になっている。これも水戸家の原則であって家風である以上これを尊重せねばならぬ。幕府としてはそういう水戸家をどう包容していくかを考えるだけでよろしかろうと存ずる。」
この一言で水戸討伐の議はやんだが容保の運命は大きく変わったといっていい。

正親町三条大納言実愛は声をひそめ、天子の食事をご存じか、と言った。天使の御膳は何汁何菜ときまっている。しかし幕府から支給される賄料は銀740貫目でこれはざっと90年来かわらず、その間物価が数倍に上がっている。このため品目と数量だけはそろえ、内容は極端に粗悪になっていた。毎夕御膳にのぼる鯛は爛れたように異臭を放っている。鯛だけではない。ほとんどの食品が市井の者も食わぬ粗悪なもので食えば中毒死する恐れのあるものもあった。このため御膳方吟味役は「これはお召し上がりにならぬように」との紙の印をつけておく。帝はそれには箸をおつけにならない。

幕府が肝煎で江戸において浪士を徴募した。「攘夷先鋒」という国防的目的がその表向きの徴募理由であった。その徴集された浪士団が京の西郊壬生村に入ったがほどなく分裂し、大半は江戸に去り、十数名だけが自発的に京に残った。その首領が水戸人芹沢鴨という浪士である。芹沢は思案し「京にとどまるには衣食の道を講ぜねばならぬ。それには京都守護職の給与を受けるのが最も良い」と思いついた。

法的にいえば天皇はこの国の潜在元首である。しかし鎌倉以来、武家政権に国政のほとんどを委任しているのが日本の伝統的統治形式であり、さらに徳川家康の江戸幕府開創によって、天皇の国政上の位置は明文化され、単に公卿の統帥者にすぎない。わずかに官位を与える権限はあるが、それも極度に制限されたものである。主権者としての機能は皆無であった。それらのすべてを徳川将軍家に委任しきってしまっている。それが翕然とした法であった。この帝は性格上、無法者になることを好まれなかった。のちに維新政府の創設者の一人になる三条実美は、「お上は攘夷攘夷とおおせられておりますが、おおせられるだけでなく、それを将軍にお命じあそばさねばなりませぬ」とせまり、帝自ら大和の樫原神宮に行幸し、攘夷親征の宣言をされることであった。もはや将軍を無視し、天皇みずから日本の士民を率いて外国と開戦することを祖廟の宝前に誓うというのである。

勅使が河原町の長州藩邸へゆき、その兵を撤退せしめた。政変に敗北した長州人とその浪士団は、三条実美ら七卿を擁しつつ東山妙法院から京を落ち、長州に去った。容保はこの政変に勝った。がその勝利の実利を得ず、利は薩摩藩が得た。この夜から維新成立に至るまで京都朝廷は権謀の才にめぐまれた薩摩人たちの一手ににぎられた。容保は依然として一個の王城護衛官であり続けたにすぎなかった。ただ京都の市中におけるその警備能力はすさまじさを加えた。市中警備は新撰組が担当している。京に残留潜伏中の長州人や長州系浪士をみればこれを斬った。斬ることが彼らの法的正義であり、思想的正義であった。会津藩は朝廷と幕府から京都守護を命ぜられており、かつ、長州人は天皇の敵であったからである。

容保は晩年、無口で物静かな隠居にすぎなかったが、肌身に妙なものを身につけている。長さ20糎ばかりの細い竹筒であった。容保が死んだ時、その竹筒を開けてみた。意外にも手紙が入っていた。読むとただの手紙ではなかった。宸翰であった。一通は孝明帝が容保を信頼し、その忠誠をよろこび、無二の者に思うと意味の御私信であり、他の一通は長州とその係累の公卿を奸賊として罵倒された文章のものであった。長州閥の総帥山県有明は、その宸翰が存在する限り、維新史における長州藩の立場が後世どのように評価されるかわからない。人をやって松平子爵家に行かせ、それを買い取りたいと交渉させた。額は5万円であった。が、宸翰は手に入らなかった。松平家では婉曲に拒絶しその後銀行に預けた。竹筒1個、書類2通という品目でいまでも松平容保の怨念は東京銀行の金庫に眠っている。

日本に二つの政権ができた、といっていい。京都の天皇政権は抽象的な日本統治権とあいまいな外交権だけしかもっていないが、京都の二条城と大坂城に駐営する徳川慶喜の政権は強大な軍事力と400万石の直轄の支配権領と、300諸侯に対する伝統的な支配力をもち、しかも江戸城に次ぐ防禦力をもつ大坂城に軍事拠点を置き、旗本、会津・桑名などの旧式戦力の他に3万以上という日本最大の洋式歩兵軍を集結させていた。しかも慶喜は恭順の姿をとっている。岩倉は戦端をひらきたかった。武力によって徳川軍をつぶさぬ限り彼の構想する革命は成就しないであろう。が、慶喜が朝意に服している限りなんともできない。そこで挑発する必要があった。慶喜政権の財政基盤であるその400万石の直轄領を朝廷に返納させることであった。無理難題と言っていい。それを返納すれば旗本8万騎が飢えに死ぬ、他の大名が徳川体制のままで土地人民を支配しているのに、なぜひとり徳川家のみがそれを差し出さねばならぬのか。こういう情勢下で岩倉と大久保が立案した「小御所会議」が開かれた。御前会議である。親王・公卿の代表者の他に、諸藩主では尾張候、越前候、安芸候、土佐候、薩摩候の5人が出席した。その会議の席上、土佐候山内容堂が徳川慶喜擁護のために激論し始め、ついに「現下の情勢は2、3の公卿の陰謀である」と言い放った。

「村田先生はすでに士分の列にあられるのになぜいつも雑人のような半袴を用いておられるのです。」と聞いた。蔵六はおかしくもないといった顔つきで
「馬に乗れないからです」と答えた。「先生は剣は何流をお使いになさる」、「剣術は無修行です」、蔵六は正確に答えた。「たいへんな武士もあったものだ」と家中で物笑いにした。蔵六はその嘲笑に対して「私の兵学で士と言うのは諸藩で高禄を食む者のことではない。士の武器は刀槍ではなく重兵(兵卒)の隊であり、士の技能は何流の剣術ではなく、重兵を自在に指揮する能力である。武士、武士といって威張っている者に国家の安危は託せられない」といった。

楢崎は「前線では朝9時から午後4時まで小銃を撃ちつづけている現状だ」とまで極端な表現を使った。これが益次郎の性分には気に入らなかった。「君嘘を言っては行かぬ。小銃というものは3,4時間も連発すると手が触れられぬほど焼けてくる。水にでもつけねばそれ以上連発することはできない。それを君は9時から4時まで続け撃ちしたというが、それはうそだ。うそでないというなら、いまここで君が4,5時間連発してみるといい。それに聞けば兵一人あたりまだ弾丸が200発ずつあるというではないか。そんな隊に弾丸の支給は無論、増援もできぬ」 楢崎も、川田もひきさがらざるをえなかったが、議論に負けた怨恨だけは残った。

オランダ人らしく日本の役人の通弊についてはよく知っていて買い付け方の役人に賄賂を贈ってずいぶん高値で売るという評判も聞いていたし、それにもっと始末が悪いことには相手が無知な場合にはとんでもない旧式銃を売りつけることであった。被害は南部藩を除く東北諸藩で、多くは欧米のどの陸軍でもすでに廃銃になってしまっているゲベール銃を売りつけられた。ゲベール銃というのは発火装置が火縄のかわりに燧石になっているだけで、弾は先込めであり、銃腔内の滑腔である。その点種子島とかわりがなかった。「銃の見本を見せtもらいたい」と継之助は微笑もせずにいた。スネルはすぐ店員に命じて各種の銃を並べさせた。さすが、継之助に対してゲベール銃を見せるという愚をしなかった。まず薩長や幕府歩兵が持っているミニエー銃をみせ、「射程が長い」といった。「わかっている」と継之助はいった。スネルは米国製はシャープス銃をしきりとすすめた。銃身が短く、取り扱いが軽快でしかも精度の良い元込銃である、と。「これは安いはずだ」と継之助はいった。スネルは「いや高い、安価なものではない」というと、継之助は即座に矢立と懐紙を出し、アメリカ大陸の地図を書き、この図が何国であるか汝は知っているか、といった。「アメリカ」 スネルは継之助の気概に圧されている。「然り。我が年号で言えば文久2年からこの国で内乱(南北戦争)が起こっている。ほぼ終わりつつあるそうだ。せっかく製造した銃が過剰になっている。それが国外に流れた。世界中でだぶついてる。それでも高い。というのか。」スネルは黙った。「それに私はこのアメリカ銃を好まない。なぜなら短すぎる。かの国ではおそらく騎兵に持たせたものであろう。銃は白兵格闘の場合には槍の役目をなし、しかも槍術は古来我が国が世界一だと思っている。長い銃がいい。ミニエー銃にしよう。」

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【愛国者・民族主義者】
2013.03.08 藤原氏の正体 1/4 ~鎌足と蘇我氏
2012.12.07|殺戮と絶望の大地
2012.09.06 ジャカルタに行ってきました 2/9~言語はあるが文字がない
2012.06.13|第二次タイ攻略 3/15 ソンクラン@シーロム
2012.04.20: マクリッチー攻め第3弾 ~昭南神社探索
2011.12.27: 民主主義というのも民に自信を持たせるための方便
2011.10.25: インドネシア 多民族国家という宿命 1/3~歴代大統領
2011.08.31: マハティール アジアの世紀を作る男4/4 ~がんばれアジア
2011.07.12: 父親の条件2/4 ~フランス人の高慢ちきな態度はここから
2011.05.10: 日本改造計画2/5 ~権力の分散と集中
2011.02.17: 田中角栄 その巨善と巨悪 ~議員立法
2010.12.06: 田中角栄 人を動かすスピーチ術 ~カネの使い道
2010.07.13: 日本帰国 第一幕 靖国参拝
2010.05.25: 靖国で泣け
2009.08.21: インド独立史 ~ナショナリズムの確立

ある時私が市の中心部を歩き回っていると、突然長いカフタンを着た、黒い縮れ毛の人間に出くわした。これもまたユダヤ人だろうか? というのが私の最初に考えたことだった。彼はリンツではもちろんそのような外見をしていなかった。私はひそかに注意深くその人物を観察した。だがこの見知らぬ顔を見つめれば見つめるほど、そしてその特色をさぐるように調べれば調べるほど、ますます私の頭の中で最初の疑問が他の表現に変わった。 これもまたドイツ人だろうか? 私はいつものように、この疑問を本から引き出してみようとし始めた。当時私は数ヘラーほど支払って私の生涯ではじめての反ユダヤ主義のパンフレットを買った。遺憾ながらこれらのパンフレットは、すべて原則として、読者がすでにユダヤ人問題を少なくともかなりの程度まで知っているか、きわめてよく理解しているという立場から出発していた。けっきょくその論調は大部分、その主張に対する非常に浅薄で極度に非科学的な論証であったため、私はまたしても疑いを生ぜしめるようなものであった。私がこの問題に没頭し始めて、ユダヤ人に注意するようになって以来、ヴィーンについて以前と違った印象を受けたからである。いつも私が行くところで実際にユダヤ人を見た。そして私が見れば見るほど、彼らが他の人間と違っているのが、ますますはっきりと見えてきたのである。特に市の中央部とドーナウ運河の北部の区域は、外見的にもドイツ民族と似通っていない民族が密集していた

ヴィーンではかなり広範囲に彼らの間で大きな運動が行われていたが、これこそユダヤ人の民族性をこの上も無くはっきりと証明するものであった。すなわちシオン主義がそれである。この民族の道徳上の、あるいはそのほかの清潔さと言うもの自体が問題点であった。水好きでないことが問題であることは、人々がその外見を見ただけで、遺憾ながら往々にして目を閉じていてもわかる。その後私は幾度もカフタンをまとっているものの臭気で気持ちが悪くなった。その上なお、汚い衣服をつけているし、外貌も雄雄しくない。すでにこうしたものだけでも、はなはだ人をひきつけるところが無い。肉体的な不潔以上にはからずも、この選ばれた民族の道徳的汚点を発見したときは、嫌悪の情を抱かずにはおれなかった


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ヒトラーが言うところの当時のドイツにいた"ユダヤ人"とは何者だったのだろうか? 現代でも「ユダヤ人とは何者か?」という誰も答えられない難問ではあるのだが、カフタンで黒髪でトルコ系移民のことを指していたのだろうか。ここでは少なくとも見かけで判断しているので、アシュケナージかスファラディかくらいでは語れそうではあるが、アンネの日記の写真で見る限りでは、少なくともパレスチナ人をユダヤとは言っていそうも無い。


社会民主党の指導者としてのユダヤ人 彼らは同じ問題について時には数日で、往々にして数時間で、色々の立場をとるのだ。人間と言うものは一人でしゃべっておればいつも理性的な考え方を持っているのに、それが大衆の勢力圏に入ってしまうと、どうして突然失われるのか私はわからなかった。しばしば絶望的になった。私が何時間もかかって説得し、こんどこそ端緒を開いてやった。あるいは不合理を啓蒙してやったと確信して、成功を心から喜んでいると、次の日にはがっかりしてもう一度初めからやり直さなければならなかった。すべては無駄だった。永遠の振り子のように、彼らの常軌を逸しているような考え方がいつも新たにはねかえすように思えた。彼らが自分たちの宿命に不満であり、彼らをしばしばそんなにも過酷にうちのめした運命をのろい、かれらがこの運命の無情な執行人と考えている企業家を憎み、彼らの目から見れば自らの遭遇に対して無情な当局を罵倒し、食品価格に対してデモを行い、彼らの要求のために街を練り歩いたこと、これらすべてをそのとき私は理解することができた。しかし理解できなかったものは、彼らが事故の民族性を憎悪し、その偉大さを侮蔑し、そして偉大な人々をドブに引きずりこんだ果てしない憎悪の念であった。

ユダヤ的詭弁 社会民主党の新聞が圧倒的にユダヤ人によって指導されていることに私は次第に通暁した。しかし私はこの状態に、特別の意味を負わせなかった。他の新聞の状態も同じようであった。おそらくは一つだけ異様なことがあった。私の受けた教育と理解力が及ぶ限りでは真に国家主義的と称される新聞でユダヤ人が関係しているものが一つもなかった、ということである。そこで私は我慢してこの種のマルクシズムの新聞記事を読もうとしたが、それに応じて毛の間が無限に大きくなってくるので、今度はこの総括的な悪事製造者をもっと詳しく知ろうとした。発行人をはじめとして、みんなユダヤ人だった。議会の代議士を問題にしても、労働組合の初期を問題にしても、また組織の議長、街頭の先導者を問題にしてみても、そのほとんど大部分が同様に「選ばれた民族」に属しているものたちであった。アウステルリッツ、ダーヴィット、アドラー、エレンボーゲン等の名は永遠に忘れないだろう。


排他的だなー・・・。ユダヤのメディア・労働組合・政党を批判している。


オーストリアのドイツ人 オーストリアといわれる他民族組織はついに没落したが、これは決して古くからオストマルクにいるドイツ人の政治的手腕のせいとは言えず、時機を得たときにまったくしっかりした前提を与えられなければ、1千万の人間でもって種種の民族からなる5千万人の国家を永続的に維持することができない、という避けえない結果であった。ドイツ系オーストリア人は大志を抱いていた。彼らは常に大ドイツ帝国の枠内で生活することに慣れており、ドイツに関連している課題に対する感覚を決して失っていなかった。彼らはこの国家において、狭いオーストリア帝国直轄地の境界を越えて、なおドイツの領域を見ていた唯一の人間であった。そのうえ運命が彼らをついに共通の祖国から分離したとき、彼らはこの巨大な課題を解決し、祖父たちが絶え間ない闘争でかつて東部からもぎ取ったドイツ主義をいつもなお維持しようとしたのだった。最も優れたものの心と追憶は、決して共通の母国を感ずることをやめたのではなく、ただその残余だけが故郷にとどまっていたからである。
 ドイツ系オーストリア人の一般的視野は比較的広かった。技術屋や官吏という指導的人員は大部分、ドイツ系オーストリア人によって占められていた。だがかれらはまた、ユダヤ人がその固有の分野に手を伸ばさない限り、外国貿易の担い手でもあった。政治的にもドイツ系オーストリア人だけがなお国家をまとめていた。ドイツ系オーストリア人の新兵は、その連帯自体はヴィーンやガリシアはもちろんのこと、ヘルツェゴーヴィナにもおかれていた。将校団は常にドイツ人であったし、上級官吏階級も優勢だった。最後に芸術や科学もドイツ人が優勢だった。異色人種でも間違いなく無造作に作り出せるような近代芸術表現のキワ物をのぞけば、真の芸術精神の所有者や普及者は、ただドイツ人のみであった。音楽、建築、彫刻、絵画でも、ヴィーンは決して実に見えるほど枯渇しておらず、汲めども尽きぬ豊富さで、この二重王国全般をささえている源泉であった。最後にドイツ人は少数のハンガリー人をのぞけば、すべての外交の担い手であった。かれでもなお、この帝国を維持しようとするすべての試みは無駄であった。そこには本質的に前提が欠けているからである。

オーストリアと言う多民族国家のために、個々の国民の遠心力を克服する可能性はタダ一つだけであった。この国が中央集権で統治され、それでもって内政的にも組織されるか、あるいは国家が一般に考えられぬかであった。帝国をもっと連邦国家的に形成するという考えはすべて、すぐれた権力ある強力な国家的胚細胞を欠いているため必ず失敗に終わらねばならなかった。そのうえ、ビスマルクのつかんでいるドイツ帝国と反対に、オーストリア国家には別の本質的な国内的前提条件が加わっていた。ドイツでは常に文化的に共通の基盤があったから政治的伝統を克服することだけが問題であった。何よりもまずドイツ帝国は、少数の異民族の破片をのぞけば、一民族に属するものだけを包括していた。オーストリアでは状態が逆であった
 今やいろいろの地方で他民族主義の時代に入って、民族主義的勢力が発展し、その克服は王国の辺境に民族国家が形成され始めるにしたがって困難にならざるをえなくなった。その諸民族は人種的にオーストリアに散在する個々の民族と同類化類似していて、彼らの側では、逆にドイツ系オーストリア人がなしうる以上の引力を、それ以来及ぼすことができたのである。古いオーストリアは、他国以上に指導力が大きくなければならなかった。そのうえにここには-指揮そのものも非常に無能だったが-民族主義的な基礎の上にたえずその維持力をもっている国民国家の基礎が欠けていた。


オーストリアに対する懸念。そしてそこから議会主義批判へと発展していく。


議会主義 はっきりとオーストリア王国の腐食を示しうる制度の中で、その先端にあって、最も多くその力を自己のものとして持っている制度が-議会、あるいはオーストリアでいうライヒスラート(帝国評議会)である。この団体の手本は明らかに、イギリス、すなわち古典的「民主主義」の国にあった。そこからこの恵まれた機構を完全に転用し、それをできる限り変えずにヴィーンに置いたのである。衆議院と貴族院という形でイギリスの両院組織がその再生を祝った。

Palace-of-Westminster.jpg

 ただ「建物」」自体がいくらか違っていた。バリィ(サー・チャールズ・バリィ、1795-1860年、イギリスの建築家でロンドンの国会議事堂をつくったが、イギリス・ゴシック式を採用し、イギリスの建築彫刻の一大飛躍をなしたといわれる。)がかつてテムズの洋々たる流れから議事堂を作り上げたとき彼は世界に冠たる大英帝国の歴史の中に手を入れ、その中から彼の壮麗な建築物の1200の壁がん、腕木、柱の飾りを選び出した。そのようにして彫刻と絵画で、上院と下院は国民の名誉の殿堂になった。ヴィーンにとってはここに最初の困難があった。というのはデンマーク人ハンセンが、新しい民衆代表の大理石建築に最後の破風をつけ終わったとき、彼は装飾を古代芸術から借りてくる以外に方法が無かった。ローマやギリシアの政治家や哲学者が今ではこの「西欧的民主主義」の劇場の建物に美をそえ、そして象徴的な皮肉とも言えるものは、両院の上に四頭立ての馬車が東西南北の四方の天空に向かって引っぱりあい、これによって当時国内で行われていたことを、外部に最もよく表現していることである。「諸民族たち」はこの建物の中で、オーストリアの歴史が賛美されているのを侮辱であり挑発であるとして拒否した。


さすが建設と歴史には造詣が深い。国会議事堂の建造物から否定してきたかw

【民族意識系】
2013.03.11 藤原氏の正体 2/4 ~中臣鎌足とは? その出自
2013.01.21|民族世界地図 1/2
2012.11.12 もっと知りたいインドネシア 2/3 ~地理と民族
2012.10.05|宋と中央ユーラシア 4/4 ~ウイグル問題
2012.04.25|美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本

太平洋戦争の戦前戦中、三度総理大臣の座に就いた近衛文麿は、昭和天皇に政務を上奏する時、椅子に座り、足を組んだままで、涼しい顔をしていたという。もちろん周囲の顰蹙を買ったが、このような不謹慎が許されたのには訳がある。近衛氏が藤原五摂家の筆頭だったからにほかならない。五摂家は7世紀の大物政治家・藤原不比等の4人の男子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂のなかの房前の末裔、藤原北家が5つの家に別れ(近衛、九条、二条、一条、鷹司)、平安時代以来、明治にいたるまで、代々摂政と関白を排出する一族として、貴族社会の頂点に君臨してきたのである。
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後続を殺めた数という点では藤原氏の右に出る者はいない。長屋王、安積親王、井上内親王など、正史が認めたもの、認めていないものも含めて、藤原氏は邪魔になった皇族をいとも簡単に闇に葬り去っている。幕末の孝明天皇の死にも不審な点がある。第121代孝明天皇(在位1846~66年)は若手公家たちが討幕運動に走る中、公武合体を推し進めようとしていた。京都守護職の松平容保、一橋慶喜(第15代将軍)らと手を組んで長州藩らの尊王攘夷派集団を排斥し、その直後に病死する。この死には暗殺説が根強く、例えば平凡社の『世界大百科事典5』(1984年初版)は、この年疱瘡を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い。と指摘しているほどである。あえて百科辞典の記述を引用したのは、、それほどまでに暗殺説が定着している証だからである。

官中の密室殺人。しかもその密室は「藤原」の自宅のような場所であった。なぜなら、近世の公家はそのほとんどが藤原系だからだ。すなわち、この暗殺事件には、藤原が大きくかかわっていなければなしえないのである。このように天皇は長い間、藤原の私物であった。天皇をいかに操ろうが、藤原の買ってだったのである。近衛文麿の不遜も、その根源は藤原の歴史の中に隠されているのである。近代にいたっても、藤原による天皇家支配は続いた。明治天皇、大正天皇の皇后は、ことごとく藤原氏の女人であり、昭和天皇の皇后も藤原の血をひいていたから藤原による皇室支配は近代に引き継がれたのである。したがって、今上天皇が藤原とは無縁の美智子妃を選ばれた時、藤原氏の末裔は少なからず衝撃を受けたはずである。美智子妃が官中で散々嫌がらせを受けたという話はワイドショー的であまり詮索はしたくないが、その理由も「藤原と天皇家」の歴史を念頭におかなければ理解できるものではない。その点、今上天皇のご行動はご本人が意図的に選択されたかどうかは別として、歴史的な意味を持っていたのであって、またあ、多くの妨害があったであろう中での英断は、たたえられるべきものなのである。

謎に包まれた藤原氏の出自

藤原市最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、いまだに出自がはっきりしていないということである。少し歴史に詳しい方なら「日本書紀」の神話に中臣氏の祖神が登場するのだから出自は明白ではないかと思われるかもしれない。中臣氏の始祖は神話の中に見出すことができる。「日本書紀」神代上(かみのよのかみのまさ)大七段本文には、天照大神の天の岩屋戸神話があり、そこで中臣氏の祖神が大活躍をしている。

天照大神は不審に思った「私が岩窟に籠ったのだから、豊芦原中国は、かならず闇夜のはずなのに、なぜ天鈿女命(あまのうずめのみこと)は楽しそうに踊り狂っているのだろう」 そういってためしにと、磐戸をそっと開けてみた。その時待ち構えていた手力雄神が天照大神の手を取り、天石窟から引きずり出したのである。ここで中臣神・忌部神が端出之縄しりくめなわ(注連縄しめなわ)を引き渡し、「もう二度と中に戻されますな」と告げたのである。

こうしてみてくれば、日本でもっとも権威のある神・天照大神の天の岩屋戸隠れで、中臣氏の祖神・天児屋命が重要な役割を負っていたことがわかる。中臣氏の正統性は正史の中で証明されていたのである。では何が問題になってくるかというと3点挙げることができる。まず第一に、中臣鎌足の登場まで中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。第二に、その中臣鎌足も何の前触れもなく、唐突に歴史に登場する。しかも正史「日本書紀」を読んだかぎりでは、中臣鎌足の父母さえはっきりしない。第三に、中臣鎌足の末裔の藤原氏は、どういう理由からか、中臣鎌足は常陸国の鹿島からやってきたと捉えていたふしがある。正史日本書紀の中で証明された正統性をなぜ自ら疑ってかかったのか、説明がつかないのである。

歴史時代の中臣氏のさえない活躍

日本書紀の中で中臣鎌足以前の中臣氏のめぼしい行動を拾い上げていってみよう。神武即位前紀には、菟狭国造の祖・菟狭津媛が中臣氏の遠祖・天種子命の妻となったという話がある。垂仁天皇紀25年春2月の条には、5人の大夫の名が連なり、その中に中臣連の遠祖・大鹿島の名が見える。神功皇后が中臣烏賊津連らに仲哀天皇の崩御を秘匿するように命じる場面。日本書紀の記事は伝説の域を出ていない。6世紀の段階に入ると生々しい権力闘争の中に、中臣氏が登場してくる。欽明天皇紀13年10月には、仏教を導入しようと朝廷に働き掛ける蘇我稲目に対し、物部大連尾輿とともに中臣連鎌子(中臣鎌足とは別人)が、仏教を蕃神と罵りもし仏教を取り入れればおそらくは国つ神の怒りを買うに違いないと抗議している。敏達天皇紀14年3月の条には仏教をあがめようとする天皇に対し、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫が次のように奏上している。「なぜ陛下は我々の言葉をお信じになられないのでしょう。欽明天皇の御世より陛下の世にいたるまで疫病はちまたにはやり、人々が絶えてしまおうとしております。これはすなわち、蘇我臣が仏教を広めているからにほかなりません。」 こうして崇仏派と廃仏派の衝突が始まり、同年6月、物部弓削守屋大連や中臣磐余連は寺を焼き、仏像を捨てたと記す。舒明天皇即位前紀には、推古天皇の崩御を受けて、次期後継者問題が浮上する中、中臣連弥気なる人物が、蘇我蝦夷を推す田村皇子の即位に同意する発言を行っている。ここに現われる中臣連弥気は『新撰姓氏録』に中臣鎌足の父とある御食子と同一であろう、と考えられている。神代の大活躍が嘘であったかのように、中臣氏の記述は地味で目立たない。6世紀、排仏派としての中臣氏がクローズアップされるにすぎない。また、古事記にいたっては神話をのぞいて中臣氏はいっさい姿を見せないのである。

中臣鎌足の初出は皇極3年(644年)の神祇伯抜擢記事であった。ただ、ここで中臣鎌足はまったく前後の脈絡なく登場している。後世の大織冠伝や中臣氏系図の中で、中臣鎌足の父は御食子と明記されているにもかかわらず、なぜ鎌足の系譜ははっきりと示されなかったのであろう。大織冠伝では中臣鎌足はヤマトの高市郡の人で天児屋命の末裔であること。御食子の長子で、母は大伴夫人といい、推古34年(622年)に藤原で生まれた。大織冠伝は奈良時代後期の政治家・藤原仲麻呂の手で編纂された760年前後の歴史書である。一度没落した藤原氏を復興させ、独裁権力を手中にした藤原仲麻呂が藤原氏の正当性を喧伝し、自家の「輝かしい歴史」を後世に書きとどめようとしたのが大織冠伝だったわけだ。日本書紀は720年に編纂された。藤原不比等が確固たる政治体制を固めた時代だった。とするならば日本書紀は藤原氏の正当性、正統性を主張するために書かれた歴史書とみて見て間違いない

後世の藤原氏は中臣鎌足が常陸国の鹿嶋からやってきたのではないかと考えていた節がある。平安時代後期に成立した歴史物語『大鏡』には、次のようにある。ちなみにこの物語は藤原道長をはじめとする摂関家を列伝風に記したものである。大鏡は中臣鎌足はもともと常陸国の人だったというのである。さらに中臣鎌足出現以来、中臣の氏神が祀られる鹿島神宮には歴代天皇が即位されるに際し、必ず御幣の使いが出されてきた、と記録している。そして都が平城京に遷ってからは、鹿嶋は遠いので、都の東側の三笠山に勧請し、春日明神として祀るようになった、とする。この記述だけをもって藤原氏自身が中臣鎌足の出身を常陸と考えていたと決めつけることはできない。奈良時代、藤原仲麻呂が関わった大織冠伝には、自家の祖を日本書紀同様神代の天児屋命であったと主張している。ところが奇妙なのだが、藤原氏が祀る奈良の春日大社には、常陸の鹿島神宮と下総の香取神社の神が勧請されている。しかも、東国から招かれた二柱の神が藤原氏の祖である天児屋命よりも厚く丁重に祀られているのである。

中臣氏の出自をめぐる2つの仮説

第一の仮説 大鏡による常陸の国の鹿嶋説
 なぜ日本書紀がせっかく構築した天児屋命の末裔とする図式を無視する必要があるのか。
第二の仮説 大阪東大阪市の中臣氏の末裔説
 春日大社に鹿嶋と香取の祭神を勧請したという説明がつかない。

第三の仮説として

平安初期大同2年(807)に記された『古語拾遺』である。8世紀から9世紀、他の豪族を圧倒する藤原氏に対し、官人・斎部広成は中臣氏の祭祀独占に噛みつき古語拾遺を記した。平安初期にいたり、いくつかの古伝承やしきたりが失われたことを指摘し、御歳神の古伝承を付け加え、斎部広成自身の恨みとは、本来神道祭祀の同僚であった中臣氏が斎部氏を従者のように従えていることだという。大化の改新以来、中臣氏に権力が集中してしまったのだ。この結果、天平時代、神帳(各地の祭祀の実態を記録した帳簿)を作った時は、中臣氏が権力に任せ、小さな神社でも縁のあるものは取り上げ、大きな神社でも中臣氏と縁の無いものは切り捨てられたという。八世紀後半になると、中臣氏は勝手に奏上する詞を改変し、自家に有利な働きかけをし、斎部氏を従者に仕立て上げてしまった、というのである。

中臣氏が天皇家の三種の神器の一つ、草薙の剣を軽視し、ろくに祀りもしなくなってしまったと憤慨していた。なぜこのようなことになってしまったかといえば、おそらく、黒作懸偑刀を藤原不比等が持ち出したことと無縁ではなかろう。黒作懸偑刀の話は『東大寺献物帳』に載っている。それによればはじめ持統天皇の皇子・草壁が常に持ち歩いていたこの刀を、草壁皇子は藤原不比等に賜ったのだという。草壁皇子の死後、持統天皇が即位し、さらに草壁皇子の子・文武天皇の即位に際し、不比等はこの刀を献上した。慶雲4年(707)文武天皇崩御に際し、ふたたび黒作懸偑刀は不比等に下賜され、そして不比等は、首皇子(聖武天皇)に献上した、というのである。まるで黒作懸偑刀こそが草壁から孫の聖武に至る、皇位継承のレガリヤであるかのようだ。

藤原氏と神道祭祀にもっとも近い一族なのであれば、過去の権威を否定するような小道具を用意したのであろうか。藤原氏は本当の「神道」から疎外されていたのではあるまいか。本当の神道とは物部と出雲の作り上げた信仰形態である。中臣鎌足は、忽然と日本書紀に姿を現した。無位無冠の人間がなぜいきなり神祇伯抜擢という僥倖を得たのだろう。超一流の豪族・物部氏と密接な関係にあり、だからこそ朝廷の祭祀と深くかかわっていたこの一族はなぜ物部氏との因果を日本書紀の中で否定しまったのであろう。結論を先に行ってしまえば、中臣鎌足は、当時朝鮮半島の百済から人質として来日していた、百済王・豊璋その人ではないかと筆者は考えている。

【民族意識系】
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2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本



7世紀、逆臣蘇我入鹿誅殺で活躍した藤原(中臣)鎌足の登場以来、藤原一族は、日本の頂点に君臨し続けた。極論すれば日本の歴史は、藤原氏の歴史そのものなのである。平安時代、藤原道長は

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば

という傲慢極まりない歌を残した。傲慢だが事実である。朝堂は藤原一党に牛耳られ、他の氏族は藤原氏のご機嫌をうかがい、平伏するほか手はなくなっていたのである。藤原摂関家は日本各地の土地を貪欲にもぎ取り、「他人が錐を突き立てる隙もないほどの領土を一人占めしている」と批難されるほどであった。
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大化の改新は本当に正義の改革だったのか

藤原氏といえば、中臣(藤原)鎌足の名がすぐにあがるだろう。中臣鎌足は西暦645年、乙己の変で逆臣蘇我入鹿を討ち滅ぼしたと『日本書紀』にはあり、学校の授業で誰もが習う人物だ。

蘇我馬子は蘇我系の推古女帝(母が蘇我の出)を担ぎ上げ、同じく母が蘇我出身の聖徳太子を摂政に押し立てて完璧な蘇我氏の全盛期を確立したのである。皇極女帝は蘇我蝦夷を大臣として留任させたが蝦夷の子入鹿は勝手に国政に参与した。蘇我蝦夷は葛城の高宮に祖廟を造り、祖廟も八佾の舞もどちらも中国では皇帝にのみ許された特権であり蘇我氏の増長が誰の目にも明らかになっていた。蝦夷と入鹿は二つの墓を造り、蝦夷の墓を大陵、入鹿の墓を小陵と名付けたという。ここにいう「陵」とは天皇の墓を意味している。

腑に落ちない「日本書紀」の分注

入鹿暗殺直後の古人大兄皇子の叫んだ一言である。古人大兄皇子は蘇我入鹿の後押しを得て、皇位を狙っていた人物であり、こののち中大兄皇子と対立し、滅亡に追い込まれている。入鹿暗殺直後、古人大兄皇子は自宅に駆け込んで次のように叫んでいる。
韓人、鞍作臣を殺しつ。(韓政に因りて誅せらるると謂ふ。)吾が心痛し。
これによると「韓人」が蘇我入鹿を殺した。胸が張り裂けそうだ・・・というのだ。そして「日本書紀」の分注(カッコ内)は、「韓人」について、「韓の人=朝鮮半島からやってきた人」の意味ではなく、「韓政=朝鮮半島をめぐる外交問題」が原因で殺されたのだと記しているのである。この一節には二つの問題がある。

まず第一に、仮に分注を無視し「韓人」を「韓の人」と解釈すると、これに該当する人物が見当たらない、ということである。飛鳥板蓋宮大極殿で入鹿が殺された時、実行犯の中に「韓人=渡来人、あるいは渡来系豪族」は存在しない。このため「韓人」については色々な解釈がある。三韓の調進の場を利用しての暗殺劇だから「韓人のために」と暗示的に記した、とする考え。また三韓の使者はそもそも偽物で中大兄皇子らとともに入鹿に襲いかかったのではないか、などといった考え方がある。分注の「韓政」を重視するならば、蘇我入鹿暗殺は蘇我本宗家の専横が原因だったのではなく、中大兄皇子と蘇我本宗家の外交姿勢の隔たりが事件の根源に隠されていたことになる。乙巳の変の入鹿暗殺にいたる道のりは、明快な勧善懲悪の物語に仕上がっている。それにもかかわらず、なぜ入鹿の死後に、不可解な謎を日本書紀の編者は用意したのだろう

蘇我入鹿暗殺直後、皇極天皇は譲位の意志を固めた。息子の中大兄皇子に即位を促したのである。だが、中臣鎌足はこれを制止する。「あなた様には、中大兄皇子という兄(舒明天皇と蘇我系の女人から生まれた)、そして軽皇子(孝徳天皇)という叔父がおられます。もしこの状態で即位されましたら、年下の者としての道を外すことになりましょう。ですから、しばらく叔父の軽皇子を押し立てて人々(民)の望みを叶えた方が得策にございます。」この進言を受けて中大兄皇子は即位を断念する。こうして孝徳天皇は誕生した。なぜこのとき中大兄皇子は即位を先延ばしにしたのかといえば、一般には次のように考えられている。すなわち、皇太子という地位にいることで、自由な活動ができる道を選んだ、というのだ。名よりも実を取ったことになる。

孝徳天皇と中大兄皇子はこののちたびたび衝突を繰り返し、結局二人は決定的な破局を迎えるのである。中大兄皇子は孝徳天皇から正妃や官人らを引きはがし、孤立させてしまうのである。しかし中大兄皇子に対する民衆の期待度が、我々の想像しているような代物ではなかったのではないか、という疑いもある。乙己の変の直後から中大兄皇子の住む宮はたびたび不審火に包まれていたからである。そして同時に中大兄皇子に対する人々の不満が爆発しているからなのである。歴代天皇を見渡しても、これだけ「火事」と縁のある人物はいない。665年飛鳥板蓋宮、666年岡本宮、667年大和から近江に都を遷すがいたるところで火災が起きていた。669年天智天皇の政権の中枢に不可解な火の手が上がっている。

中大兄皇子に対する民衆の反発には一つの頂点がある。それは日本史上最大の国家存亡の危機、白村江の戦の前後である。民衆は百済救援を無謀と判断していたからであろう。ヤマト朝廷軍は白村江の会戦で唐と新羅の連合軍の前に完膚なきまで叩きのめされ、百済は滅亡した。そして唐の大軍が日本列島に押し寄せるかもしれないという悪夢のシナリオが予想されたのである。中大兄皇子は必死に西日本各地に城郭を築いた。唐が百済滅亡後、、攻める矛先を日本ではなく「まず高句麗」と判断したことでかろうじて日本は救われた。高句麗滅亡後、新羅が唐に反旗を翻し、唐はヤマト朝廷に対し懐柔策を採ってきたのである。667年、九死に一生を得た中大兄皇子は都を近江に遷す。遷都には反対論が根強く、民衆は各地で暴徒と化した。日本書紀の言うような蘇我氏の専横、これに対する中大兄皇子、中臣鎌足の正義の戦いこそが乙巳の変(大化の改新)であったという常識をまず疑ってかかる必要がある。このことは中臣鎌足の不可解な死ともかかわりを持ってくる。

669年冬10月の10日から16日にかけて、日本書紀は中臣鎌足の死に至る事情を次のように説明している。10日、天智天皇は中臣鎌足(日本書紀には藤原内大臣とある)の家に行幸し、病に伏せった中臣鎌足を見舞っている。15日東宮大皇弟(大海人皇子)が見舞い、この時、中臣鎌足に大織冠と大臣の位が授けられ、姓を藤原と改めたという。そして翌日藤原鎌足は薨去したのである。不思議なのは中臣鎌足の死が唐突にやってきたことである。同年5月、天智天皇は山科野に狩りに出かけ、中臣鎌足はこれに従い元気な姿を見せていた、とある。問題は鎌足の死の直前、「是の秋」の条に奇妙な記事が載せられていることである。

藤原内大臣の家に霹靂せり。

すなわち中臣鎌足の館に落雷があったというのである。落雷は古来祟りの象徴だったのである。したがって中臣鎌足の発病が尋常ならざる原因に因っていたことを落雷記事は暗示していたことになる。ここで強調しておきたいのは、乙巳の変の立役者で他人様に恨まれるような行為をしたことが無いはずの中臣鎌足が、祟りで死んでいったという一点である。

日本書紀は蘇我入鹿こそが、天皇家をないがしろにした、という。しかし、中臣鎌足が天皇家のために身を粉にしたかというと、大きな疑問符が付きまとう。藤原氏は中臣鎌足以来、つねに日本の頂点に君臨し続けた。しかもそれは一貫して「天皇家のため」ではなく、自家の繁栄のためだったように思えてならない。藤原氏にとって天皇とは自家の繁栄を継続するための道具にすぎなかったのではなかったか。実際、現代にいたっても藤原氏は「天皇に最も近い一族」という立場を利用し、目に見えない閨閥を作り上げてしまっているのである。

【愛国者・民族主義者】
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民族の不定義、みな勝手な定義な定義にしたがって、勝手な基準に基づいて計算するからそうなる。「民族の定義」などというものはないに等しく、存在するのは「民族の不定義」だけというべきだろう。

どうして民族を定義しなければ国家が成り立たないという事態に追い込まれたケースがある。イスラエルである。「ユダヤ国家」を前提に建国されたからで、世界からユダヤ人を招き寄せ、それを選別する必要上、「ユダヤ人とは何か」の基準を設けなければならないわけだ。国家の基本要素の一つは国民であるが、不安定なイスラエルへの移住に二の足を踏むユダヤ人、いったんはイスラエルに来たものの安住できずにまた他へ移住するユダヤ人もある。国民を確保するために、ユダヤ人として素姓の定かでないものを受け入れたりした。それではユダヤ国家としての純粋性を、やがて維持しにくくなる。


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イスラエル政府はまず、ある人物について、本人がユダヤ人と申告するか、またはその両親が申告すれば、その人をユダヤ人と認めることにした申告制度である。ではユダヤ人の両親から生まれたユダヤ人が他の宗教に改宗したら、ユダヤ人でなくなるのか。もし片方の親がユダヤ人であることを条件にして、その子供をユダヤ人と認めるとしたら、その親は母親であるべきか父親であるべきか、どちらでもよいとするか。両親が非ユダヤ人であっても子供がユダヤ教に改宗すればユダヤ人とみてよいか。本人も両親もユダヤ教徒だと申告しているのに、日常的にユダヤ教の戒律を守っていない場合、ユダヤ人と認定できるか。そんな疑問やら問題点が実例によって続出してきたのである。そこで「ユダヤ帰還法」が制定され、その中にユダヤ人の定義がなされた。ユダヤ人とは「ユダヤ人の母から生まれた者、ユダヤ教に改宗した者、そして他の宗教の信者でない者」というのである。

ユダヤ教には宗派があり、どの宗派で改宗するのかが問題になった。ユダヤ純粋性保持で最も原則にこだわるマフダル(国家宗教党)は、改宗の儀式はユダヤ教正統派によるべきで、ユダヤ教改革派やユダヤ教保守派によるものは、認められないと主張した。1986年、イスラエル内務省もついにこの立場に同調し、ユダヤ教に改宗した移民に対して「正統派ユダヤ教に改宗した」とのスタンプを押した身分証明書の提出を支持している。

>嘘に始まった国家は、嘘に嘘を塗り固めていかないと存続できないのだろう。


香港の民族構成は中国系98%、その他2%であるが、中国系では広東省系の漢族が圧倒的に多く、したがって広東語が日常的に使用される。香港住民が英国国籍を持つのは当然であるが、英国は経済困難に加え、旧植民地から多数の移民を抱えて社会的に微妙な問題を引き起こしているため、香港からの移住を規制する措置をとった。その最たるものが1981年、英国が行った国籍法改訂だった。英国国籍者を三種類に分類し、英国移住を認めない「属領市民」という項目に香港住民を押しこんでしまったのだ。

マカオの民族構成も香港と似かよっている。中国系95%、ポルトガル系3%、マカオ系2%。返還とともにだれもが中国国籍となるが、二重国籍を容認するポルトガルは総人口の30%にポルトガル旅券を発行済みである。二重国籍を認めない中国は、ポルトガル旅券を保持するマカオ市民が海外でポルトガル国籍を使うのは自由、ただし中国国内ではポルトガル公館で便宜を受けてはならぬ、との巧妙な方法で妥協にこぎつけている。

アルメニア問題

クレムリンがアゼルバイジャンに武力介入した時、武力行使の名目が「アルメニア人迫害阻止」であったため、かねてキリスト教徒のアルメニア人に同情的な欧米は正面から非難したくなかったのだ。アルメニア人の総数は推定650万人以上、旧ソ連に460万(アルメニア共和国に350万)、他にトルコ、イラン、欧米などに200万以上といわれる。アルメニア人に関する最古の記録は紀元前14世紀に見え、居住地は現在のトルコ東部とカスピ海の間で変化してきた。紀元前7世紀頃流れてきたアーリア人と混血、インド・ヨーロッパ語族のアルメニア語を話し、4世紀に世界で初めてキリスト教を民族宗教に採用した。第二はオスマン・トルコのアルメニア人虐殺だ。第1次大戦が始まるや、支配下のアルメニア人の反乱を恐れたオスマン・トルコは1915年彼らにメソポタミア砂漠への強制移住例を出す。混乱の末、アルメニア側は「150万人以上のアルメニア人が虐殺された」と主張、オスマン・トルコ崩壊後に誕生した現在のトルコ共和国政府は「多くは移住の途中で病死かが死したのだ」と弁明してきた。

87年、欧州議会が採択したアルメニア決議、トルコはECに加盟を申請中だが、トルコがアルメニア人大虐殺を認めなければEC加盟を認めないという内容だ。88年アゼルバイジャン共和国内のナゴルノ・カラバフ自治州(人口の80%がアルメニア人)はアルメニア共和国への所属変更を決議した。「大虐殺」のトルコ民族に近いイスラム系アゼルバイジャン共和国所属(実質的な従属)には耐えられぬということだ。89年、アルメニア共和国は「4月24日をアルメニア人大虐殺を追憶する国民祝日とする」と宣言した。

モルダビア

ルーマニア・ソ連国境をなしたプルト川の東はかねてべッサラビア、西はモルドバと呼ばれた。モルドバの人、つまりモルダビア人が14世紀に興したモルダビア候国がベッサラビアを領有し、川の東側にもモルダビアの呼称があてられるようになった。第二次世界大戦後、ソ連邦を構成する共和国が川の東に樹立された時も「モルダビア」と名付けられたのだ。1812年、ロシアが川以東のモルダビアを領有してからモルダビア人の間に反ロシア感情が芽生える。19世紀半ば、モルダビア候国は南のワラキア公国と統一し、1881年ルーマニア王国となる。第一次大戦とソビエト革命で混乱した1918年にはルーマニアが武力で領有した。第二次大戦ではナチス・ドイツも登場する。ソ連が独ソ不可侵条約により占領(1940年)、モルダビア共和国を樹立させた。独ソ戦になり、ルーマニア・ドイツ両軍がこれを3年間支配したところでソ連軍が奪還、1947年ルーマニアはついに川以東のソ連帰属を承認したのだ。モルダビア共和国は91年5月、「モルドヴァ共和国」と改名した上、8月にソ連からの独立を宣言、ソ連崩壊後は独立国家共同体(CIS)に加盟した。ところがモルダビア共和国内で少数民族となる約75万人のロシア系やウクライナ系の住民が不満を抱いて「国の中の国」というべき「ドニエストル共和国」を宣言。92年にはこれを支持するロシア軍とモルダビア共和国軍の大規模な軍事衝突にまで発展した。またトルコ系住民も「ガガウス共和国」を宣言している。

中国内朝鮮民族

朝鮮人の中国移入が始まったのは、17世紀から国境付近の貧民がより良い生活を求めて移動しながら中国側に入り込んでいるが小規模であった。むしろ日韓併合(1910年)後に、農地接収、日本人の朝鮮半島移入、半島産米の日本輸出などで貧窮した農民が、中国へ流れ込み、そこに水田耕作を定着させたと言われる。日本は彼らを「日本臣民」扱いして満州進出に利用した面もある。満州国建国(1932年)後、流れは加速し、終戦直前の在満朝鮮人は215万を数えた。

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